第9話:最初の敵、グリーンスライム
(よし、リリア。腕慣らしと行こうぜ)
「はい、アルマ!
わたくしたちの最初の共同作業ですわ!」
俺は、再生したばかりの左腕を掲げ、静かに構えた。
目の前では、半透明の緑色の塊……グリーンスライムが、その不定形の身体をぷるぷると揺らしている。
RPGの知識が正しければ、こいつは最弱モンスターの代名詞。いわばチュートリアルに出てくる練習台だ。
(だが、油断は禁物だ)
ここはゲームの世界じゃない。俺たちの命がかかった現実だ。
それに、こっちはこっちで、まともに戦うのはこれが初めての、ズブの素人騎士(?)。
相手がスライムだろうと、慎重にいくに越したことはない。
「アルマ、この魔物、とても単純な霊素で構成されていますわ。
ですが、侮ってはいけません。
単純なものほど、予測のつかない動きをすることがありますから」
リリアの冷静な声が、俺の浮つきかけた心をキュッと引き締める。
そうだ。まずは分析からだ。敵を知り、己を知れば百戦殆うからず、ってな。
(《機構造解析》、起動!)
俺はスライムの構造を完璧に理解し、最適な攻略法を導き出すべく、スキルを発動させた。
脳内に設計図が流れ込んでくる……はずだった。
(……え? なんだこれ……!?)
しかし、俺の脳内に広がったのは、いつものような精密なCADデータではなかった。
ただ、ぼんやりとした緑色の輪郭が映し出されるだけ。
解析率を示すパーセンテージは、一向に0%から動く気配がない。
(構造がない!?
設計図が描けないじゃないか!)
そうだ。
スライムは不定形モンスター。
決まった形も、内部骨格も、複雑な回路もない。
ただのゼリー状の塊だ。
そんなものを、物理的な構造を分析する俺のスキルで読み解けるわけがなかった。
(嘘だろ……。
解析できない……?)
途端に、背筋が冷たくなるのを感じた。
分からない。
この敵が、何をしてくるのか。
どこが弱点なのか。どうすれば倒せるのか。
何も、分からない。
「お前は、失敗作だ」
まただ。
脳裏で、父の幻影が嘲笑う。
(分からないまま戦えば、また失敗する……!
腕を失った時のように……!
もっと最悪なことになるかもしれない!)
思考が、ネガティブなシミュレーションの無限ループに陥り始める。
酸で攻撃してくるのか?
それとも物理的にまとわりついて窒息させてくるのか?
弱点はどこだ?
熱か? それとも冷気か?
あるいは核のようなものが存在するのか?
全ての可能性を洗い出し、それぞれの対策を考え、勝率が99.9%を超える完璧な作戦を立てなければ……。
(動けない……!)
鉄の身体が、再び鉛のように重くなる。
腕を修復し、自分のスキルの本質を理解したはずの自信が、初めて遭遇する「理解不能な敵」を前に、脆くも揺らぎ始めていた。
俺は、スライムを前に、ただ立ちすくむことしかできなかった。
俺の魂が恐怖で凍りつき始めたのを、リリアは即座に感じ取っていた。
しかし、今度の彼女の声は、ただ優しいだけのものではなかった。
「アルマッ!
何をためらっているのですか!」
(!)
それは、凛とした、厳しい叱咤の声だった。
「完璧な計画など、待っていたら日が暮れてしまいますわ!
敵は、あなたが分析を終えるのを親切に待ってはくれませんのよ!」
リリアの言葉が、俺の心の枷をガツンと殴りつける。
「それに、忘れてしまいましたの!?
失敗したら、また分析すればよいではありませんか!
わたくしたちの戦い方は、そう決めたばかりでしょう!?」
(……ああ。そう、だったな)
そうだ。
失敗は終わりじゃない。
次のためのデータだ。
さっき、自分自身でたどり着いたはずの答えじゃないか。
なんてザマだ、俺は。
たった一体のスライムを前にして、また臆病風に吹かれていた。
(やってみないと、データも取れない……。
悪かった、リリア。
ちょっと、ビビってた)
「分かればよろしいのです。
さあ、アルマ!
まずは一発、ご挨拶と参りましょう!」
リリアの力強い声に背中を押され、俺はついに覚悟を決めた。
完璧な計画は、ない。
なら、今できる最善を、一つずつ試していくまでだ。
(よし!
まずは仮説①、物理攻撃の有効性検証だ!)
不定形の相手なら、斬るより殴る方が衝撃が伝わりやすいかもしれない。
俺は再生したばかりの左腕を大きく振りかぶり、スライムの緑色の身体めがけて、渾身のストレートを叩き込んだ!
――ブニッ!
「なっ!?」
手応えは、最悪だった。
まるで、巨大なプリンを殴りつけたかのような、気持ちの悪い感触。
俺の鉄拳は、スライムの身体にめり込み、その衝撃を完全に吸収されてしまった。
ダメージは、ほぼゼロ。
(くそ、打撃は効果が薄い!
データ、インプット完了!)
俺が腕を引き抜こうとした、その瞬間だった。
殴られた部分のスライムの身体が、まるで意思を持ったかのように変形し、鞭のような二本の触手となって俺の腕に絡みついてきた。
「アルマ、気をつけて!」
(うおっ!?)
俺は咄嗟に全身のバネを使って後方へ跳躍し、なんとかその拘束を振りほどく。
データ、追加インプット。物理攻撃は逆効果。相手に攻撃の起点を与えるだけだ。
(じゃあ、どうする?
