第3話:初めての一歩、初めての絶望
【転生直後】
(動いた……本当に、動いたぞ……!)
喜びと興奮が、魂の奥底からマグマのように噴き上がってくる。
さっきまでただの鉄クズ、動くことも話すこともできない絶望の塊だった俺が、今、確かに自分の意思で動いている。
リリアと名乗った妖精の少女が授けてくれた「アルマ」という新しい名前。
その響きが、まるで起動コードのように錆びついた身体に命令を下していく。
(もう一歩……いけるか?)
俺は祈るような気持ちで、今度は左足を前に出すことを意識した。
ギギギ……ッ!
関節が悲鳴を上げる。
まるで何十年も放置された機械を無理やり動かすような、不快な金属音。
だが、そんな音すら今の俺には祝砲に聞こえた。
重い、重い鉄の足がゆっくりと持ち上がり、そして――。
ガコンッ!
再び、床を叩く鈍い音。
歩けた。
たった二歩。されど二歩。
俺は、この異世界で初めて「歩行」という行為を成し遂げたのだ。
(すげぇ……すごいぞ!
やった!やったんだ!)
脳内でガッツポーズを繰り返す。
もし声が出せるなら、間違いなく工場のコンプレッサー並みの大音量で雄叫びを上げていただろう。
前世で、どんなに完璧な整備を終えた時でも感じたことのない、純粋な達成感。
失敗作だった俺が、初めて自分自身の力で何かを成し遂げた。
そんな錯覚が、俺の魂を酔わせる。
「素晴らしいです、アルマ!その調子ですよ!」
鎧の中から聞こえるリリアの声も、弾んでいる。
彼女の喜びが、俺の魂に流れ込んできて、さらに俺を奮い立たせる。
そうだ、俺はもう独りじゃない。
この子がいる。
この子をここから連れ出してやるんだ。
希望に胸を膨らませ、三歩目を踏み出そうとした、その時だった。
ふと、俺の思考に、整備士としての冷静な部分が水を差した。
(……待てよ。
なんで俺は、急に動けるようになったんだ?)
さっきまでピクリともしなかったこのポンコツ鎧が、なぜ?
答えは、考えるまでもなく明白だった。
俺の魂が宿るこの鎧の、まさに中心部。
そこに、温かい光を放つもう一つの魂が存在しているからだ。
リリア・フォン・ローゼンタール。
彼女が、この鎧の中に入ってくれたから。
彼女の魂が、俺の魂と共鳴してくれたから。
彼女という「動力源」がなければ、俺は……アルマは、ただの動かない鉄の塊のままだった。
その事実に思い至った瞬間、あれほど熱く燃え上がっていた興奮が、急速に冷えていくのを感じた。
まるで、オーバーヒートしたエンジンに冷水をぶちまけたように。
(……ああ、そうか)
俺が成し遂げたことなんて、何一つなかったんだ。
結局、俺は一人じゃ何もできない。
この一歩も、次の二歩も、全部、彼女がいてくれたから動けただけ。
俺自身の力じゃない。
(まただ……)
前世と同じじゃないか。
父という存在がなければ、俺はサッカーボールを蹴ることすらなかった。
会社の看板がなければ、俺はただの機械いじりが好きなだけの男で、社会的な価値なんて何もなかった。
そして今、この異世界に来てまで、リリアという少女がいなければ、俺は動くことすらできない。
依存しなければ、存在することすら許されない。
誰かの力を借りなければ、一歩も前に進めない。
「やはり、お前は失敗作だ」
脳裏に、父の冷たい声が響き渡る。
そうだ。父さんの言う通りだ。
俺は、どこまでいっても「失敗作」なんだ。
一人では何もできない、欠陥品。
その事実が、動けるようになった喜びを、何倍も上回る絶望となって俺の魂に突き刺さった。
ガクン、と。
さっきまで希望に満ちていたはずの鉄の膝が、力なく折れる。
俺は、ダンジョンの冷たい石の床に、両膝をついて崩れ落ちていた。
「アルマ!?
どうかなさいましたか、急に……!」
鎧の中から、リリアの心配そうな声が聞こえる。
違う。
違うんだ、リリア。君のせいじゃない。
君は悪くない。悪いのは全部、俺なんだ。
俺が、ダメなだけなんだ。
そう叫びたかった。
だが、俺には声がない。
このもどかしさが、さらに俺を苛む。
俺のこの醜くて、情けない絶望を、彼女に伝える術すらない。
(結局、俺は……この子を助けるどころか、この子の力を利用しているだけじゃないか……)
彼女は俺を「騎士様」と呼んでくれた。
とんでもない。俺は騎士なんかじゃない。
彼女の優しさに付け込んで、その生命力を吸い上げて動いているだけの、寄生虫だ。
俺の魂が具現化したこの鎧は、俺の心の弱さそのものだ。
そして、リリアは、その弱さを動かすための……ただの「部品」なのか?
