第12話:ジャイアントバットの超音波
「キィン」という魂を直接削るような不快音が、巨大な空洞に足を踏み入れた俺たちを襲った。
それは物理的な音じゃない。耳で聞いているのではなく、魂で聞かされている。
ゴブリンたちとの死闘を乗り越えたばかりの疲弊した魂に、無数の針を突き立てられるような耐え難い苦痛だった。
(なんだこの音……黒板を爪で引っ掻く音を百倍にして、直接脳に流し込まれてるみてえだ!)
俺は鉄の身体だ。物理的な損傷はない。
だが、この精神攻撃は身体の芯に響くように効いてくる。思わず兜のあたりを押さえたくなる衝動に駆られた。
それも俺以上に、この攻撃に苦しんでいる存在がこの鎧の中にいるのだ。
「うっ……あ……アルマ様……! あたまが……割れるように……!」
鎧の中からリリアの悲鳴が魂に直接響いた。
彼女の魂の光が、まるで風の前の灯火のように激しく揺らめいている。
そうだ。
彼女はか弱き妖精。その魂は霊素という純粋な力でできている。
俺という鉄の鎧は物理的な攻撃から彼女を守ることはできても、魂に直接干渉してくるような攻撃に対してはただの鉄の檻でしかない。
いや、むしろ反響させて苦痛を増幅させている可能性すらある。
(リリア!?
しっかりしろ!)
俺が焦りの声を上げるのと、天井の暗闇から無数の赤い光点が現れるのはほぼ同時だった。
それは憎悪に満ちた魔物の眼。
バサッ、バサッと不気味な羽ばたきと共に、その正体が明らかになる。
「あれは……ジャイアントバット……!
群れで超音波を放ち、獲物の方向感覚と魂を狂わせ、衰弱させてから……襲いかかる、厄介な……魔物……!」
リリアが途切れ途切れの苦しい息の下で、敵の情報を伝えてくれる。
見上げるほどの高さがある天井から、巨大な蝙蝠の群れがまるで黒い雪崩のようにこちらへ向かって降下してきていた。
その数、三十……いや、五十は下らないだろう。
奴らが斉に放つ不協和音が、この空洞全体を魂を削る拷問部屋へと変えているのだ。
(くそっ! リリアが危ない! 早くなんとかしないと!)
ゴブリン戦で得たばかりの自信が、全く新しい型の攻撃の前に早くも揺らぎ始める。
どうする?
どうすればこの状況を打開できる?
(まずは遠距離攻撃だ!
スライム戦でやったみたいに……!)
俺はスライムの核を砕いたあの技……《共振撃》を放とうと、腕に霊素を集中させた。
だが、すぐにその無意味さに気づく。
相手は一体じゃない。空中を縦横無尽に飛び回る数十体の群れだ。
一体を狙い撃ちしたところで、残りの群れに蹂躙されるのが関の山だ。面で制圧できるほどの広範囲攻撃は、今の俺にはない。
(なら、分析だ! 敵の動きを読んで……!)
俺は《機構造解析》で敵の動きを型として捉えようと試みる。
しかし、キィンキィンと鳴り響く超音波が、まるで強力な妨害のように俺の思考をかき乱す。
集中できない。
ただでさえ不規則に飛び回る群れの動きを、この雑音の中で正確に分析することなど不可能に近い。
(くそっ、思考がまとまらない! 設計図が描けない!)
「アルマ……!
敵が……来ます……!」
リリアの警告。
分析に手間取っている間に、先頭の数体が急降下しその鋭い牙を剥き出しにして襲いかかってきた。
俺は咄嗟に腕を振り回し、その数体を叩き落とす。
だが、その隙に別の個体が背後に回り込み、翼の硬い部分で後頭部を強打してきた。
ガンッ!
鉄の身体には大した損傷はない。だが、体勢が崩れる。
その隙を狙ってさらに別の個体が、鎧の関節部を狙って牙を立ててくる。
ゴブリン戦の悪夢の再来だ。
いや、敵が空中を自在に飛び回る分、もっと厄介だった。
(ダメだ、このままじゃ……!)
