第2話:呪われた鎧と心優しき妖精
暗い。
真っ暗で何も見えない。
何も聞こえない。
(ここは、どこだ……?)
俺の名前は、三上 陸。
三十歳。自動車整備士だった……はずだ。
リフトの下敷きになった、あの焼けるような痛みと、骨が砕ける感触。
最後に後悔だけを抱いて、俺の人生は終わったはずだった。
(これが死ぬってことか……
思ったほど、寂しくないな)
そんな、どこかの漫画で聞いたような陳腐な感想を抱いたのを最後に、俺の意識は途切れた。
なのに、今、俺は確かに「何か」を考えている。
死んだはずなのに、意識だけがある。
まさか……
植物人間状態ってやつか?
冗談じゃないぞ!
意識だけあって、動くことも、死ぬことすらできないなんて、そんな地獄があるか!
俺は焦って、自分の身体を動かそうとした。
腕を、足を、指の一本でもいい。
動け、動いてくれ!
だが、何の反応もない。
それどころか、手足の感覚そのものが存在しない。
頭をかこうにも、そもそも自分の頭がどこにあるのかさえ分からない。
オイオイ、ちょっと待ってくれよ。
クールな俺としたことが、柄にもなく混乱している。
こういう時は素数を数えるんだ。
落ち着け。
1、2、3、ダァーッ!
違う。
そうじゃない。
そもそも1は素数じゃなかったか?
いや、どうでもいい。
どう考えても、もう慌てなきゃいけない時間だろう!
痛みはない。
暑さも寒さも感じない。
ただ、無があるだけだ。
(俺の身体は、どうなっちまったんだ……?)
五感を研ぎ澄まそうとするが、頼りになるのは触覚だけだった。
自分の腹? の下あたりが、ゴツゴツとした岩のような感触をしている。
背中側も同様だ。
どうやら俺は、どこか洞窟のような場所に転がっているらしい。
そして、ゆっくりと意識を自分の内側、その輪郭へと向けていく。
時間をかけて、自分の身体の境界線を確かめていく。
そして……理解してしまった。
(嘘だろ……)
俺の身体は、硬い金属でできていた。
人型だ。胴体があり、腕があり、足がある。だが、それは生身の肉体じゃない。
カツン、と内側から腕を叩くイメージをすると、硬い感触が伝わってくる。
表面にはいくつも深い傷が刻まれ、関節部分は赤黒い錆に覆われている。
胸当ての部分なんて、派手にへこんでいる始末だ。
どう考えても、打ち捨てられて久しい、ポンコツの鎧。
それが、今の俺の姿だった。
(鎧……?
俺が、鎧になったのか……?)
転生、というやつか。
死ぬ間際に願ったからか。
『もう一度、やり直せるなら』と。
だが、これがあんまりじゃないか?
なぜ鎧なんだよ!
しかも、自分じゃピクリとも動けない、ただの鉄クズじゃないか!
(お前は、俺の失敗作だ)
まただ。脳裏に、あの忌まわしい父親の声が響く。
そうだ。結局、何も変わらないじゃないか。
プロサッカー選手になれなかった俺は、父親にとっての「失敗作」だった。
そして、異世界に転生した結果が、これだ。
動くことも、話すこともできない、打ち捨てられたポンコツ鎧。
人生二度目の、正真正銘の「失敗作」。
後悔に満ちた死を迎えた挙句、転生先でも絶望からスタートか。
俺の人生、ハードモードすぎるだろ。
(ああ……もう、どうでもいいか……)
意識を手放してしまいたかった。
このまま、ただの鉄の塊として朽ち果てていく。
それも、悪くない結末かもしれない。
挑戦さえしなければ、失敗することもないのだから。
俺が永遠の微睡みに沈もうとしていた、その時だった。
チリン……。
微かな、鈴の音のようなものが聞こえた。
いや、聴覚はないはずだ。
だが、確かに俺は「何か」を感じ取った。
それは、か細く、そしてどこか温かい気配。
闇の中に、ぼんやりと淡い光が灯る。
蛍のような、小さな光だ。
光は、ゆっくりと俺に近づいてくる。
そして、俺の兜の、ちょうど目の前にあたる部分でふわりと止まった。
光が収まると、そこにいたのは、手のひらに乗るほどの小さな少女だった。
透き通るような羽を持ち、美しい金色の髪を揺らす、おとぎ話に出てくるような妖精。
だが、その表情は悲しみに曇り、宝石のような青い瞳からは、大粒の涙がいくつもこぼれ落ちていた。
「うぅ……ひっく……お父様……お母様……」
(喋ってる……?)
言葉が、わかる。
なぜかは分からないが、彼女の言葉が直接、俺の意識に流れ込んでくる。
妖精は、俺がただの鎧ではないことに気づいていないようだった。
彼女は傷ついた羽を震わせながら、独り、絶望に打ちひしがれていた。
「魔王の呪いなんて……
こんな姿になってしまっては、もう、誰にも……」
魔王? 呪い?
物騒な単語が聞こえてきたが、それよりも俺は、目の前の小さな存在から目が離せなかった。
彼女はひどく怯え、孤独に震えている。
まるで、かつての自分を見ているようだ。
父に罵倒され、グラウンドでたった一人、立ち尽くしていた幼い頃の自分。
(助けてやりたい……)
そう思った。
だが、俺に何ができる?
