第1話:失敗作の独白
カツン、と乾いた音がやけに広く感じる整備工場に響く。
俺は手に持ったスパナを工具棚に戻すと、深く、重いため息をついた。
蛍光灯の白い光が、磨き上げられた高級車のボンネットに反射している。
寸分の狂いもなく仕上げたはずの板金塗装。
我ながら完璧な仕事だと思う。
俺の名前は、三上 陸。
三十歳。自動車整備士。
それが、今の俺の全てだ。
「陸さん、こっち終わりましたー」
年下の同僚が、気の抜けた声で報告してくる。
俺は「おう」と短く返事をするだけ。
会話なんて、業務に必要な最低限で十分だ。
波風を立てず、目立たず、ただ与えられた仕事を完璧にこなす。挑戦も、余計な自己主張もしない。
そうやって生きていれば、誰かに失望されることも、罵倒されることもない。
(まただ)
心の奥底で、冷たい声が響く。
いつからだろう。
何をするにも、まず失敗しないための完璧な計画を頭の中で組み立てるようになったのは。
リスクは徹底的に排除する。
不確定要素は一つ残らず潰す。
まるで、精密機械の設計図でも引くみたいに。
そのせいで、俺の行動はいつもワンテンポ遅い。
そして、面白みのかけらもない。
「お、陸じゃん。
俺の愛車、よろしくな」
背後からかけられた気安そうな声に、俺の肩がぴくりと震えた。振り返らなくてもわかる。
この声の主は、俺が最も会いたくない種類の人間だ。
輝かしい舞台で活躍する、プロサッカー選手。
つい先日、大きな試合で決勝ゴールを決めてヒーローになったばかりの男。
そして、俺の、元チームメイト。
「……ああ。
預かってる」
「やっぱお前の腕は確かだよな。
ディーラーに出すより安心だぜ」
男は悪気なく笑いながら、俺の肩をバンと叩く。
その気安さが、俺の心をじわりと蝕む。
やめろ。俺に触るな。
お前たちのような世界の人間と、俺は違うんだ。
彼の隣には、モデルのような美女が寄り添っている。
勝利者のトロフィー。
それが、今の俺には不釣り合いなことくらい、自分が一番よくわかっていた。
(お前は、俺の失敗作だ)
不意に、脳裏であの声が再生される。
泥と汗にまみれたサッカーグラウンド。
遠のいていくチームメイトの背中。
そして、鬼の形相で俺の胸ぐらを掴む、父親の姿。
『なぜあそこでパスを出した!
なぜシュートを撃たない!』
『ごめんなさい……』
『謝るな!
お前は俺の全てを注ぎ込んだ最高傑作になるはずだったんだぞ!
なのに、このザマは何だ!』
そうだ。俺の父は、元プロサッカー選手だった。
怪我で夢を絶たれ、その歪んだ情熱の全てを、一人息子である俺に託した。
俺は機械いじりが好きだった。
古いラジオを分解して、その仕組みを解き明かすのが何より楽しかった。
だが、父はそんな俺の小さな楽しみを許さなかった。
サッカーボール以外のものを手にすることさえ、罪であるかのように罵った。
パスを一つミスすれば、人格を否定された。
シュートを一度外せば、存在価値がないとまで言われた。
父にとって、俺は「三上 陸」ではなかった。
彼の夢を代わりに叶えるための「身代わり」であり、彼の理想通りに動くための「作品」だった。
そして、プロへの道を断たれた俺は、出来損ないの「失敗作」として捨てられた。
「……おい、陸?
聞いてるか?」
「え?
ああ、悪い。
なんだ?」
「だから、来週までには頼むぜって。
次の試合、この子も観に来るからさ。
カッコつけねえと」
男はそう言って、隣の彼女の腰を抱き寄せる。
彼女は「もう、やだあ」と甘えた声を出す。
くそ。
まさに、リア充爆発しろ! ってやつか。
だが、俺の心に湧き上がるのは、嫉妬や羨望ですらない。
ただ、息が詰まるような、諦めだけだ。
「わかってる。
やっとくよ」
感情を殺した声でそう答えると、俺は彼らに背を向け、黙々と作業に戻った。
完璧に。ミスなく。
誰にも文句を言わせないように。
そうすれば、俺は「失敗作」にすらならずに済む。
ただの、意思のない、便利な道具でいられる。
その日の夕方だった。
残業で一人、リフトアップされた大型SUVの下に潜り込み、最後の点検作業を行っていた。
古い機械だ。
時々、油圧系の調子が悪くなる。
俺は、自分の仕事道具であるこのリフトの癖も、その構造も、完璧に把握していた。
だから、大丈夫。
危険はない。
(この異音……ベアリングか?
いや、摩耗の具合からすると、もっと根本的な……)
不意に、機械の構造解析に思考が没頭する。
この瞬間だけが、俺が唯一、自分を解放できる時間だった。
誰にも邪魔されず、誰にも評価されず、ただ純粋に、目の前の機械と向き合う。
その論理的な構造、寸分の狂いもない歯車の噛み合わせ、効率的なエネルギーの伝達。
美しい。
本当に、美しい世界だ。
もっと、いじりたい。
もっと、知りたい。
心の底から、そう思った。
その時だった。
ゴ、ンッ、という鈍い金属音が、俺の思考を中断させた。
見上げた瞬間、視界に映ったのは、ゆっくりと、しかし確実に、下がってくる巨大な車体だった。
(嘘だろ……?)
油圧が、抜けている。
俺が完璧に把握していたはずの、安全なはずの機械が、牙を剥いた。
なぜ? どうして?
俺の計画は、完璧だったはずだ。
どこに不確定要素があった?
「う、あ……っ!」
声にならない悲鳴が漏れる。
逃げなければ。
だが、恐怖と混乱で、身体が鉛のように重い。
父親に罵倒された、あの試合の日と同じだ。
足がすくんで、動けない。
まただ。
また俺は、肝心な時に、失敗する。
ドスッ!
衝撃と、骨が砕ける嫌な感触。
熱い。
息が、できない。
視界が急速に赤く染まっていく。
「……が、はっ……」
ああ、死ぬのか。俺は。
こんな、何も成し遂げないまま。
誰にも認められないまま。
「失敗作」として、生涯を終えるのか。
薄れゆく意識の中、最後に脳裏に浮かんだのは、父の顔でも、サッカーボールでもなかった。
初めて自分で分解した、古いラジオの内部。複雑に絡み合った配線と、整然と並んだコンデンサ。
その無機質で、論理的で、美しい光景だった。
(ああ……もっと……いじりたかった、な……)
誰にも、文句を言われず。
失敗作だなんて、罵られず。
ただ、好きなものを、心の底から。
思う存分、いじりたかった。
完璧な設計じゃなくてもいい。
失敗したって、いい。
もう一度、やり直せるなら。
今度こそ、俺は……。
それが、三上陸が、この世で思った最後の言葉だった。
彼の後悔に満ちた魂が、ぷつりと糸が切れるように、深い、深い闇へと沈んでいく。
そこにはもう、光も、音も、何一つ届かなかった。