第31話:追いつけない速度
(速す……ぎて……何も……)
俺の思考が、その圧倒的な速度の前に完全に置いていかれた。
俺にできたのは、ただ目の前に迫る銀色の死をスローモーションのように見つめることだけだった。
このダンジョンに来て初めて味わう、反応すら許されない絶対的な速度差。
俺たちの、新たな絶望が始まろうとしていた。
リリアが悲鳴を上げるよりも早く、俺が防御態勢を取るよりも早く。
疾風狼の蒼い瞳が、俺の目の前で大きく見開かれた。
その瞳には、ロックリザードのような絶対的な捕食者の威圧感とも、ゴブリンのような卑小な殺意とも違う、もっと純粋で冷徹な輝きが宿っていた。
まるで風そのものが意志を持ったかのような、自然現象に近い無慈悲さ。
(やばい、死ぬ……!)
魂が、最後の瞬間にそう絶叫した。
だが、俺が覚悟したはずの凄まじい衝撃は訪れなかった。
――ザシュッ!
風が、俺の脇を通り過ぎていった。
それだけだった。
いや、違う。
通り過ぎたと思った疾風狼の銀色の残像が消えた刹那、俺の右肩に鋭く重い衝撃が走った。
「アルマッ!?」
リリアの絶叫が、鎧の中でこだまする。
――ガギィンッ!
甲高い金属音と共に、火花が散った。
俺は、何が起きたのかすら理解できないままその衝撃で体勢を崩し、砂地の床に片膝をついていた。
(いっ……てぇ……!
いや、痛覚はないけど! 魂が軋む!)
右肩に視線を落とすと、そこには三本の深い爪痕が刻まれていた。
ロックリザードから移植したばかりの、あの自慢の複合装甲。
その表面の黒曜石層が、まるで鋭利なダイヤモンドカッターで切り裂かれたかのように見事に削り取られている。
(嘘だろ……。
あのロックリザードの装甲を、一撃で……!?)
致命傷ではない。
だが、その事実は俺の魂を凍りつかせるには十分すぎた。
もし、あの装甲がなければ。
もし、俺がまだ前のポンコツ鎧のままだったら。
今頃、俺の右腕は肩から先が綺麗になくなっていたに違いない。
疾風狼は、俺たちから数十メートル離れた場所で優雅に佇み、まるで獲物の反応を確かめるかのようにこちらを静かに見つめている。
その口元には、俺の装甲を削り取ったであろう鋭い牙が蒼白い光を放って覗いていた。
(……なんてこった。
こいつ、俺たちの性能を試してやがる)
整備士の勘が、最悪の結論を弾き出す。
今の攻撃は、ただのジャブ。
俺たちの防御力がどの程度のものかを探るための、ただの「データ収集」に過ぎない。
俺がようやく立ち上がり、態勢を立て直した、その瞬間。
――ヒュンッ!
再び、疾風狼の姿が掻き消えた。
「アルマ、今度は左ですわ!」
リリアのナビゲートが飛ぶ。
だが、遅い!
彼女が「左」と叫び終える前に、俺の左脇腹に凄まじい衝撃が叩き込まれていた。
――ゴッ!
「ぐっ……!」
今度は、爪による斬撃ではない。
体当たりだ。
だが、ただの体当たりじゃない。
奴は自身の身体に風の霊素を纏わせ、その質量を何倍にも増幅させている。
ロックリザードの巨体に匹敵するほどの衝撃が、俺の身体をいとも簡単に吹き飛ばした。
俺は、砂の上を無様に数メートルも転がりようやくその勢いを殺した。
全身の関節が悲鳴を上げ、水中機動用に換装したばかりの背中のヒレの一部が衝撃で砕け散るのが分かった。
(くそっ……! 速すぎる!
見えねえ、反応できねえ、追いつけねえ!)
焦りが、俺の魂を焼き尽くす。
これが、本当の格上。
ロックリザード戦のような、弱点を突けば勝機が見える相手じゃない。
純粋な「速度」という、あまりにも絶対的な性能差が俺たちの全ての戦術を無意味なものに変えていた。
(《機構造解析》!
あの動きのパターンを読み切ってやる!)