動くことも、声をかけることさえできない、ただの鉄の塊だ。
まただ。肝心な時に、俺は何もできない。
無力感に打ちのめされていると、妖精がふと顔を上げた。
涙に濡れた青い瞳が、じっと俺の兜を見つめている。
「……?
この鎧……どこか、温かい……?」
彼女は、おそるおそる小さな手を伸ばし、俺の兜にそっと触れた。
その瞬間、
ビビッ!!!
(うおっ!?)
静電気どころじゃない。
まるで雷に打たれたような衝撃が、俺の全身を駆け巡った。
彼女も驚いたように「きゃっ」と小さな悲鳴を上げて手を引く。
なんだ?
いったい何が起きた?
「……あなた……
もしかして、生きているのですか……?」
彼女の声が、震えている。
バレた。
いや、そもそも隠していたわけじゃないが。
どうする?
どうやって返事をする?
(ああ、そうだ。
生きている。
見ての通りのポンコツ鎧だがな!)
心の中で精一杯叫んでみる。
もちろん、届くはずもない。
「……返事、はないのですね……。
でも、わたくしにはわかります。
あなたの中に、とても悲しくて、優しい魂があるのが……」
魂? 俺の? 優しい?
買いかぶりすぎだ。
俺はただの臆病な失敗作だ。
妖精は再び俺の兜にそっと触れると、慈しむようにその表面を撫でた。
「わたくしはリリアと申します。
リリア・フォン・ローゼンタール……。
魔王の呪いを受け、このような姿に……。
魔物から逃げるうちに、このダンジョンに迷い込んでしまいました」
リリアと名乗った彼女は、ぽつりぽつりと自分の身の上を語り始めた。
彼女は、とある公爵家の一人娘だったらしい。
だが、民を苦しめる魔王の呪いを一身に引き受けようとした結果、こんな非力な妖精の姿に変えられてしまったのだという。
なんてお人好しなんだ。
いや、気高いと言うべきか。
俺とは大違いだ。
俺は、自分のことばかりで、誰かのために何かをしようだなんて、考えたこともなかった。
「もう……どこにも、逃げ場が……」
リリアの瞳から、再び涙がこぼれ落ちそうになる。
その時、洞窟の奥から、複数の甲高い鳴き声と、羽ばたきのような音が響いてきた。
リリアの顔が恐怖に凍りつく。
「……!
来ます……魔物が……!」
まずい。
このままでは、彼女が危ない。
(逃げろ! 早く!)
俺は必死に念じる。
だが、動かない身体がもどかしい。
どうすれば。
どうすれば彼女を助けられる?
そうだ。
俺の中は空洞だ。
ここなら隠れられるんじゃないか?
(おい! 俺の中に入れ!
ここなら安全だ!)
届くはずのない想いを乗せて、俺は必死に叫び続けた。
すると、まるで俺の心が聞こえたかのように、リリアがはっとした顔で俺を見上げた。
「……!
そうですわ……この中に……!」
彼女は決意を固めたように頷くと、俺の胸当ての隙間から、ひらりと中へ飛び込んだ。
彼女が鎧の内部、ちょうど心臓があったであろう位置に収まった、その瞬間だった。
ゴオオオオオオオオッッ!!!
(な、なんだ!?)
魂が、共鳴する。
俺の、三上陸としての後悔に満ちた魂と、リリアの、気高くも傷ついた魂が、まるで一つのパズルのピースがはまるように、強く結びついた。
今まで感じたことのない、膨大な力が奔流となって、錆びついた俺の全身を駆け巡る。
それは、魔力、というやつだろうか。
俺の意識が、鎧の隅々まで、まるで神経のように行き渡っていく。
「お願いです……
わたくしを、ここから連れ出してください……!」
鎧の中から、リリアの切実な声が響く。
(ああ、任せろ!)
俺は、生まれて初めて、誰かのために動きたいと、心の底から思った。
失敗してもいい。不完全でもいい。
ただ、この温かい光を、守りたい。
ギ、シ……。
指が、動いた。
錆びついた金属が軋む、鈍い音。
だが、それは紛れもなく、俺自身の意志で動いた証だった。
(動く……
動かせる!)
ゆっくりと、拳を握りしめる。
腕を、上げる。
そして――。
ギシャアアアンッッ!!
けたたましい金属音を立てて、俺は大地に片膝をついた姿勢から、ゆっくりと立ち上がった。
目の前には、鋭い牙を剥き出しにした、巨大な蝙蝠の魔物が数体、迫ってきていた。
(お前らが、最初の相手か)
恐怖は、なかった。
いや、心のどこかでは、まだ父の声が響いている。
失敗を恐れる臆病な俺がいる。
だが、それ以上に強い想いが、俺を突き動かしていた。
俺は、右足を、前へ踏み出した。
それは、たった一歩。
錆びついて、不格好で、お世辞にも騎士とは呼べない、ぎこちない一歩。
だがそれは、三上陸としての人生でも、鎧としての転生でも、決して踏み出すことのできなかった、確かな、最初の一歩だった。