第10話 王都からの封蝋
勇者一行を追い返した翌朝、村は妙な静けさに包まれていた。勝った――その事実に浮かれたいのに、誰もが口を閉ざしている。
理由は簡単だ。相手が勇者だったからだ。
「……ほんとに、これでよかったのか」
畑の畝に腰を下ろし、土を指先でほぐす。柔らかい。昨日、〈支援:循〉で水の通りを整えたばかりだ。
アリシアが鍛錬を終えて戻ってきた。朝露のついた髪を手ぐしで払う。
「よかったかどうかは、これから決まる。けれど――昨日のあなたは、誰より正しかった」
「正しい……か」
俺は苦笑し、空を見上げた。雲が薄くちぎれていく。
ミリアが白い法衣の裾を持って駆け寄ってきた。頬が少し上気している。
「カイル様、村の入口に旅商人が。『王都印の手紙を預かっている』と」
「王都印?」
胸がわずかに強張る。アリシアも表情を引き締めた。
村門に向かうと、荷車を引いた小柄な商人が、やけに腰を低くして待っていた。
「へいへい、辺境の英雄さま。あっしはオブリと言いやす。王都からの便を運ぶ途中、街道の検問で迂回になりましてねぇ。ついでに、ここの村宛の封書を預かりまして」
差し出された封筒には、金の獅子の封蝋。王家の紋章だ。
俺はアリシアと目を合わせ、慎重に封を割る。
〈辺境ハウラ村に在する補助術師カイル殿へ。
王都にて功績を問う儀あり。速やかに登城されたし。
併せて、勇者レオン一行の素行について尋問の用意あり。〉
短い文だが、言外の重さは十分だった。
ミリアが小さく息を呑む。「尋問……勇者に、ですか?」
「“問う儀”ね。招きであり、監視だ」
アリシアの声は冷静だった。
商人オブリが咳払いして、さらに小さな包みを出す。封蝋はないが、布の内側に油紙で丁寧に包まれている。
「それから、これは途中で拾った……いや、買った情報でしてね。王都の冒険者宿で流れた噂。写しを一本、持ってきやした」
油紙を開く。器用に写された帳面の断片――銀のインクで書かれた「受領」と「支払」の並び。その中に、俺の目が止まる名があった。
『レオン=グランハルト 金貨五十 “見逃し”の口止め料』
辺境通行許可、供出免除、警備隊配置の薄さ――複数の欄に同じ筆跡で「了承」の印。
添えられた印章の影は、王都財務院の印とよく似ていたが、わずかにズレがある。
「偽印、もしくは横流し……どちらにせよ、臭いな」
アリシアが眉根を寄せる。
ガイウスがいつの間にか近づいており、帳面を覗き込んだ。
「竜を襲った奴らも、通行許可を得ていた。森の警備が薄かった理由が、これかもしれん」
「勇者が、王都の誰かと通じてる?」
ミリアの声が震えた。
俺は掌の中の紙片を見つめる。土の上に置けば、ただの黒い汚れにしか見えない。
けれど、それで人が死ぬ。竜が堕ちる。村が燃える。
「……王都に行くしかないな」
言葉に出した途端、腹の底が固くなるのが分かった。
静かに暮らす、という目標は、また一歩遠のく。それでも。
「俺は、逃げない」
「当然だ」
アリシアが頷く。
ガイウスが槍の柄を握り直した。「俺と竜は随行しよう。都合のいい獲物にされるわけにはいかん」
ミリアは微笑み、穏やかな声で言う。「神も、あなたの歩みを祝福しています」
――その時。村はずれの森から、低い口笛が聞こえた。
身構えると、木陰から影が一つ。片目に古傷、黒の外套――リゼル。
「よう、朝の散歩に混ぜてくれるか?」
「……お前は敵のはずだが」
「立場は流れる。水のようにな」
軽口。だが眼は笑っていない。
ガイウスが槍を半歩上げる。黒竜の横顔が森影に覗いた。
「武器は抜かない。今日は情報を持ってきた」
リゼルはゆっくり外套の内から、小さな革筒を取り出す。机上の焼印が押されている。
封を切ると、中から精巧な模写図が現れた。王都の内郭、中央塔の回廊と会議室――そして、赤い印で囲まれた「密会所」。
「宰相派と勇者の会う部屋だ。定刻、明鐘二つ分。出入りする下働きは二人――一人は片耳が欠けている。衛兵は交替の間に三分の死角を作る。窓は外から開かないが、内側からは……まあ、こういう細かいのはお前さんの得意分野だろ」
「なぜ俺たちにそれを渡す」
リゼルは肩をすくめた。「俺の主は死んだ。新しい秩序が必要だ。王都の蠢きは、“魔王”の時代より混沌としている。俺は混沌が嫌いだ」
「……お前の主は誰だ」
「今は、風だ」
答えになっていない。だが、情報は本物に見えた。描線の癖、方角の取り方、衛兵の動線。嘘をつくなら、もっと粗い嘘をつく。
アリシアが小さく頷いた。「使える」
「見返りは?」