俺は、整備士としての最後のプライドをかけてスキルを最大出力で稼働させた。
疾風狼は再び距離を取り、今度は俺たちの周囲を円を描くように高速で周回し始めた。
その姿は、もはや銀色の線にしか見えない。
俺の脳内に、その動きのデータが凄まじい勢いで流れ込んでくる。
だが!
(ダメだ!
速すぎて、リアルタイム処理が追いつかねえ!)
設計図を描き出す前に、次のデータが上書きされていく。
予測する前に、攻撃が終わっている。
俺の魂が誇る最高の分析ツールが、完全にスペック不足に陥っていた。
F1カーを、家庭用のパソコンで解析しようとしているようなものだ。
CPUが、メモリが、悲鳴を上げている。
「アルマ、右後方!」
(もう攻撃は終わってる!)
「次は正面です!」
(だから遅いんだって!)
リリアの《霊素視》もまた、その圧倒的な速度の前では無力だった。
彼女に視えるのは、疾風狼が通り過ぎた後に残る霊素の残滓だけ。
彼女のナビゲートは常に一歩、いや、二歩も三歩も遅れていた。
俺とリリア、二人で一つの『妖精騎士システム』が、全く機能していない。
――ガギンッ! ズシャッ! ゴンッ!
一方的な蹂躙が始まった。
疾風狼は俺たちの周囲を回りながら、的確に、そして執拗に鎧の弱点を狙って攻撃を繰り返してくる。
関節の継ぎ目、装甲の薄い部分、バイザーの隙間。
一撃一撃は致命傷ではない。
だが、その無数の攻撃が確実に俺の鎧を、そして魂を削り取っていく。
それはまるで、高速回転するヤスリにじわじわと削られているかのような陰湿で逃げ場のない拷問だった。
(くそっ……!
なめやがって……!)
俺は、反撃を試みる。
奴が通り過ぎるであろう未来位置を予測し、ありったけの力で鉄の拳を叩きつけた。
だが、その拳は虚しく空を切るだけ。
疾風狼は俺の動きをあざ笑うかのようにその軌道を僅かに変えて攻撃を回避し、がら空きになった俺の胴体にお返しの蹴りを叩き込んできた。
(こ、の野郎……!)
完全に遊ばれている。
赤子の手をひねる、という言葉がこれほど似合う状況もないだろう。
こちとらロックリザードの甲殻で武装した、言わばポンコツ重戦車だ。
相手は、最新鋭のステルス戦闘機。
勝負にすら、なっていない。
(どうする……どうすれば、あの一瞬を捉えられる!?)
俺は、必死に思考を巡らせる。
だが、どんな妙案もこの絶対的な速度差の前では机上の空論に過ぎなかった。
俺の思考が袋小路に迷い込んでいる間にも、無慈悲な攻撃は続く。
肩、腰、膝。
関節部を狙った的確な一撃が、俺の機動力を確実に奪っていく。
アクア・トードから手に入れた滑り止め機能も、この乾いた砂地では何の意味もなさない。
水棲リザードから奪った水中用のヒレは、ただの重りにしかなっていなかった。
俺たちが、この第二階層で積み上げてきたはずの成長。
その全てが、この疾風狼の前では無価値だった。
「アルマ、諦めないでくださいまし!
あなたなら、きっと何か……何か方法が……!」
リリアが、魂を振り絞って俺を励ましてくれる。
だが、その声もまた絶望に震えていた。
彼女もまた分かっているのだ。
このままでは、ジリ貧どころか一方的に解体されて終わるだけだと。
――ガッシャァァン!
ついに、疾風狼の爪が俺の背中に取り付けたばかりの整流板を根元から引き裂いた。
水中でのバランスを司るはずだった、俺たちの希望のパーツ。
それが、まるでガラクタのように砂の上に転がっていく。
(……ああ)
俺の魂の中で、何かがプツリと切れる音がした。
もう、ダメだ。
どんなに頭を捻っても、どんなに根性を振り絞っても。
届かないものがある。
追いつけないものが、ある。
その、あまりにも残酷な事実が俺の魂に冷たい絶望を刻み込んでいく。
(……だが)
それでも。
このまま何もせずに解体されるのを待つなんていう結末だけは、絶対に認められない。
整備士としての、いや、一人の男としての最後のプライドがそれを許さなかった。
(……やるしか、ねえか)
俺の魂に、一つの、そして唯一の可能性が浮かび上がる。
それは、あまりにも無謀で成功率はおそらく1%にも満たないだろう、一か八かの大博打。
(リリア、聞こえるか)
俺は、静かに、しかし覚悟を込めて相棒に語りかけた。
「……はい、アルマ」
(今から、カウンターを狙う)
「カウンター……ですって!?