(……最低だ、俺は)
助けてもらった恩人に対して、なんてことを考えるんだ。
こんな思考回路だから、俺は失敗作なんだ。
自己嫌悪の沼に、ずぶずぶと沈んでいく。
もう、指一本動かす気力も湧いてこない。
鉄の身体は、完全に沈黙した。
「アルマ、お疲れなのですね。
無理もありませんわ、今までずっと動けなかったのですから……。
少し、お休みしましょう」
リリアの優しい声が、追い打ちをかけるように俺の心を抉る。
ああ、やっぱり、俺のこのドス黒い気持ちなんて、この気高い少女には分かりっこないんだ。
彼女は、俺がただ疲れて動けなくなったと思っている。
違う。
俺は、自分の無力さに絶望して、動けなくなっているんだ。
この圧倒的な断絶感。孤独。
それは、動けなかった時よりも、ずっと深く、冷たいものだった。
どれくらい、そうしていただろうか。
俺が絶望の底でうずくまっていると、リリアが静かに、しかし凛とした声で語りかけてきた。
「アルマ。
あなたの苦しみは、わたくしにはまだ、完全には理解できないのかもしれません」
(……!)
「ですが、一つだけ確かなことがあります。
わたくしたちは、ここにいてはならない。
この薄暗い牢獄から、一刻も早く脱出しなければならないのです」
その言葉に、俺はハッとした。
そうだ。
俺は、自分の個人的な絶望に浸っている場合じゃない。
この子は、俺に助けを求めたんだ。
「ここから連れ出してください」と。
俺が一人で動けるかどうか、なんてことは、今はどうでもいいことだ。
優先すべきは、俺自身のプライドや自己評価じゃない。
この、か細くも気高い魂を、光の下へ連れ出すこと。
それが、今の俺に課せられた、唯一の使命のはずだ。
「わたくしは、魔王の呪いでこんな姿に変えられてしまいました。
わたくし一人の力では、このダンジョンから出ることはおろか、魔物一匹倒すこともできません」
「……」
「あなたも、独りでは動けないのかもしれません。
ですが、わたくしがあなたの翼となり、声となります。
そしてあなたは、わたくしの盾となり、剣となってくださる。一人では不完全でも、二人なら、きっと……!」
リリアの声には、一点の曇りもなかった。
彼女は、俺が彼女の力を借りていることなど、欠点だとは微塵も思っていない。
それは、ただの「事実」であり、二人で乗り越えるべき「前提条件」なのだと。
彼女の気高さが、俺の腐った根性を、少しだけ洗い流してくれる。
(……そうか。俺は、また間違えるところだった)
整備士の俺が、エンジンの不調を嘆くだけで、修理を放り出すか?
しない。絶対にしない。
部品が足りないなら、代用品を探す。
設計に問題があるなら、改善策を考える。
それが、俺の仕事だったはずだ。
今の俺の状況も、それと同じじゃないか。
「一人では動けない」という致命的な設計ミス。
なら、どうする?
絶望して、全てを投げ出すのか?
違う。
リリアという、最高のパートナーがいるじゃないか。
彼女の力を借りてでも、まずはこの状況を打開する。
それが、今、俺がすべきことだ。
心の絶望が、完全に消えたわけじゃない。
「失敗作」という自己評価は、まだ俺の魂に深く根を張っている。
いつかまた、この無力感に苛まれる時が来るだろう。
(でも、今はいい)
今は、目の前の少女の信頼に応えることだけを考えよう。
俺は、ゆっくりと、全身に力を込めた。
リリアの魂の温かさを、この鎧の動力として。
ギ……、ギギ……ッ!
再び、金属の軋む音。
俺は、リリアの言葉を、願いを、その小さな身体に宿る気高さを信じて、ゆっくりと立ち上がった。
「アルマ……!」
リリアの安堵したような声が、鎧の中に響く。
俺はまだ、彼女に何も言葉を返せない。
だが、その代わりに、再び、右足を前に踏み出した。
ガコン。
今度の一歩は、さっきまでの歓喜に満ちたものでも、絶望に打ちのめされたものでもなかった。
それは、不完全な自分を受け入れ、それでも前に進むと決意した、泥臭くて、ぎこちない、でも確かな一歩だった。
(行こう、リリア)
俺たちの、長くて、きっと失敗だらけの旅が、今、本当に始まる。