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異世界に転生して無敵チートなハーレム人生……だったはずなのに? くそっ、なんで俺は輪になってんだよ!?

これは「めちゃくちゃ普通」な短編です。

転生とか社畜とか、みんな大好きな要素がちゃんと入ってます!

ちょっと長めで、だいたい2万8千字くらいありますけど——

脳みそを外しても、

お布団の中でゴロゴロしながらでも、

おしりをポリポリ掻きながらでも、

ぜーんぜん問題なしっすよ!٩( ᐛ )و✨


とってもゆる〜く読める感じなんで、

最後だけはちゃんと脳みそを元に戻してね(́◉◞౪◟◉‵)


……だって、読者の皆さま、

きっとこのあと、あるいは明日にはまたお仕事なんでしょうから〜!

爆ぜろ!クソみたいなこの世界――転生の時だッ!


良治元年(2030年)、大日本国・関東地方のとあるブラック企業にて


社長室で、俺は社長と睨み合っていた。悔しさと怒りが胸の奥で渦巻く中、あのクソ野郎は片目を細め、どこか余裕を漂わせながら、やけに高そうな葉巻をくゆらせてやがった。


「…本当に、退職金すら出していただけないんですか?」


社長は冷たく笑って、ゆっくり立ち上がった。


「お前さ、自分にそんな権利があると思ってんのか?」


そう言いながら、俺の周りをゆっくりと歩き出す。こいつ…なんてクズだ。俺の頬に、まるで灰皿のように葉巻の火を押しつけやがった。


「当たり前だろ、そんな資格くらいあるに決まってんだろ!

この10年間、会社の業務の三割以上を支えてきたのは誰だと思ってる?

事務処理、来客対応、帳簿管理……全部、俺がやってきたんだ。」


「ふーん、それで?ウチには自動化AIがあるんだよ。見た目が人間っぽいだけのな。」


鼻で笑って肩すくめやがった。その態度に、俺の怒りはますます燃え上がった。


「ふざけんなッ……!

俺は、ずっと馬車馬みたいに働いてきたんだぞ。死ぬほど疲れても、

歯を食いしばって……それでも、やってきたんだよなぁッ!

十年間、一円も給料は上がらねぇし、残業代だって出たことねぇ!

俺がデスクで報告書叩いてる間に、お前は隣の部屋で助手抱いてよ……!

コーヒー淹れろって命令してきて、俺を何だと思ってんだよ!?

休日だって働いてたんだぞ……それなのに、てめぇは女と浮気かよ……!

なあ、どのツラ下げてそんなこと抜かしてんだよッ!」


「社長様であるこの私に、逆らうつもりか?」


俺の怒号を遮るように、異様なほど冷静な口調でそう言い放った社長は、葉巻の煙を俺の顔に吹きかけてきた。


「そんな顔すんなって~、見苦しいぞ?落ち着かせてやろうと思って煙を吹いてやったんだよ。あとで退職金から引いとくから、よろしくな~?」


「てめぇ……ッ!」


「怒んなって~。私の助手の喘ぎ声、タダで聞けたんだぞ?

ほんとは料金取ってもいいレベルだけど、私が優しいから許してやったんだよ。

AVの現場を生で見られて、ありがたく思えっての。」

社長は自分の指先をじっと見つめたあと、

軽く撫でるようにひと撫でして、

その爪の垢をピンッと弾いて俺の顔に飛ばした。


「ここまで面倒見てやったのに、交渉とかナメてんのか?。

恩知らずとはお前のことだな?」


その吐き気を催すような笑み――

俺の理性は、静かに、しかし確実に崩れ始めていた。


「……」


「どうした?

あれ?黙っちゃった?やっぱ図星か~?