俺が問うと、リゼルは笑った。
「俺を“客分”として扱え。主従ではない。しばらく好きに出入りできる席が欲しい。いざというときは剣を貸すが、命までは預けない」
「都合のいい条件だな」
「お互い様だ。お前も“都合よく”俺を使う気だろう?」
その通りだった。
俺は息を吐き、掌を差し出した。リゼルは一拍置いてから握り返す。骨ばった手は、熱を内に秘めていた。
「王都に行く」
「ならば、もう一枚くれてやる」
リゼルは指先で空を指した。
皆がつられて見上げると、青空に黒い点。ほどなく、王家の使いの鷹が村の上空を旋回し、俺の前に小さな筒を落とした。
開く。王都の書式。封蝋は確かに王のものだったが、筆致が違う。宰相府の代行筆。
本文は簡潔だ。
〈補助術師カイル。および随伴者。
都合により迎えを出す。三日後、外郭西門にて落ち合い、護送する。〉
「“迎え”ね」アリシアが鼻で笑う。「護送の間違いだ」
俺は手紙を折り畳み、腰袋にしまう。
「三日で準備する。村の防備はギルド代官に伝えて、周囲の狩人にも協力を頼む。ミリア、避難の導線を祈りと一緒に村に浸透させてくれ」
「はい」
「ガイウス、竜の休息を確保しておいてくれ。長距離移動の前に、羽の付け根を診たい」
「任せろ」
視線をリゼルへ。「お前は?」
「先回りして“密会所”の扉の蝶番を軽くしておく。ギィギィ鳴いては台無しだからな」
口笛を吹いて、彼は森に消えた。
アリシアが小さく笑う。「便利な男だ」
「便利なやつほど、危険だ。手綱は持たないが、距離感は忘れるな」
「心得ている」
俺たちは散り、三日の間にできる限りの支度をした。
村人たちは不安げだったが、誰も俺たちを引き止めなかった。
「戻ってくるよな」と少年が聞いたときだけ、俺は長く答えに迷った。
「――戻る。畑を、俺の好きなやり方で耕しきってない」
少年は満足げに頷き、鍬を掲げた。
*
三日後。外郭西門。
王都の石壁は、昔と同じ色で俺たちを見下ろしていた。
迎えの兵は十騎。制服も装備も整っている。表向きは礼遇――だが、隊列の組み方は護送だ。左右から挟み込み、退路を塞ぐ。
「カイル殿、王都へようこそ。案内いたします」
隊長格が、仮面のような笑みで言う。
俺は軽く会釈し、列に加わった。黒竜は外郭外の指定厩舎に預けることになった――城下で竜を飛ばすわけにはいかない。それは分かる。分かるが、気分は良くない。
石畳の街路。屋台の匂い、鐘の音、人のざわめき。
懐かしいのに、どこか違う。
アリシアが小声で囁く。「視線が刺さる」
「噂はとうに回ってる」
ガイウスが前を向いたまま応じる。「“勇者を退けた補助術師”。面白い見世物だ」
隊列はまっすぐ中央塔へ――ではなく、やや外れの会議棟へ向かった。
リゼルの模写にあった回廊。赤印の位置が、頭の中で合致する。
(ここだ)
案内の兵は形式的な説明をしながら、分厚い扉の前で足を止める。「宰相閣下が先にお待ちです」
扉の蝶番は――音を立てなかった。
中は楕円の会議室。中央に楕円の机。片側に宰相を含む文武の高官、もう片側にレオン一行。
俺たちの席は――机の端、ちょうど両陣の中間。狭い。
宰相は初老、眼鏡の奥の目が笑っていない。「遠路、ご苦労であった。補助術師カイル殿」
「畑帰りなので、靴が少し汚れているかもしれません。お許しを」
乾いた笑いが一部から漏れる。
レオンは聖剣の柄に手を置いたまま、口角だけを上げた。「戻ってきたか。図々しいな」
「呼ばれたので」
宰相が手を上げた。「さて。まずは功績を確認しよう。辺境防衛、竜との契約、魔王軍残党の撃退――いずれも事実だな?」
「村人が証人です」
「うむ」
宰相は書記に頷き、記録を取らせる。
次に、レオンへ視線が向く。「勇者レオン。君の一行は、辺境にて“召喚”を行い、補助術師カイルを連れ戻そうとした。これは命令に基づく行動ではない」
「国のためだ。最適な戦力を集めるのは勇者の裁量だろう」
「裁量の範囲を超過した場合、裁きもまた受けねばならん」
宰相の声は柔らかいままだが、室内の温度が一度下がった気がした。
俺は呼吸を整え、布袋から例の帳面の写しを取り出す。
「こちらを確認していただきたい。王都近郊の警備を薄くする見返りに、通行許可と供出免除。“見逃し”の口止め料。いくつかの支払いに、レオンの名がある」
机上の空気が硬くなる。
宰相が眼鏡の位置を指で直し、書記に紙を渡す。「筆致の鑑定を。印影は?」
「本物とわずかに異なる揺らぎ。偽印の可能性が高いが、原印の関係者なくしては困難です」