あの速さの相手に……!?」
リリアの魂が、驚愕に揺れる。
(ああ。普通にやっても、絶対に当たらねえ。
だったら、奴が俺たちに突っ込んでくる、その一瞬に全てを賭けるしかねえんだ)
それは、もはや戦術ですらない。
ただの、神頼みに近い特攻だった。
だが、リリアは一瞬の躊躇の後、力強く答えた。
「……承知いたしました。
あなたのその無謀、わたくしの魂が最後までお付き合いいたしますわ」
(……すまない)
「謝罪は、勝ってからいくらでもお聞きします」
俺たちは、覚悟を決めた。
俺は、ボロボロになった身体を無理やり引き起こし疾風狼へと向き直る。
そして、全ての防御を捨てた。
ただ、かろうじて動く右腕に、この鎧に残された全ての霊素を集中させていく。
俺のその、あまりにも分かりやすい予備動作。
それを見て、疾風狼の蒼い瞳がほんのわずかに細められた気がした。
面白い、と。
最後の悪あがきを、受けてやろう、と。
そう言っているかのようだった。
疾風狼が、俺たちの周囲を回るのをやめピタリと動きを止める。
そして、その銀色の身体を低く沈め、まるでクラウチングスタートの体勢を取った。
来る。
最後の、最大の一撃が。
俺は、右の拳に黄金の霊素を纏わせながら全神経を奴の一挙手一投足に集中させる。
《機構造解析》が、奴の筋肉の収縮、霊素の高まりを捉えようと必死に稼働する。
だが、やはり速い。
俺の予測は、常に奴の動きの後追いにしかならない。
(ダメだ……! 予測できない!)
だったら、信じるしかねえ!
俺の、整備士としての勘と!
リリアの、魂のナビゲートを!
「―――今です、アルマッ!!」
リリアの魂の絶叫が、俺の最後の引き金を引いた。
疾風狼が、地を蹴る。
銀色の弾丸が、一直線に俺の心臓めがけて突進してくる!
俺は、その軌道に合わせて魂の全てを込めた右ストレートを叩き込んだ!
時間よ、止まれ!
俺の拳が、奴の蒼い瞳に映る。
いける!
相打ち覚悟なら、届く!
そう、俺が勝利を確信した、その刹那。
疾風狼の姿が、目の前からフッと掻き消えた。
いや、違う。
奴は、突進の軌道を、空中で、直角に曲げやがった!
(なっ……!?
空力制御だと!? バカな!)
俺の渾身の一撃は虚しく空を切り、がら空きになった胴体を完全に晒け出す。
そして、俺の脇をすり抜けた銀色の残像が反転し牙を剥く。
その光景が、スローモーションのように見えた。
(ああ……)
俺の魂が、最後の瞬間に理解する。
こいつは、追いつくことすらおこがましい相手だったのだと。
―――ゴッッッッッッッッッッッッッッッ!!!
凄まじい衝撃が、俺の胴体を根こそぎ抉った。
ロックリザードの甲殻が、今度こそ悲鳴を上げて砕け散る。
俺の鉄の身体は、まるでガラクタのように宙を舞い洞窟の壁に叩きつけられた。
ガッシャアアアン!
視界が、ノイズ混じりに明滅する。
システムのエラー音が、耳鳴りのように遠くで響いていた。
全身のフレームが歪み、もう指一本動かせそうにない。
完全な、敗北。
俺は砂塵の中に倒れ伏したまま、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる疾風狼の姿をぼんやりと見上げていた。
そして、その圧倒的な速度差を前にして俺の魂の奥底に沈んでいた、あの忌まわしい記憶がゆっくりと鎌首をもたげ始めていた。
(まただ……)
俺の魂が、か細く絶望の声を漏らす。
(また俺は……追いつけない……)
その呟きは、この異世界での敗北を嘆くものではなかった。
もっと深く、もっと根源的な、俺という存在そのものを縛り付ける呪いの言葉。
俺の、最初の絶望が今、再び始まろうとしていた。