この会社にとって、生産性のないゴミはいらねぇんだよ。

10年間のご褒美だ、ありがたく受け取れや?」


そう言って、あのクソ社長は俺の顔に向かって、豊臣秀頼の顔が印刷された千円札を投げつけてきた。


「……ッ!」


俺は拳を握りしめ、必死にこみ上げる怒りを押し殺した。

指の関節がポキポキと鳴り、その音が静かな室内に響き渡る。


そんな俺の怒りすらも楽しんでいるかのように、社長はニヤリと口角を歪めた。

嫌悪と嘲りが入り混じったその笑みは――見る者の胸をえぐるほど不快だった。


「あ、そうだ。もう一枚欲しい?ま、私の愛人にでもプレゼントしてやんなよ?」


「……どういう意味だ?」


「おやまぁ、哀れだねぇ。まだ気づいてなかったとは……お前が本物のバカなのか、それとも私が優秀すぎるのか――どっちだろうね? フフ、ハハハ!」


社長は、まるでバカを見るような目で俺を見下ろしながら、わざとらしく笑い声を上げた。


「教えてやろうか?――お前の嫁、私のこと……そ・と・う・に ご満悦だったぞ?

顔も悪くねぇし、胸もそこそこ。尻?そりゃもう、弾力ヤバかったわ~

それがどうして、お前みたいなゴミとくっついたのか……ホント、勿体ないよな?」


「テメェ……!」


「まあまあ、落ち着けって。私はただ、事実を述べてるだけだよ?」

例えば――家に帰っても家事一つしないとか、家にいる時間より外にいる方が長いとか……

それでいて、持ってるモンはさ、爪楊枝レベルの頼りなさでさ~w

その点、私みたいに顔も金も、それに"能力"まで兼ね備えた男とは、比べるのも失礼だろう?

ああ、そうそう――彼女の胸の下にあるホクロ、あれ、たまらなくセクシーだよな?……なあ?」


――なんで、あいつが知ってるんだ……!?

あのホクロのことは、俺しか知らないはずだったのに……


頭が追いつかない。

信じがたい現実に、思考が止まって、何も考えられなくなった。


俺は、この腐りきった会社で、何とか家庭を支えようと必死だった。

疲れ果てても……妻と子どもの笑顔だけが、かろうじて俺を繋ぎとめてくれていた。


最初から、辞めるなんて選択肢はなかった。

住宅ローン、子どもの保育料、年老いた両親の医療費――

全部が、俺一人の肩にのしかかっていた。


妻は家で子どもを一生懸命育ててくれていた。その苦労に報いるために、せめて金だけでも……

それしか返せなかったんだ……俺には、金ぐらいしか……


……なのに。

それでも、足りなかったってのかよ……!


俺の胸の内を見透かしたかのように――

社長のクソみてぇな一言が、またしても俺の理性をぶっ壊しにきやがった。


「ねぇ、知ってた? あいつさぁ……ほんっと〜に、

素直でさぁ……すっげぇ従順なんだよねぇ〜?

私のこと、ずっと欲しがっててさ。

体の奥まで擦り寄ってきて、喘ぎ声なんか部屋中に響いて……でもな、それがまた、耳に心地いいんだわ。

もしかしたら、もう私の子……できてるかもしれないなぁ。なぁ?

今からでも遅くないし、家に帰って私の子の顔でも見てこいよ。ガーハッハッハッハ!!」


社長は、俺の耳元にぴたりと顔を寄せ、まるで毒蛇が獲物に牙を突き立てるように、囁く声で俺の理性に猛毒を流し込んできた。


次の瞬間――その卑劣極まりない笑い声が、俺の中に残っていた最後の理性を、音を立てて引き裂いた。


「……っ!」


感情が爆発し、俺は怒りのままに社長の身体を力任せに叩き飛ばした。


「おっと?暴力かぁ?これは傷害罪だぞ?」


「俺に何ができるって?……なら、こうしてやるよッ!!!

俺のターン!ドロー!魔法カード発動!転生の秘儀ッ!

異世界転生専用・大型トラックと、特装・重量級バイクを特殊召喚ッ!!」


俺はポケットから光沢のある緑のカードを抜き出し、儀式のごとく社長の前に掲げた。

社長は鼻で笑いながら、俺を冷ややかに見下ろした。


「ぶっはははははっ!おいおい、とうとう頭イカれたか?転生だぁ? あっははっ、冗談キツすぎてマジで腹筋裂けるわ……!」


「まずはお前自身に問いかけてみろよ……今のトレンドに、ちゃんとついていけてんのか?

