第2話 報われない山本君
「なあ、比奈木、どう思う?」
光瀬はしつこく聞いてくる。
「ああ、もう、うるさいな。分かり切ったこと言うなよ。トンネル効果は量子論の話だ。
電子が抜けられるはずのない壁を通り抜ける、あるいは越えるように見える不確定性原理(※1)だろ。
現実世界とでは物理的理論の違うミクロの世界の話だよ。たとえば人間が壁を通り抜けるなんてあり得ないし、考える事自体がナンセンス。だから犯罪も解決も関係ない。な? 僕にだってそれくらいの基礎知識はあるさ」
「でも、人間が通り抜ける確率はゼロではないよ」
「そりゃあ、計算上はそうかもしれないけど」
「10の24乗分の1だ」
「あのさ、世界中の人間が壁にぶつかり続けて100億年経っても、一人として通り抜けられないような微細な確率は『不可能』と言い替えるべきだよ」
「ロマンがないな」
「そう言う問題か。ロマンの話がしたいなら他の人としてくれ。僕さ、明日までに演習問題やって実験レポート提出しないといけないんだ。時間がないの!」
「そうだよな、無理だよな。仮に山本君が通り抜けられたとしても、一度人間を分子レベルまで分解して考えた話で、通り抜けられた物質はもはや山本君ではない。かつて山本君であったらしい分子の集まりだ」
「ほとんど殺人事件だよ。そして、山本君って誰だ」
「分子を再構築して元の山本君に戻せばどうだろう」
「ターミネーターに出てきたな、そんな悪役が。でも、そもそもあれは通り抜けた訳ではなく、通り抜けたように見えるだけなんだろ?電子を粒ではなく波として考えた場合の振動の産物であり、出現したのは別の電子だろ」
「そう! そこだよ比奈木。電子A子は壁の前で消滅し、しめし合わせたように、そっくりなA子ダッシュが壁の向こう側に出現する。だからそれを見た観測者は騙されるんだ。通り抜けた、って」
「B級のミステリーみたいだな」
僕は少し笑ってしまった。不覚だ。
光瀬は更に続ける。
「悲しいことに電子には個性がないからね。A子が消えて、変わりに壁の向こうに現れたA子ダッシュが、“私がA子よ”と言い張れば、もうそれは通り抜けたことでいいんじゃないかって話しで。悲しいね」
「なんの話だよ。電子に同情しなくていい」
「山本君も報われない」
「光瀬が勝手に分解したんだろ、山本君を」
「そうそう、量子論の授業の担当がもし山本修吾教授だったら、『車が校舎にぶつかった場合、車がその壁を通り抜けられる確率』を授業中に求めさせられるから、波動関数やシュレーディンガーの方程式は理解して望んだ方がいいよ」
「さっき分解されたのは山本教授だったんだな」
「いい教授だよ」
光瀬はニコリとして言った。
相変わらずカップラーメンは彼の前の円卓の上で、じんわりとスープを吸って膨らみ続けている。
光瀬はチラチラ自分の携帯で時間を確認しているようなのに、カップ麺時間とは別物らしかった。
僕の方が気になって仕方ない。
「カップ麺、ふやけてるぞ」
「ん?」
「気になるからいい加減、食べろ。そして食べたらすぐに出ていってくれ。課題に取りかかれないだろ」
「ああそうか。忘れてた」
そう言いながらも、やはり携帯を気にしながら光瀬はカップ麺のフタを開けた。
「おお、すっごく膨張してる。」
「頼むから、そっから膨張宇宙の話とか始めるんじゃないぞ。さっさと食って出ていってくれ」
「あ、それおもしろそう。でも、また今度にするよ。今日のテーマはトンネル効果なんだ」
「誰が決めたんだよ」
確かに宇宙物理学に基づく話をするのは僕も好きだった。
僕の敬愛するアインシュタインやホーキングの理論を思うだけで、すでに解き明かされた美しい方程式と、
まだまだ解き明かされていない「宇宙」という存在にワクワクする。
しかし今、僕には時間がない。
授業の合間にバイトをし、バイトの合間に演習問題を解き、質問形式のゼミのための予習をし、実験レポートをまとめる日々。
白状してしまえば光瀬とのダラダラ論争は毎回けっこう楽しい。
けれど今は本当に時間がない。単位は落とせない。留年など絶対できない。故に、日々時間との戦いなのだ。
少々当てつけがましくパラパラとテキストをめくり、レポート用紙を用意している僕に、光瀬はちらりと視線を向けた。
食べ終わったカップ麺の容器の上に行儀よく割り箸をそろえて置くと、ニコリと笑った。
知ってる。何か企んでる時の笑顔だ。
「じゃあ、行こうか」
「は? 行く? どこに?」
「トンネル効果の実験に」
さすがに僕は絶句した。
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(※1)不確定性原理
ミクロの世界の物質は観測自体が物質に影響を与えるため、「そこに現在その粒子が存在する確率は何%」という言い方しかできない。人間の観測によって、その物質の存在が確定するという、曖昧な考え。
曖昧だとして、アインシュタインが嫌った原理。