レオンが椅子を鳴らして立ち上がる。「でたらめだ! そんなものは知らない!」
「知らないで済む話ではない」
アリシアの声が凜と響いた。
全ての視線が彼女に集まる。彼女は一歩も引かず、机にまっすぐ視線を置いた。
「辺境の警備が意図的に薄められていた。それが事実。竜が襲われ、村が焼かれ、人が死んだ。責任の所在は“知らない”で曖昧にできるものではないはず」
ミリアも静かに続いた。「正義は、弱き者の側に立つべきです」
ガイウスは無言で槍を床に立て、短く鳴らした。音が会議室の樫の床を震わせる。
宰相は短く息を吐き、机上を指で叩いた。「レオン。ここで君に問う。君は“国”に忠誠を誓うか、“個”に忠誠を誓うか」
「……国だ」
「ならば、国の秩序に従え。これは王命だ」
書記が別の紙を差し出す。王家の赤い封蝋。
宰相はそれを高く掲げ、ゆっくりと読み上げた。
〈勇者レオン=グランハルト。
当面の遠征権限を一時停止とする。
補助術師カイルの行動について、助言を仰げ。
併せて、王都防衛と辺境保全のため、補助術師を参議として遇する。〉
会議室がざわめきで揺れた。
レオンの顔から血の気が引く。「……何だと」
「聞こえなかったか? “参議”だ」
宰相が眼鏡の奥で微笑む。「君は当面、彼に助言を求める立場になる」
視線が一斉に俺へ刺さる。
参議――座して語る者。軍でも官でもない、中間の助言役。王制においては、歯止めの役であることが多い。
「俺は畑を耕したいだけなんだが」
思わず本音が漏れ、隣のアリシアが噴き出しそうになる。
宰相は咳払いで笑いを呑み込み、声色を整えた。
「補助術師カイル。君に求めるのは“派手な剣舞”ではない。秩序の補助だ。力の流れを整え、人と人の間に通気を作れ。――君の得意分野だろう?」
胸の奥で、何かが静かに合点した。
補助は舞台袖。だが、舞台を落とさないのは袖の仕事だ。
「一つ条件がある」
「申してみよ」
「辺境の村――ハウラの防備を優先に。村の民に負担をかけない。そして、王都の“密会所”をいくつか閉じる。その鍵の管理者を、今日付けで交代させること」
宰相の指が止まる。やがて、わずかに笑みを深めた。
「……どこで聞いた」
「風通しの悪い場所は、匂いで分かる」
「よかろう。王命に付帯させる。鍵は本日中に差し替え、警備の配置も改めよう」
会議はそこでいったん解かれた。
外へ出る回廊で、レオンが俺の前に立ちはだかった。目の中に、昨日とは違う色――焦りが混じる。
「勝ったつもりか」
「勝ち負けの話じゃない」
「俺は“勇者”だ。王はすぐに気が変わる。参議など、紙切れ一枚で消える。覚えておけ」
「忘れないよ。だから“紙”じゃない紐で結ぶ」
「紐?」
「人の紐だ。村の民、城下の職人、兵の足、祈りの言葉、竜の息。……それらが同じ方向に流れれば、お前がどれだけ剣を振っても、戻ってくる」
レオンは舌打ちして去っていった。
遠ざかる足音を見送り、俺は息を吐く。
「言ったなぁ、カイル」
アリシアが肩で笑い、ミリアが目を細める。ガイウスは満足げに頷いた。
「これで終わりじゃない」俺は二人に向き直る。「宰相は“鍵を替える”と言った。つまり、鍵番はこれまで別の誰かだった。――そいつが、必ず何かをする」
「罠を張るのか?」
「罠というより、風通しだ。閉じる扉があれば、開く窓も作る。逃げ道をこちらが決める」
その夜。王都の宿の一室で、リゼルが窓からひょいと顔を出した。
「蝶番は軽い。鳴かない」
「仕事が早い」
「報酬は?」
「明日の宿の朝飯。卵を二つ付ける」
「安い男に見えるか」
「じゃあ、三つ」
リゼルが鼻で笑った。「参議殿。明鐘二つ、密会所で“鍵番”が身の振り方を決める。勇者も動く。血は――できれば流すなよ」
「分かってる」
窓を閉める。
アリシアが剣を膝に載せ、ミリアが小さな祈りの台座を整え、ガイウスが槍の石突きを磨く。
それぞれの手が、それぞれの道具を丁寧に扱う。
俺は杖を膝に置き、式の系図を頭でなぞった。〈支援:連〉に〈支援:心〉、そして〈展開:陣〉。人と場所と時間の補助を、どう重ねるか。
――畑を耕すのと、そう変わらない。
土はすぐには応えない。
けれど、正しく水を通し、根を導けば、芽は出る。
王都の石の隙間にも、芽は出る。
「行こう」
俺は立ち上がった。
月は薄く、風は乾いている。明鐘二つまで、あと少しだ。
舞台袖の仕事は、派手ではない。
だが、舞台を落とさないのは、いつだって袖の手だ。
勇者の剣が光るなら、こちらは見えない光で、街ごと繋ぐ。
補助術師の戦い方で――王都を、耕す。