第6話 インパラな僕
20分ほどバスで走り、降りたところは緑の多い郊外の住宅地だった。
すぐ側まで山が迫り、少々寂しげな印象の場所だ。
「ここ?」
そう言う僕にやっと光瀬は頷き、すぐ前にあった立派な門構えの和風の家を指さした。
木製の塀と垣根でぐるりと囲まれたその家は、ちょっと昭和初期設定のドラマのセットのようだった。
「こことトンネル効果とどんな関係があるんだよ」
関係があるわけないとは分かっているが、一応お約束として聞いてみた。
「しっ。声が大きい」
光瀬が人差し指を口の前で立てて、険しい顔をした。
「へ? なんで?」
「表玄関から入るとヤバイから、裏へ回ろう」
「ヤバイって何。ヤバイことすんの?」
僕は光瀬に腕を引っ張られるままに裏口とやらに回った。
敷地の裏側に回ると、なるほど裏道に面して板張りの勝手口が現れた。
裏も道に面していることから、この屋敷が何軒分もの区画を陣取っていることが分かる。
「そっと入るぞ」
「そっと入るって、もしかしてヤバイことしてない?」
「大丈夫だって。そっと入れば見つからない」
「それがヤバイことだって言ってるんだろ!」
けれどそんな訴えも聞き入れず、光瀬は僕をひっぱりながら敷地にズンズン入って行った。
塀の中は、松やツバキが綺麗に剪定された美しい日本庭園だった。
左奥にどっしりと重厚な平屋建ての日本家屋がある。そして僕らの正面には時代劇にでも出てきそうな白壁の蔵がそびえている。僕らが立っているのはたぶん、蔵の真裏だ。
「蔵」
ポカンとしてそうつぶやいた僕のほうをじっと見て、光瀬は言った。
「あれ? 帽子は?」
「帽子?」
「俺があげたニット帽」
「ああ、あるけど」
「かぶっといて」
「・・・」
僕はさっきショップで脱いだジャケットを入れた紙袋から、一緒に突っ込んでおいたニット帽を取りだした。
今、それにどんな重要性があるんだと思いつつ、聞くのも面倒で、黙ってグイと頭に被った。
「よし、完璧。比奈木が小柄で良かったよ」
再び光瀬は満足そうに笑ったが、いい加減僕はウンザリしていた。
「何がさ」
そろそろ本題に入れ。
僕の心のつぶやきが聞こえたのか、光瀬は物わかりの悪い生徒に説明するように、ゆっくりとした口調で言った。
「粒子の質量が小さいほど、粒子がポテンシャル障壁を通り抜ける確率が高まる」
「・・・ちょっと待て」
「ああ、“通り抜ける”より、“しみ出す”の方がいいか」
「そうじゃなく」
「いや、正しくは“通り抜けたように見える”だったな」
「どっちでもいい! そうじゃなくてさ、トンネル効果でポテンシャルの壁を通り抜けるのは僕なのか?」
「理解が早い」
「嬉しくない。分子レベルになるのは僕なのか? 山本君じゃなくて」
「山本君って誰だよ」
「知らないよ」
「訳分からない事言ってないで、こっち来て、比奈木」
訳分かんないのはどっちだ。
大声を出したいのを我慢して僕は、光瀬に引っ張られるままに蔵の白壁伝いに移動していく。
表、つまり中庭が見える角まで来ると、光瀬はピタリと止まり、注意深く庭を覗き込んだ。
「ほら、あそこに一人スーツを着たごっついのが居るだろ?」
声を潜めて光瀬が言った。
僕もそっと首を伸ばして中庭を確認する。
確かに黒スーツの男が暇そうに携帯をいじりながら、蔵から15メートルほど離れた場所に置かれている大きな庭石に腰掛けている。
「居るけど」
「比奈木はさ、見られないようにソーっとここから蔵の前まで歩いて、蔵の引き戸の前に着いたら猛ダッシュで表門まで走って、外に飛び出して欲しい」
「は? 何それ」
意味が分からない。
「黒スーツの男に捕まらないように猛ダッシュで駆け抜けてくれよ。あの中央の門はかんぬきが掛けてあるけど、横に小さな使用人扉があるから。そこは引けばすぐ開く」
「ちょっと待て。何だよ、その『捕まるかも』的なリスクありありな言い方は。なんのゲームだよ」
「大丈夫だって。猛ダッシュで庭を横切ればいいんだから。そして、外に出たらそこで待っててくれ。僕も少し遅れて落ち合うからさ。そしたら一緒に帰ろう」
「なんだよそれ!」
「顔は見られるなよ。じゃあ、スタート」
そう言って光瀬は僕の背中を押し出した。トトト、と弾みで蔵の戸の前まで進みでてしまった。
「えーーーーー」
荒野の真ん中に置き去りにされたインパラのような気分で、一瞬僕は蔵の戸の前で立ちつくした。
何がなんだか分からない。
分かるのは顔を見られては良くないらしいということと、立ち止まって居たら、捕まってしまうらしいということのみだ。
スーツの男はまだ携帯をいじっている。門と僕と男の距離は、男を頂点にして二等変三角形を描く感じの比率だ。今気付かれたら、門を出る前に捕まる。考えている暇は無かった。
何のゲームか分からないが、サッサと住ませて帰りたい。
僕は門めがけて猛ダッシュした。