第11話 密会所に風を入れろ
明鐘がひとつ、塔を鳴らした。
夜の王都は薄い霧にくるまれ、灯りの色が石畳に滲んでいる。俺たちは会議棟の裏手――物資搬入口の陰で、最後の確認をしていた。
「手順は三つ。一、入口の死角で入替を仕込む。二、音を殺して“鍵番”を中へ通す。三、密会が始まった瞬間に〈展開:陣〉を起動、逃げ道をこちらが決める」
俺の小声に、三人が順に頷く。
アリシアは鞘に手を置き、ミリアは携帯の祈り台を胸元に抱き、ガイウスは肩を回して関節の鳴る音を確かめた。
「血は流さない。できればね」
「『できれば』の範囲を広げすぎるなよ」アリシアが口の端で笑う。
「任せろ。竜は外郭だが、響かせる合図は決めてある」(ガイウス)
明鐘がもうひとつ。時刻だ。
回廊の角、衛兵が交替で離れる三分の空白――リゼルの“風”が教えた隙に、俺は杖先を床へ軽く当てる。
〈展開:静〉
音の層を薄くし、靴底の擦れる音を吸わせる。
〈支援:視〉を重ね、回廊の曲がり角と柱の影を一枚の地図のように捉える。
扉前に、片耳の欠けた小柄な影。革袋と鍵束――模写で印のついていた“鍵番”だ。背後には覆面の従者が一人。
俺はアリシアに目配せし、彼女はすっと背後へ回り込む。ミリアが短い祈りで空気を鎮め、ガイウスが、ただ“いるだけ”で退路を塞いだ。
「――鍵の音が高いな」
俺が声をかけると、男が肩を跳ねさせた。片耳の影が揺れる。
「だ、誰だ」
「参議。補助術師の。今夜の“密会”は風通しをよくしてやろうと思ってね」
男の喉仏が上下する。覆面の従者が一歩出かけた刹那、アリシアの鞘が軽く肩に触れた。抜刀していない。ただ、動きを止めるだけの速さと圧。
「鍵を鳴らすな。鳴けば鼠が逃げる」
低い声に、従者が固まる。
俺は片耳の男の前にしゃがみ、目線を合わせた。
掌に銀粉をひとつまみ。ふう、と息で舞わせる。
「三つ聞く。一、誰の指図か。二、どの印が本物か。三、今夜、誰が来る」
男は首を振った。「し、知らねえ、俺はただ……」
〈支援:心〉を薄くかける。動悸を整え、嘘を吐くときの乱れが自分でも分かるようにする補助だ。
喉が鳴り、目が泳ぐ。――嘘。
「一」
「……ざ、宰相……副官のサデウス。鍵はあいつの“複印”。本印は財務院の保管庫だ」
「二」
「帳簿の“揺らぎ”は、鋳型を変えたからだ。今夜で古い鋳型は処分だと……!」
「三」
「勇者と、財務院次官補。あと……裏市の口利きが一人」
十分だ。
俺は頷き、男の肩から〈心〉を外す。「中で大人しく座っていれば命までは取らない。鍵束は預かる」
アリシアが鍵束を受け取り、ミリアが囁く。「罪の鎖は手首につけずに、心の外側に吊るせます。――あなたが次、何を守るかで重さは変わる」
男は顔を伏せ、震える息を吐いた。
*
密会所は楕円の小部屋。扉は二重で、内側に消音の毛織り。
俺は入り際に指先で蝶番を撫でる。――鳴かない。リゼル、仕事は完璧だ。
〈展開:陣〉を床に薄く描き、壁際のランプの煤の濃さを確認。風の抜け道、ひとつ。天井梁の溝、ふたつ。
逃げ道はこちらで決める、と言ったろ。
明鐘がふたつ。
三人が入ってくる。黒いマントの勇者、金の鎖の胸飾をつけた肥えた男――次官補、薄汚れた上衣の口利き。
その後に、ゆっくり宰相副官サデウス。痩せた顔に細い眼鏡、指は白魚。
「さて」サデウスが指を鳴らす。「鍵番は?」
「ここに」俺が答える。
空気が一瞬、固まった。
アリシアが彼らと机を挟み、ミリアは祈り台を棚に置き、ガイウスが扉の前に立つ。
俺は杖を机に立てかけ、手ぶらのふりで椅子に腰かけた。
「参議殿。場をわきまえた方がよろしい」
サデウスが笑う。「ここは“王都の埃”をそっと片付ける小部屋。風を入れる場所ではない」
「埃は、積もると毒になる」俺は笑い返す。「それに、君たちは大声で掃除してるじゃないか。鋳型、複印、口止め料。――埃の上を踊る音が、塔まで響いた」
次官補が真っ赤になった。「名誉毀損だ! 証拠は!」
「あるさ。君の筆致の“癖”が、な」
俺は帳面の写しを机に投げる。「起筆が深く、払いが跳ねる。王都でそれを教える師は一人。――君の師だ」
エルドの火球より速い速度で、レオンの視線がサデウスへ跳ねた。「てめえ……!」
「落ち着け、勇者殿」サデウスは肩を竦める。「国家には“見えない筋肉”が要る。あなたの剣が前を切り拓く間、我々は背後の脂を調える」
「脂が血に変わったんだよ」
アリシアの声が冷えた。「辺境で、竜が、村が」
ミリアが一歩出て、台座に両手を添える。「〈聖光重奏〉」
柔らかな光が部屋を満たす。告解の場に変わる光。嘘を吐けば、自分の鼓動が痛いほど響く。
