第23話:第二階層への扉
【ヴェステリア歴 1025年・春の終わり】
(なあ、リリア。
この下、何があるか分からねえ。
でも……行ってみるしかねえよな)
前世の俺だったら、きっとここで立ち止まっていただろう。
未知への恐怖。失敗への不安。
だが、今の俺の魂は恐怖よりも、その先に待つであろう新たな挑戦への好奇心で満たされていた。
リリアの魂もまた、俺の決意に応えるように力強く輝いていた。
「はい、アルマ。
あなたの進む道が、わたくしの道です。
その光の先に、きっと希望がありますわ」
(そうだな。希望、か)
悪くない響きだ。
俺はリリアのその言葉を胸に、生まれ変わった鎧のその最初の一歩を暗闇へと続く階段へと踏み出した。
光が差し込む、その先へ。
俺たちの、本当の冒険が今、始まろうとしていた。
ガコン……ガコン……。
俺の、アルマの足音が静かな螺旋階段に規則正しく響き渡る。
ロックリリザードの甲殻を取り込んだことで、以前の軽薄な金属音とは違うずっしりとした重低音が心地いい。
まるで、安物の軽自動車から高級セダンに乗り換えたかのような安定感だ。
(しかし、長い階段だな。
一体どこまで続いてるんだ?)
転生してから約一ヶ月。
その大半を過ごした第一階層とは、明らかに空気の質が違う。
ひんやりと湿った空気が鎧の隙間から流れ込んでくるのを感じる。
硫黄の匂いは消え、代わりに土と水の匂いが濃くなっていた。
「アルマ、霊素の流れも変化していますわ。
第一階層は、ロックリザードの影響で乾燥し澱んでいたように感じましたが……
ここは、もっと清らかで常に流動しているようです」
鎧の中から聞こえるリリアの声は、まるでソムリエがワインの香りを確かめるように真剣そのものだ。
彼女の《霊素視》には、俺には見えないエネルギーの流れが鮮やかな川のように視えているのだろう。
(なるほどな。
階層ごとに環境が違うってのは、ダンジョンのお約束ってわけか。
だとしたら、出てくる魔物も……)
俺の思考を肯定するかのように、脳内にシステムメッセージが響く。
《警告:周辺環境の変化に伴い、出現する魔物の生態系が変化する可能性があります。既存の戦闘データとの乖離に注意してください》
(ご忠告どうも。
相変わらずお硬いな、俺たちのOSは)
この『妖精騎士システム』と名乗る謎の存在にも少しずつ慣れてきた。
俺とリリアの魂が特定の条件下でシンクロした時に起動する、戦闘補助OSのようなもの。
いまだにその正体は謎のままだが、今のところは俺たちの頼れる味方であることは間違いない。
どれくらい下っただろうか。数百段は軽く超えた気がする。
単調な下り階段は、精神的に結構くるものがある。
前世の整備工場で、地下ピットへの階段を何往復もさせられた新人時代を思い出すぜ……。
やがて螺旋階段は終わりを告げ、俺たちは開けた場所に出た。
「これは……」
リリアが息を呑むのが、魂を通して伝わってきた。
俺もまた、目の前に広がる光景に言葉を失っていた。
(……なんだ、この場所は)
そこは、巨大な洞窟だった。
だが、第一階層の乾いた岩盤剥き出しの殺風景なドームとは全く違う。
天井は遥か高く、そこから垂れ下がる巨大な鍾乳石の群れが、まるで自然が作り出したシャンデリアのように淡い光を放っている。
光源はそれだけじゃない。
壁や床の至る所に青白く発光する苔がびっしりと生えており、空間全体を幻想的な光で満たしていた。
そして、何よりも俺たちの度肝を抜いたのは、その広大な空間を縦横無尽に流れる無数の水の流れだった。
ザアザアと心地よい水音を立てて流れる、幅数メートルの川。
天井の鍾乳石から滴り落ちる水滴が地面の窪みに溜まってできた、鏡のように澄んだ泉。
そして、空間の最も低い場所には、どこまでも続いているかのような広大な地底湖が静かに広がっていた。
ここは、ダンジョンの第二階層。
巨大な、地下水脈の迷宮だった。
「……美しいですわ」
リリアが、うっとりとしたため息を漏らす。
(ああ、全くだ。
こんな景色、前世じゃ逆立ちしたって見られなかっただろうな)
青白い光が水面に反射してキラキラと輝き、天井の鍾乳石を照らし出す。
その光景は、まるで星空を逆さまにしたかのようだ。
俺はしばし、その幻想的な美しさに魂を奪われていた。
だが、整備士としての俺の魂は、この美しい光景の中に潜む「異常」を見逃しはしなかった。
(……待てよ。
この湿度、この水量……。
普通の機械なら、一瞬で錆びてぶっ壊れるぞ)
俺のこの鉄の身体も例外じゃない。
ロックリザードの甲殻は頑丈だが、元々の鉄のフレーム部分はただの鉄だ。
こんな高湿度の環境に長時間いれば関節部から錆びつき、いずれは機能不全に陥る可能性がある。
《警告:高湿度環境下での長時間活動は、鎧の関節部に著しい性能低下を引き起こす可能性があります。定期的なメンテナンスを推奨します》
(だよな!
