第10話:ゴブリン・斥候の奇襲
(マジかよ、勘弁してくれ……)
スライムを倒した安堵感は、一瞬で氷点下の緊張感に変わった。
通路の暗がりから次々と姿を現す緑色の小さな悪魔たち。ゴブリン。
それもただのゴブリンじゃない。
その無駄のない動き、統率の取れた陣形、そして何より俺たちがスライムとの戦いで消耗するのを冷静に待ち構えていたその狡猾さ。
こいつらは斥候に特化した、厄介な手合いだ。
(こちとら体力も魔力も真っ赤だぜ、気分的には。
連戦はキツい!)
さっきの《共振撃》は俺とリリアの魂を直接すり減らす、いわば奥の手だ。
精神的な疲労は鉄の身体であっても無視できないレベルで蓄積している。
「アルマ、敵は十二体!
前衛に短剣持ちが五、後衛に弓持ちが七です!
おそらく先ほどのスライムは、わたくしたちの実力を測るための捨て駒……!」
鎧の中から聞こえるリリアの声もまた、鋭く張り詰めていた。
彼女の《霊素視》が敵の配置と数を正確に弾き出す。
なんてことだ。
俺たちはまんまと罠にはめられたのか。
俺が態勢を立て直すよりも早く、ゴブリンたちの統率された奇襲が始まった。
「キシャァァッ!」
甲高い鬨の声と共に、後衛の弓ゴブリン七体が斉に矢を放つ。
ヒュンッと風を切る音が連続し、七本の矢が寸分の狂いもなく俺の頭部と胸部に集中する。
(くっ!)
俺は咄嗟に両腕を交差させ、顔面への直撃を防ぐ。
ガガガガッ!
錆びた矢じりが俺の鎧に硬い音を立てて弾かれる。大した威力はない。
だが、これは陽動だ。
「アルマ、四方から来ます!」
リリアの警告と同時だった。
矢を防いで体勢がわずかに崩れた、その一瞬の隙を突き、前衛の短剣ゴブリン五体がまるで獣のように四方八方から躍りかかってきた。
正面から二体、左右から一体ずつ、そして一体は低い姿勢で足元を狙ってくる。
(くそっ!
一体を相手にすると、別のやつが死角から……!)
俺は右腕で正面の一体を殴りつけようとするが、その動きを読んでいたかのように左から来たゴブリンが俺の腕に短剣を突き立てる。
「キンッ!」と甲高い音を立てて短剣は弾かれるが、その衝撃で俺の攻撃は逸らされた。
その隙に足元を狙っていたゴブリンが、アキレス腱にあたる部分の関節にその汚い短剣をねじ込もうとしてくる。
(させるか!)
俺は身体を捻り、蹴りのような動作でそのゴブリンを弾き飛ばす。
だが、その動きで生まれた新たな死角……背後から別のゴブリンが忍び寄り、鎧の継ぎ目に短剣を突き立ててきた。
ギィン!
鈍い音がして装甲の隙間に刃先が食い込む。
浅い。
だが、確実に損傷は蓄積していく。
これが連携。 これが数の暴力。
スライムのような単体の敵との戦いとは、全く次元が違う。
俺の思考が敵の動きに全く追いついていなかった。
「アルマ、右後方!
いえ、左からも矢が!」
リリアの案内も混乱をきたし始めていた。
敵の数が多く、攻撃があまりにも多角的すぎる。
彼女の《霊素視》をもってしても全ての攻撃を事前に察知し、的確な指示を出すのは不可能に近い。
(落ち着け……落ち着くんだ、俺。
機械の動きと同じだ。
どんなに複雑に見えても必ずそこには法則性があるはずだ。
型を読め!)
俺は必死に整備士としての自分を呼び覚ます。
エンジンの不規則な振動音から、どの部品が異常かを特定するように。
このゴブリンたちの動きにも、必ず連携の「核」となる型があるはずだ。
(正面の二体は俺の注意を引くための攻撃役。
左右の二体は俺の攻撃を妨害し体勢を崩すための補助役。
そして足元を狙う一体が、致命傷を狙う切り札……!
後衛の弓部隊は俺が大きく動こうとした瞬間に、その動きを牽制するように矢を放ってくる!)
見えた。
敵の攻撃の型を、俺は数秒の攻防の中で完全に分析してみせた。
完璧だ。これなら……!
「アルマ、左のゴブリンが最大の殺意を放っています!
そちらを!」
リリアが彼女の直感的な《霊素視》で、最も危険な個体を警告する。
だが、俺の論理的な分析は別の答えを弾き出していた。
(違う、リリア!
そいつは陽動だ!
俺が左に意識を向けた瞬間、右翼の弓部隊が一斉に俺の関節部を狙ってくるはずだ!
本命は右だ!)
「ですがアルマ!
霊素の昂りは明らかに左が……!」
(俺の分析を信じろ!)
俺はリリアの警告を半ば無視する形で、右からの攻撃に備えて身構えた。
しかし、その瞬間。
俺の分析もリリアの直感も、どちらも正しく、そしてどちらも間違っていた。
左のゴブリンは確かに陽動だった。
だが、その目的は俺の意識を引くことじゃない。
俺の足元にぬるりとした液体……おそらく油のようなものを撒くことだった。
そして俺が右からの攻撃を警戒して踏み込んだ瞬間、その油で足が滑る。
(しまっ……!)