防御に徹しようにも、超音波は物理的な防御を無視して鎧の内部にいるリリアを直接苛み続ける。
ただ耐えるだけでは、リリアの魂が先に限界を迎えてしまう。
「あ……ぅ……」
リリアの意識が弱々しく明滅しているのが伝わってくる。
彼女の魂の光が、消えかけている。
(やめろ……
やめてくれ……!)
俺の魂が絶叫する。
俺のせいだ。俺が不用心にこの空洞に足を踏み入れたから。俺がもっと強ければ。
まただ。
また俺は、大切なものを守れないのか。
無力感と焦りが俺の思考を黒く塗りつぶしていく。
父の幻影が脳裏で囁く。
「ほらみろ。お前には何もできない。
結局、誰一人守れないじゃないか」
(うるさい……!)
「お前は、失敗作なんだからな」
(黙れぇぇぇぇぇぇっ!!)
絶体絶命の、その瞬間。
俺の魂の中で何かが、プツリと切れた。
恐怖や絶望ではない。
もっと熱いもの。
もっと激しいもの。
(リリアを……この子だけは、絶対に……!)
守りたい。
ただ、その一心だけが俺の魂の全てになった。
父の声も過去のトラウマも、どうでもいい。
どうすればリリアを守れる?
どうすればこの忌々しい音を止められる?
(……待てよ)
思考が極限の集中の中で、一つの可能性にたどり着く。
(この超音波はただの音じゃない。これは『振動』だ。
霊素を乗せた、魂に干渉してくる特殊な振動波だ)
そうだ。俺は整備士だ。
エンジンの異音を聞き分けるのが、俺の仕事だったじゃないか。
最初はただの不快な雑音にしか聞こえない音も、集中して耳を澄ませばその音源が分かる。
ピストンの打音か、ベアリングの摩耗か、あるいは弁の開閉時期のズレか。
音の波形、周期、反響。それらの情報から見えない内部の異常を「視る」。
(それと、同じだ)
この忌々しい超音波もただの雑音じゃない。
敵の位置、羽ばたきの周期、鳴き声の波形。
全てがこの振動の中に「情報」として含まれているはずだ。
この振動そのものを「視る」ことができれば……!
俺は外部への意識を完全に遮断した。
目(にあたる感覚)を閉じ、耳(にあたる感覚)を塞ぐ。
五感を閉ざし、ただ魂に直接響いてくるこの無数の「振動」だけに、全神経を集中させる。
キィィィィィィィィィン……
うるさい。頭がどうにかなりそうだ。
だが、その無数の雑音の奔流の中から、一つ一つの「波」を分離させていく。
あのジャイアントバットが放った波。
その隣の個体が放った波。
壁に反響した波。
天井から跳ね返ってきた波。
俺の鎧にぶつかって乱れた波。
(そうだ……これだ……!)
俺は自分のこの鉄の身体そのものを、一つの巨大なセンサー……
集音器のように変質させていくイメージをした。
この鎧で敵が放つ超音波の、その反響を全て拾い上げる。
「アルマ……?
あなたの魂が……とても、静かに……」
リリアのか細い声が俺の集中を揺さぶる。
(大丈夫だ、リリア。もう少しだけ耐えてくれ。
すぐにこのクソみたいな演奏会を終わらせてやるから)
俺は彼女に魂の全てでそう伝えた。
そして、さらに深く、深く振動の世界へと意識を沈めていく。
最初は混沌とした雑音の海だった。
だが集中を続けるうちに、その海の中に規則性が見え始めてきた。
波と波が干渉しあって生まれる僅かな歪み。
その歪みこそが、敵の位置を示す唯一の道標。
(聞こえる……
いや、『視える』……)
俺の魂が、これまで知覚できなかった新しい世界を捉え始める。
(音の……波が……。
敵の、姿を、描き出して……)
無数の波紋が重なり合う、その中心。
そこには敵一体一体の正確な位置を示す「特異点」が、まるで暗闇に灯る星々のように輝いて見えていた。
俺の魂がリリアを守りたいという、ただ一つの願いに応えるように。
全く新しい知覚……その覚醒の、まさに入り口に立っていた。