サデウスの喉が鳴る。次官補は椅子を掴み、口利きは汗を拭った。
レオンだけは、聖剣の柄を握ったまま、俺を睨みつける。
「参議。俺を貶めたいのか」
「違う。舞台を落としたくない。――お前の剣が舞台の板を割ってる、と言ってる」
「何だと」
「お前は“早い”。だが、早さは時に滞りを生む。俺は、流れを作る」
静かに杖を床へ。
〈展開:流〉
部屋の空気の密度を整え、声の通りと呼吸の波を揃える。争うためではなく、聞こえるために。
サデウスの指が机を叩く癖――三拍子。次官補の視線の泳ぐ周期――呼吸の乱れと一致。口利きの靴の爪先――逃げる方向へ向いている。
「逃げるなら今だ。窓は開かない。扉は閉まる。残る道は――言葉だけだ」
口利きが先に折れた。「オレはただ、橋を……! 金を運んで、印を回して、少しだけ抜いただけだ!」
「誰のために」
「“市”のためだよ! 王都が痩せりゃ市場も痩せる。だから太らせた。ちょっと、ルールを曲げて」
次官補が机を叩く。「下賤が! こやつの蠢きは私の知らぬところだ!」
「知らぬ、はもう効かない」俺は首を振る。「印は君の机から出た。鋳型は財務院の火床を使った。――“筋肉”の痛みは、頭の責任だ」
サデウスが笑いを深める。「参議殿。君は理想を言う。理想は美しい。だが、王都は泥だ」
「泥は耕すと畑になる」
その瞬間、扉の外で金属の擦れる音。合図だ。
ガイウスが軽く槍で床を打ち、黒竜の微かな咆哮が遠くから響く。王都には入れない。だが、声は届く。
「宰相閣下がまもなく“鍵”を替えに来る。――選べ。ここで吐くか、あちらの机で吐くか」
次官補の額に汗。レオンが歯を食いしばる。
サデウスは尚も笑っていた。「吐けば助かる、か?」
「吐いて“変える”なら助かる。吐いて“隠す”なら溺れる」
沈黙。
最初に肩を落としたのは、レオンだった。聖剣から手を離し、椅子に沈む。
「俺は……剣しか知らない。紙の上の戦を、信じて投げた。――愚かだった」
ミリアが小さく息を吐き、祈りの光をひとつ濃くする。
次官補が顔を覆って嗚咽を噛み殺し、口利きは目を逸らしたまま頷いた。
サデウスだけが、笑みを崩さない。
「君は、勝った気でいる。だが参議殿、風はいつもこちらの横顔を撫でる。――鍵を替えても、鍵穴は残る」
「なら、扉ごと替える」
俺は杖を〈展開:陣〉の中心へ軽く突く。薄い光が足元を走り、扉の外――回廊の曲がり角、衛兵の靴音が近づく。
サデウスの眼鏡がきらりと光った。次の瞬間、彼の手首が跳ね、袖口から短い筒が覗く。
弦の音。――腕に仕込んだ小型の弩。
「っ!」
アリシアが飛び、ミリアが祈りを重ね、ガイウスが槍尻で机を弾いて軌道を逸らす。
だが一番早かったのは、俺の指だった。
〈展開:流〉に〈支援:偏〉を重ね、空気の層を微かに曲げる。
矢は頬をかすめ、壁の毛織りに突き刺さった。布が焦げ、甘い匂いが広がる。
「風は、こちらにも吹く」
アリシアがサデウスの手首を捻り、短弩を床に弾き飛ばす。
ミリアの光が指先を縛り、ガイウスが扉を開いて衛兵を招き入れた。
「宰相殿に申し上げろ。鍵番、交代だ。――そして“埃”の袋詰めが必要だとな」
*
翌朝。
王都の広場では、財務院の火床が一時封鎖され、鋳型の管理台帳が洗い直された。
サデウスは拘束。次官補は一時停職。口利きは市の監督下で証言台へ。
レオンは遠征権限の停止を正式に受け――同時に、王都防衛の講師役に回された。剣は、見世物ではなく、訓練のために振るう。
宰相は俺を呼び止め、短く告げた。「扉は替えた。鍵穴も、新しい」
「ありがとう。――畑の扉も、蝶番を替えようと思う」
「君は比喩を言い、実務をやる。……珍しい参議だ」
外へ出ると、石畳の上に柔い風。
アリシアが肩で息を吐き、剣帯をゆるめた。「斬らずに済んだ」
「済んだ、で終わりじゃない」
ガイウスが空を睨む。「竜が昨夜、北東の風を嫌った」
ミリアが眉をひそめる。「森がざわめいています。……嫌な気配」
伝令が駆けてきた。外郭で、そして辺境で。二箇所同時に狼煙。
巻かれた文には短い言葉。
〈北東の砦、落ちる。
辺境の小村、連続して襲撃。〉
俺は息を呑み、指先に自然と式が走った。
〈支援:連〉――仲間の視線が俺に集まる。
〈支援:心〉――胸の鼓動を整える。
「王都の“扉”は替えた。――次は、境の“土手”だ」
アリシアが剣を握り直し、ミリアが祈り台を包み、ガイウスが頷く。
遠く、黒竜の咆哮が、雲を震わせて届く。
「帰るぞ。畑に、そして戦場に。耕すべき土は、まだ残ってる」
風が、舞台袖から舞台へ、空気を押し出す。
補助術師の戦いは、続く。
派手ではない。だが、舞台は落とさない。――絶対に。