ガシャン!
大きく体勢を崩した俺に、本命の攻撃が襲いかかった。
それは右からではなかった。
正面。
陽動だと思っていた二体のゴブリンが、俺が体勢を崩すのを待っていたかのように、その両腕の装甲の隙間に同時に短剣を突き立ててきたのだ。
「ぐっ……!」
声にはならない衝撃が魂を揺さぶる。
致命傷ではない。
だが、この鎧がただの鉄ではない、俺自身の魂が具現化したものであることを嫌というほど思い知らされた。
(ダメだ……。俺の分析は役に立たない……)
機械なら同じ入力には同じ出力を返す。
だが、こいつらは生き物だ。
思考し学習し、こちらの予測を裏切ってくる。
そんな不確定要素の塊を、俺の「完璧な設計図」に落とし込むことなどできるはずがなかったのだ。
(俺はまた……リリアの足を引っ張っているだけじゃないか……)
失敗への恐怖が再び鎌首をもたげる。
動きが鈍る。
思考が濁る。 鉄の身体がまたあの時のように、俺自身の魂に縛り付けられていく。
そんな俺の心の揺らぎを、ゴブリン・スカウトたちが見逃すはずもなかった。
好機と見たのだろう。
後衛の弓部隊が今度は俺の動きを止めるためではなく、明確な殺意を持ってリリアがいるであろう胸部装甲めがけて、一斉に矢を放ってきた。
「アルマッ!」
リリアの悲鳴のような声。 俺は迫りくる矢の雨を前に、ただ立ちすくむことしか……。
その時だった。
「アルマ!
わたくしに、あなたの『盾』を預けてくださいまし!」
鎧の中から聞こえたリリアの声は、俺の凍てついた魂を叩き起こす力強い響きを持っていた。
(盾を……?
どういう意味だ、リリア!?)
「あなたは敵全体の動きの『分析』だけに集中してください!
一体一体の攻撃への対処は、わたくしの『直感』で案内します!」
役割分担。
俺に戦場の全体像……大局的な視点での分析を。
彼女に瞬間的な回避行動……微細な視点での判断を。
それはあまりにも大胆で、そして無謀な提案だった。
俺の身体の制御を、ほぼ完全に彼女に委ねるということだ。一瞬の判断ミスが俺たち二人の死に直結する。
(そんな危険なこと、できるわけ……!)
「できます!」
俺の躊躇をリリアは一喝した。
「あなたはあなたの仕事を。
わたくしはわたくしの仕事を。
そしてそれを繋ぐのが、わたくしたちの『絆』なのでしょう!?
わたくしたちは二人で一つの騎士なのですから!」
その言葉にハッとさせられた。
そうだ。
俺はいつの間にかまた一人で戦おうとしていた。
一人で分析し、一人で判断し、一人で動こうとしていた。
だからちぐはぐになったんだ。
この鎧は俺一人だけのものじゃない。 俺とリリア、二人のものなんだ。
(……分かった。
リリア、俺の身体をお前に預ける)
俺は覚悟を決めた。
迫りくる矢の雨を、もはや直接視ることはしない。
意識を戦場全体を俯瞰する、より高い次元へと飛ばす。
敵十二体の位置、動きの方向、攻撃と移動の間隔、視線の動き、呼吸のリズム……。
それら全ての情報を俺のスキル《機構造解析》が、リアルタイムで処理していく。
脳内に敵の連携の型の、巨大で複雑な「設計図」が徐々に描き出されていく。
そして俺が手放した身体の制御を、リリアが完全に掌握した。
「アルマ、右腕で防御!
そのまま半歩後退!」
リリアの直感的な指示が魂に直接響く。 俺は思考を挟まず、ただ彼女の言葉を信じてその通りに鉄の身体を動かす。
ガキン!
右腕の装甲が寸分の狂いもなく矢の弾道を塞ぐ。
「左から短剣! 身体を捻って回避!」
俺の身体が滑るように回転する。
脇腹を狙ったゴブリンの刃が空を切った。
「足元に注意! 小さく跳躍!」
俺は油が撒かれた床を軽く飛び越える。
最初はぎこちなかった。
俺の思考とリリアの指示と、鉄の身体の動きがほんの少しずつズレていた。
だが、数秒、数十秒と攻防を続けるうちに、そのズレが徐々に、しかし確実に収束していくのが分かった。
俺の描く敵の連携の「設計図」。
リリアが視る霊素の昂りという「回路図」。
二つの情報が俺たちの魂の中で同調し、一つの完璧な答えを導き出し始める。
(……見えてきた)
無数の攻撃の糸が絡み合う、その中心。
全ての動きを制御している、たった一本の重要な糸が。
(リリア、聞こえるか。
後衛、右から三番目の弓ゴブリン。
あいつがこの連携の『核』だ!)
俺がついに敵の指揮官役を見抜いた、その瞬間。 リリアの魂から獰猛なまでの喜びと、絶対的な信頼の光が溢れ出した。
「ええ、視えていますわ、アルマ!
最高の『設計図』、確かに受け取りました!」
俺たちの初めての本当の連携が、今、始まろうとしていた。