第1話:失敗作の独白
土砂降りの雨が、ぬかるんだグラウンドを容赦なく叩いていた。
ボールが足につかない。
最悪のコンディションだった。
けれど、そんなものは言い訳にならない。
父にとっては。
「陸!
なぜ今パスを出した!
お前の判断ミスでチャンスを潰したんだぞ!」
ベンチから怒声が飛ぶ。
チームメイトの視線が痛い。
違う、痛いのは視線じゃない。
父の、田所厳の失望を映した瞳だ。
元プロサッカー選手だった父にとって、俺は夢の続きであり、その身代わりだった。
そして、その夢を汚す失敗は、決して許されない罪だった。
(ごめんなさい、ごめんなさい……)
声にはならない謝罪が、喉の奥で澱のように溜まっていく。
試合終了のホイッスルは、まるで断頭台の刃が落ちる合図のようだった。
案の定、帰りの車の中は、父の法廷と化した。
「今日の敗因は全てお前だ。
あの場面、なぜドリブルで持ち込まなかった?
怖いのか?
また失敗するのが」
「……」
「黙るな!お前には才能があった。
俺が果たせなかった夢を叶えられるだけのものが。
それなのに、お前は挑戦から逃げた。
臆病者め」
そして、最後に突き刺された言葉。
それが、俺の心を完全に殺した。
「お前は、失敗作だ」
ハンドルを握る父の横顔は、まるで知らない人のように冷たかった。
愛情も、期待も、そこにはもう何もなかった。
あるのは、出来損ないの道具に対する侮蔑だけだ。
好きだったはずのサッカーは、いつしか恐怖に変わっていた。
一つのミスが、俺という人間の価値をゼロにする。
そんな極限のプレッシャーの中で、俺の心は静かに壊れていったのだ。
あれから十年。
俺、田所陸は、自動車整備士として働いている。
結局、プロになる夢は高校で完全に潰えた。
父の期待に応えられなかった俺は、言葉通り「失敗作」として家を出て、一人で暮らしている。
「田所〜、次の車、頼むわ。赤いスポーツカーのやつ」
「はい、今行きます」
工場の奥から呼ばれ、俺は油の染みたウエスで手を拭いながら立ち上がった。
油と金属の匂い。
工具の立てる硬質な音。
幼い頃、父に隠れて夢中になった機械いじり。
それが今の俺の仕事だ。
目の前に滑り込んできた流線形のボディは、イタリア製の高級スポーツカーだった。
オーナーは、最近テレビでよく見る若手のプロサッカー選手だ。
皮肉なものだ。
俺が諦めた夢の舞台で輝く人間が、俺の職場に客としてやってくる。
「エンジンから少し異音がするんだ。
次の試合までには完璧にしといてくれよ」
「……承知しました。
細部まで点検いたします」
感情を殺し、完璧な整備士の仮面を被る。
ボンネットを開けると、複雑な配線と精密なパーツで構成されたエンジンが姿を現した。
美しい。まるで芸術品だ。
一つ一つの部品が、設計者の意図通りに完璧に組み合わさり、一つの生命体のように機能する。
俺は、この機械の心臓部に触れている時だけ、ほんの少しだけ息ができる気がした。
(このボルトのトルク、規定値より少し緩んでるな。
振動の原因はこれか?
いや、それだけじゃない。
インジェクターの噴射タイミングに僅かなズレがある。
コンマ数秒の世界だが、これがエンジンの吹け上がりに影響してるはずだ)
指先が、聴診器のように機械の声を聞く。
どこが痛いのか、どこに無理がかかっているのか。
それは、言葉よりも雄弁に俺に語りかけてくる。
これだけは、父に否定され続けた俺に残された、唯一の価値だった。
「相変わらず仕事が丁寧だな、田所は」
先輩が缶コーヒーを片手に話しかけてくる。
「でもよ、もうちょっと愛想よくしたらどうだ?せっかく腕はいいんだから」
「……すみません。そういうのは、苦手で」
そう、苦手なのだ。
人と関わることが。評価されることが。
ミスをすれば、また誰かに「失敗作」の烙印を押されるのではないか。
その恐怖が、俺を厚い殻の中に閉じこもらせる。
だから、完璧を求める。
完璧な仕事さえしていれば、誰も俺を責めない。
傷つけない。
それは、いつしか俺の強迫観念になっていた。
その日も、残業して一人、工場の隅で軽自動車のエンジンをオーバーホールしていた。
古い車種で、メーカーにも部品がない。
客は「もう廃車にするしかない」と諦めていたが、俺はどうしても諦めきれなかった。
(このピストンリング、少し摩耗してるだけだ。
旋盤で削って調整すればまだ使える。
ガスケットは……寸法を測って自作するか)
誰に頼まれたわけでもない。
残業代が出るわけでもない。
ただ、見捨てられたこの機械を、もう一度動かしてやりたかった。
それはまるで、父に見捨てられた自分自身を救うための儀式のようだったのかもしれない。
深夜、作業に没頭していた、その時だった。
古いジャッキが、軋むような音を立てたのに気づくのが、一瞬遅れた。
長年の金属疲労が限界を超えたのだろう。
「――あ」
声にならない声が漏れた。
世界が、スローモーションになる。
支えを失った車体が、ゆっくりと、しかし抗いがたい重力に従って、俺の上に傾いてくる。
(また、失敗……したのか……?)
衝撃と、骨が砕ける鈍い感触。 視界が急速に暗転していく。
油と鉄の匂いに混じって、生臭い血の匂いがした。
薄れゆく意識の中、走馬灯のように過去が駆け巡る。
泥だらけのグラウンド。
父の怒声。
チームメイトの冷たい視線。
高級スポーツカーのエンブレム。
諦めた夢の残骸。
そして、古いエンジンの部品を磨いていた、ついさっきまでの自分。
(ああ、結局……
俺の人生、なんだったんだろうな……)
父の言う通り、失敗作だったのかもしれない。
夢を叶えることもできず、誰かを心から愛することも、誰かに必要とされることもなく、こんな工場の隅で、誰にも看取られずに死んでいく。
(でも……それでも……)
最期の最期に、心の底から一つの願いが湧き上がってきた。
それは、富でも名声でも、ましてや誰かを見返すことでもなかった。
(ただ、好きなものを……
好きなだけ、いじりたかった)
誰にも文句を言われず。 失敗を責められず。
勝ち負けも、評価も関係ない場所で。
ただひたすらに、自分が愛しいと思える機械と向き合っていたかった。 心の底から、そう願った。
もし、もう一度……
もう一度だけチャンスがあるのなら。
今度は、誰にも邪魔されない、硬い、硬い鎧の中に閉じこもって。
誰からも傷つけられない、自分だけの世界で――。
そこで、田所陸の意識は、完全に途絶えた。
彼の魂が、失敗を恐れるあまりに自ら纏った「心の鎧」と共に、新たな世界へと旅立ったことを、まだ誰も知らなかった。