仮説②、熱攻撃……って、俺に火を出す能力はないしな……)
手詰まりか、と一瞬思考が止まる。
その隙を、スライムは見逃さなかった。
今度は、その身体全体を平たく伸ばし、まるで絨毯のように床を滑って、一気に距離を詰めてくる。
速い!
(まずい!)
なす術なく体当たりを受ける、その寸前。
リリアのナビゲートが飛んできた。
「アルマ、あの中です!
あの緑色の塊の中心に、他よりもほんの少しだけ、霊素が濃く集まっている部分がありますわ!
あれが、おそらくは核です!」
リリアの《霊素視》が、俺の《機構造解析》では見抜けなかった、敵の生命線を見抜いてくれたのだ。
まさに、ハードとソフトの連携プレー!
(そこか!
仮説③、核への一点集中攻撃!)
俺は迫りくるスライムの体当たりを、右腕の装甲で受け止める。
ブニブニとした感触が気持ち悪いが、構っていられない。
左腕の指先を、鋭い一本の杭のようにイメージして硬質化させる。
そして、リリアが示してくれた、霊素が最も集中する一点めがけて……!
(貫けぇっ!)
――ズブリ!
指先が、ゼリー状の抵抗を突き破り、スライムの体内に侵入する。
しかし、スライムも必死に抵抗する。
核を守るように、体内のゲルを硬化させ、俺の腕の侵入を阻もうとする。
(くっ……硬い!)
あと数センチが、届かない。
このままじゃ、押し負ける。
どうする。どうすれば、この状況を打開できる?
思考を加速させろ。
何か、何か手はないのか。
……そうだ。あれがあったじゃないか。
(リリア、今からちょっと無茶をする!
霊素のナビゲートを頼む!)
「ええ、お任せを!」
俺は、スライムに突き刺したままの左腕に、意識を集中させた。
そして、数時間前に成功したばかりの、あの感覚を呼び覚ます。
そう、自己修復の時に行った、霊素の調合だ。
(俺の霊素と、リリアの霊素を、この腕の中で融合させる!)
二つの魂の力が、俺の左腕の中で渦を巻く。
リリアの清らかな霊素が、俺の荒々しい霊素を優しく包み込み、調和させていく。
その結果生まれたのは、純粋な破壊力とは少し違う、もっと浸透力と共振性の高い、特殊なエネルギーだった。
(喰らえ! これが俺たちの……!)
――《共振撃》!
俺が内心で叫んだ(技名は今考えた)瞬間、左腕から調和された霊素の波動が迸り、スライムの体内に直接叩き込まれた。
その波動は、スライムの核が持つ固有の霊素振動数と共鳴し、その構造を内部から激しく揺さぶる。
――ピシッ!
スライムの核に、小さな亀裂が入るのが《霊素視》越しに視えた。
――ピシピシピシッ!
亀裂は瞬く間に全体に広がり、そして。
――パリンッ!
ガラスが砕けるような乾いた音と共に、スライムの核は粉々に砕け散った。
生命の源を失った緑色の身体は、急速にその輪郭を失い、やがて床にどろりとした粘液の水たまりを残して、完全に活動を停止した。
「はぁ……はぁ……」
鉄の身体なので息切れはしないはずだが、精神的な疲労で、魂がぜいぜいと喘いでいるのが分かった。
(完璧とは、程遠いな……)
冷や汗だらけの、泥臭い戦いだった。
それでも。
「素晴らしい勝利ですわ、アルマ!
やりましたわね!」
リリアの、心の底からの歓声が、俺の疲労を吹き飛ばしてくれた。
ああ、そうだ。
勝ったんだ。俺たち、二人で。
(さて、と。戦利品をいただくとするか)
俺は、床に広がったスライムの残骸に、修復したばかりの左腕を伸ばした。
スキル《魂装融合》。
こいつを取り込んで、酸への耐性でも手に入れておくか。
俺がスライムの粘液に触れた瞬間、その霊素が俺の鎧の中にするすると吸い込まれていく。
そして、鎧の内部構造に、微かな変化が起きた。
(なんだ……?
鎧の霊素回路が、ほんの少しだけ、柔軟になった……?)
まるで、硬い金属配線の一部が、しなやかなゴムチューブに置き換わったような感覚。
これは……もしかしたら、今後の《魂装融合》の安定性を高める効果があるのかもしれない。
スライムの「柔軟性」という特性が、俺の鎧に新たな可能性をもたらしてくれたのだ。
(なるほどな。
どんな相手からでも、学ぶことはあるってことか)
俺が一つ賢くなったことに満足し、安堵のため息をつこうとした、まさにその時だった。
「アルマ、敵襲です!
数が多いですわ!」
リリアの鋭い警告が飛ぶ。
それと同時に、通路の奥の暗がりから、複数の鋭い視線が突き刺さるのを感じた。
一体じゃない。
五体……いや、十体はいるか?
それも、統率の取れた、狩人の動きだ。
暗がりから、音もなく複数の影が姿を現す。
背が低く、緑色の肌。手には錆びた短剣や粗末な弓。
そしてその目に宿るのは、獲物を見つけた飢えた獣の光。
(ゴブリン……!)
それも、斥候の動きに特化した、狡猾な個体だ。
奴らは、俺たちがスライムとの戦いで消耗するのを、ずっと待っていたのだ。
なんてことだ。
最初の戦闘が終わったばかりだというのに、休む間もなく、次の試練が始まろうとしていた。