俺もそう思う!)
システムからの的確なツッコミに、俺は心の中で激しく頷いた。
美しい景色に浮かれている場合じゃない。
ここは、俺たちにとっては極めて危険な環境でもあるのだ。
「アルマ、どうなさいました?
なんだか、とても焦っているような……」
(ああ、いや、ちょっとな。
職業病みたいなもんだ。水気は大敵でな)
俺がそう伝えると、リリアは合点がいったように頷いた。
「なるほど……。
確かに、あなた様は鉄のお身体でしたね。
わたくしの霊素で防錆の結界のようなものを張ることはできますが……魂の消耗が激しくなってしまいます」
(いや、いい。
お前に無理はさせられない。それより、この階層、なんだか嫌な予感がする)
俺は《共振探知》の感度を最大に引き上げた。
第一階層では、主に地面や壁の振動を拾っていた。
だが、この第二階層では媒体が違う。
振動を伝えるのは、この空間を満たす「水」そのものだ。
俺は自分の鎧を巨大なソナーのようにイメージし、周囲の水が伝える微かな振動を探った。
すると、どうだ。
(……いるな)
水の中だ。
それも、一体や二体じゃない。
川の流れの中、泉の底、そして広大な地底湖の暗がり。
至る所に何者かが潜んでいる気配が、微かな水流の乱れとして俺の探知機に映し出されている。
奴らは息を潜めて、俺たちが水辺に近づくのを待っている。
(リリア、この階層の魔物は水中戦が得意なタイプみたいだ。
下手に水に近づくのは危険だぞ)
「ええ、わたくしの《霊素視》にも、水の中に複数の澱んだ霊素の塊が視えます。
まるで、泥の中に潜むナマズのように……」
(ナマズか……。
あまりいい例えじゃないな)
俺たちは互いの探知結果を共有し、警戒レベルを最大に引き上げた。
どうやらこの第二階層は、第一階層とは全く違う攻略法が求められるらしい。
パワーと防御力だけじゃなく、地形と敵の特性を理解したより戦術的な立ち回りが必要になるだろう。
(よし、まずはルートの確保だ。
あの地底湖の向こう岸に、次の階層へ続く道があるかもしれん。
できるだけ水辺を避けて、壁際を慎重に進もう)
俺がそう提案し、リリアもそれに同意した。
俺たちは、発光する苔が照らし出す狭い岩棚の上をゆっくりと進み始めた。
右手に広がるのは、静まり返った不気味な地底湖。
左手は、湿って滑りやすい洞窟の壁。
一歩踏み外せば、水中に引きずり込まれるのは間違いない。
(くそっ、歩きにくいな……。
ロックリザードの装甲で重くなったせいか、バランスが取りづらい)
俺が内心で悪態をついていると、リリアが励ますように声をかけてくる。
「大丈夫ですわ、アルマ。
あなたの足元は、わたくしがしっかり見ていますから」
(ああ、頼りにしてるぜ、最高のナビゲーター)
その、軽口を叩き合った、まさにその瞬間だった。
俺たちのすぐそば。
さっきまでただの泉にしか見えなかった、直径数メートルの水たまり。
その水面が、不意に、ごぼりと大きく泡立った。
(!)
俺の《共振探知》が危険を知らせるよりも早く。
リリアの《霊素視》がその正体を捉えるよりも早く。
――ビュッ!
水面から、まるで槍のように長く、ぬめりを帯びた何かが凄まじい速度で射出された。
狙いは、寸分の狂いもなく俺の顔面……兜のバイザー部分だ。
「アルマッ!」
リリアの悲鳴のような警告が、鎧の中でこだました。
だが、もう遅い。
回避も、防御も、間に合わない。
俺は、目の前に迫る未知の攻撃をただ見つめることしかできなかった。
第二階層の、最初の洗礼。
それは、あまりにも突然で、そして狡猾な奇襲だった。




