第2話:心の鎧と心優しき妖精
【ヴェステリア歴 1025年・春】
(……ここは、どこだ?)
意識がまるで深い泥の底からゆっくりと浮上してくるような感覚と共に覚醒した。
最後に覚えているのは軋むジャッキの音と、抗いがたい質量が自分に降りかかってくる絶望感。
そして油と鉄と、自分の血の匂い。
俺、田所陸は死んだはずだった。
(だとしたらここは天国か?
いや、俺みたいな「失敗作」が行ける場所じゃないか……
じゃあ地獄?)
周囲を見渡そうとして、俺は最初の異常に気づいた。
目が開かない。 いや、そもそもまぶたがない。
じゃあどうして「見える」んだ?
まるで後頭部にでも目がついているかのように、三百六十度全方位の景色がぼんやりと、しかし確かに認識できる。
そこは薄暗い石造りの空間だった。
苔むした壁、ひび割れた床、そして俺のすぐそばには白骨化した何かの死骸が転がっている。
およそ天国とは言い難い、ダンジョンとでも呼ぶべき場所だ。
(待て、落ち着け。
こういう時は状況確認が最優先だ。
まずは手足を……)
動かしようとして、次の絶望が襲ってきた。
手足の感覚がない。
それどころか全身のどこにも、肉体というものの感触が存在しない。
まるで魂だけがそこにあるような、奇妙で心もとない浮遊感。
(嘘だろ……。
もしかして、幽霊にでもなったのか?)
それならそれでまだ納得がいく。
だが、俺の魂が感じている現実はもっと不可解で残酷なものだった。
俺には確かに「身体」があった。
ひんやりとした硬い感触。
それは紛れもなく金属のそれだ。
自分の輪郭を意識すると、そこにはずんぐりとした胴体と武骨な手足の形があった。
関節部分は錆びつき、あちこちが凹んでいる。
まるで打ち捨てられて久しい、年代物の鉄鎧。
(……鎧?
俺が鎧に?)
冗談じゃない。
なぜ? どうして?
死ぬ間際に願った。
「誰からも傷つけられない、硬い、硬い鎧の中に閉じこもりたい」と。
まさか、その願いがこんな形で叶ってしまったとでもいうのか。
あまりにも悪趣味な神様の采配に、乾いた笑いすら出てこない。
俺は鎧になった。
それも、お世辞にも上等とは言えないポンコツの鎧に。
(動け、動けよ!)
心の中でどれだけ叫んでも鉄の手足はピクリともしない。
意思を伝達する神経も、動かすための筋肉もここには存在しないのだ。
ただ、そこに「在る」だけ。
話すこともできない。
喉も声帯もないのだから。
結局これじゃあ前世と何も変わらないじゃないか。
いや、もっと悪い。
自分の意思で動くことすらできず、誰かに拾われるのを待つだけの鉄クズ。
誰にも責められない代わりに、誰にも認識すらされない。 誰にも傷つけられない代わりに、誰かに触れることすらできない。
完璧な孤独。完璧な無力。
(ああ、結局俺は……
どこまでいっても「失敗作」なんだな……)
父の言葉が亡霊のように脳裏でこだまする。
もう楽になりたかった。
いっそこのまま朽ち果てて、ただの鉄の錆になってしまいたい。
だが、鎧には死ぬという概念すらないらしかった。
意識だけがこの鉄の牢獄の中で、永遠に続く責め苦を味わい続けるのだ。
どれくらいの時間が経っただろう。
一日か、一週間か、あるいは一年か。
時間という感覚さえも曖昧になっていく暗闇の中で、俺の意識が摩耗し消え入りそうになった、その時だった。
ぽぅ……。
不意に目の前に小さな光が灯った。
最初は蛍のような頼りない光だった。
それがふわりと宙を舞い、ゆっくりと俺の方へ近づいてくる。
光は徐々に人の形をとり、やがて俺の目の前でその動きを止めた。
それは手のひらに乗るほどの、小さな、小さな妖精だった。
透き通るような白銀の髪は淡い光を放ちながら滑らかに揺れている。
背中には蝶の羽のような、光の粒子でできた四枚の羽がゆっくりと羽ばたいていた。
纏っているのは花弁を幾重にも重ねたような簡素なドレス。
おとぎ話から抜け出してきたかのような幻想的な姿。
しかしその表情は、深い悲しみと疲労に満ちていた。
宝石のような紫色の瞳は潤み、今にも零れ落ちそうな雫を湛えている。
(……きれいだ)
柄にもなくそう思った。
こんな絶望の底で、こんなにも美しい存在に出会うなんて。
彼女は俺という鉄の塊を、ただじっと見つめていた。魔物だと怯えるでもなく、ポンコツだと侮蔑するでもなく、ただ静かに。
やがて彼女は震える唇を小さく開いた。
鈴を転がすような、か細くも気品のある声が俺の魂に直接響いてくる。
「……お願いです。わたくしを、ここから連れ出してください……」
その声は懇願だった。
助けを求める悲痛な叫びだった。
俺にはわかった。
彼女もまた、この孤独なダンジョンで絶望の淵に立たされているのだと。
(助けて……
やりたい)
心の底からそう思った。
だが、どうやって?
俺は動けない。話せない。
ただの鉄クズだ。
お前は失敗作なんだぞ。
また期待させて、失望させるだけだ。 父の幻影が俺の心を縛り付ける。
(でも……
このままじゃこの子も俺と同じだ。
この暗闇の中で独りで朽ちていくだけだ)
俺にできることなんて何もない。
わかっている。わかっているんだ。
それでも目の前で助けを求めているか細い命を、見捨てることだけはどうしてもできなかった。
すると彼女はふわりと浮かび上がり、俺の胸当ての隙間にその小さな身体を滑り込ませようとした。
(え?
ちょ、何して……!?)
俺が内心で慌てふためくのをよそに、彼女は躊躇なく俺の鎧の中へと入ってきた。
ひんやりとした鎧の内側に、ふわりと温かい光が宿る。
それは魂の温度だったのかもしれない。
そして彼女が完全に鎧の中に入りきった、その瞬間。
――ドクンッ!!
まるで止まっていた心臓が再び鼓動を始めたかのような、強烈な衝撃が俺の魂を貫いた。
鎧の内側で彼女の魂と俺の魂が共鳴し、混じり合い、一つの奔流となっていく。
彼女の「ここから出たい」という切実な願いが、俺の「この子を助けたい」という意志に流れ込む。
俺の整備士としての知識と構造を理解する力が、彼女の生命エネルギーと結びついていく。
《魂の同調を確認。
霊素循環経路、強制接続。
不適合箇所を自動補正……》
(なんだ……これ……?)
脳内に機械的な音声が響き渡る。
それと同時に今まで感じたことのなかった力が、鎧の隅々まで満ちていくのがわかった。
錆びついていたはずの関節に熱い油が注ぎ込まれるように。
断線していた配線が繋がり、強烈な電流が走るように。
「……あなたの心が聞こえます。
とても温かくて……優しい心……」
鎧の中からリリアの震える声が響いた。
彼女の魂が俺の思考を、感情を、過去の痛みごと受け止めてくれているのがわかった。
「わたくしはリリア。
あなたの声はわたくしが届けます。
あなたの勇気はわたくしがお支えします。
だから……どうか、その一歩を」
リリアの言葉が最後の引き金になった。
脳裏で囁き続けていた父の幻影が、彼女の温かい光にかき消されていく。
(失敗したっていいじゃないか)
(動けなくたっていいじゃないか)
(一人でできないなら、二人でやればいい)
そうだ。
俺はずっと一人で完璧であろうとしすぎていたんだ。
失敗を恐れ、挑戦から逃げて、自分だけの硬い殻に閉じこもって。
でも、今は違う。
この鎧の中には俺の魂だけじゃない。
守りたいと心から願う存在がいる。
(……動け)
俺はもう一度強く念じた。
今度は絶望からではない。希望を込めて。
ギ……、
錆びついた膝の関節が軋む音を立てた。
(動け……!)
ギギ……、
腰の装甲が悲鳴のような音を上げる。
(動けぇぇぇぇぇぇっ!!!)
――ガッッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!
重い、重い鉄の足がついに床から離れ、半歩前に踏み出された。
床に叩きつけられた金属の足音が、静寂なダンジョンに高らかに響き渡る。 自分で動いた。
この鎧が自分の意思で、動いた。
「……あ……」
鎧の中からリリアの小さな、感動に震えた声が漏れた。
俺の視界に映るのは、ほんの数センチ前に出ただけの無骨な鉄の足先。
しかしそれは俺にとって、絶望の底から光の世界へと踏み出した何よりも偉大な一歩だった。
(動いた……動けたぞ……!)
「はい! 動きました!
あなたがご自身の力で!」
リリアが俺の心に応えるように叫ぶ。
その声は紛れもなく喜びの色をしていた。
「わたくしの名前はリリア・フォン・ローゼンタール。
あなたのその魂の鎧に、名前を授けてもよろしいでしょうか?」
(名前……?)
俺はただの「失敗作」で、名前なんてなかったはずだ。
「あなたの魂は、スペイン語で『魂』を意味する『アルマ』。
今日からあなたは『アルマ』です。
わたくしのたった一人の騎士様」
アルマ。
それが俺の新しい名前。
新しい世界で新しい相棒と共に歩み出す、最初の証。
止まっていた運命の歯車が今、確かに音を立てて回り始めた。