今、日本ではな――『転生』はもはや一大ブームだ!

毎日どこかで、トラックやバス、事故車両に吹き飛ばされて、異世界に飛ばされるヤツが山ほどいるんだよッ!!」


「お前、自分が何様だと思ってんの?使えねぇ役立たずの性不能野郎が異世界転生ぅ?"O説家になろう"読みすぎて頭やられたんじゃねぇのか?」


「これこそが……俺のアドバンテージなんだよッ!!

流行が転生なら、乗るしかねぇだろ!――ならば俺は、異世界で英雄にも王にもなるッ!

くたばれ、クソったれなこの世界!!腐りきった現実よ、今すぐ爆ぜて滅びろォォォ!!!

お前の全てを――魂も地位もプライドも、転生の秘儀の供物として捧げてやるッ!!

俺は異世界で、チート能力を手に入れてハーレム作って、世界を征服してやるんだよお おおおおおおおッ!!!!!」


その瞬間――視界の端が赤く染まり、まるで世界そのものが燃え始めたように見えた。

社長は信じられないという顔で周囲を見渡し、硬直したその瞬間……


「ブオオオオォォォォ――――!!!」


けたたましいクラクションが高層ビルの86階、オフィスの窓の外から響き渡った。


「ガシャアァァァァン!!!」


巨大なトラックと重量級のバイクが、ガラス窓をぶち破って突入。

次の瞬間、俺の身体は吹き飛ばされ、空中に舞い上がった――


……ああ、来た……来たぞ、これだ……!

これが……俺の転生なんだ……!


社長が怒りに満ちた顔で、何かを叫んでいたが――もう聞こえなかった。

俺はただ、歓喜と解放の中で、浮遊するこの感覚を味わっていた。


「テメェえええッ!!」


血?うん、たぶんドバドバ出てた……けど、そんなのもうどうでもいい。

だが――どうでもいい。


勝ち誇ったようにニヤッと笑いながら、俺は社長に向けて中指を突き立てた。


その直後、全身がふわりと宙に浮き、急激な落下感が俺を包んだ。


……風が、切り裂くように耳をかすめていく――

なのに、その音が、これほどまでに美しく思えたのは初めてだった。


落下していく景色が、まるで幻想みたいに美しくて――

俺は、ほんの一瞬だけ、そっと目を閉じた。


……そこには、思い描いた通りの異世界。

好き勝手できて、誰からも認められて、何でも思いのままになる、最高の人生。


絶対に来るよな? なあ、来るに決まってるよな!?

だって、これ――「小O家になろう」の短編なんだぜ!?


作者がさ、俺にチートもハーレムも与えないなんて……そんなの、ありえねぇだろ!?


勝利を確信し、俺は満足げに微笑みながら――ゆっくりと目を開けた。


……その瞬間。視界の隅に、ありえない光景が飛び込んできた。


え……!?


社長……あいつも、落ちてきてやがる……!?


悔しげどころか、勝ち誇ったような笑みを浮かべながら――

あいつは、俺とまったく同じ緑の魔法カードを、悠然と取り出した。


その唇が動いた刹那――俺の胸の奥で、怒りと屈辱が炎のように燃え上がった。


「妻夫木……支配するのは、いつだってこの私だ。お前じゃない――クズが。」


「柳葉!!!」


声が出ない。叫びたいのに、声にならない。最後に俺が聞いたのは――


「パキンッ」


身体のどこかで、何かがゆっくりと裂けていく感覚――

それはやがて、全身を伝うように音を立てて砕けていった。

その瞬間、身体の内側から、何か温かいものが静かに流れ出していくのを感じた。

それが何なのかは分からない……だけど、確かに、自分の一部だった。


意識が、深い霧の中に吸い込まれていくように、少しずつ遠ざかっていく――


……俺は、抗うこともなく、穏やかに目を閉じた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


ふざけるなよ!? 俺が輪になっただと!? 嘘だろう!!!


1239年、 バシレイア・トーン・ローマイオン(ローマ帝国)

ブルーサ郊外の小さな農家の木小屋にて――


どれほどの時が経ったのか分からない。だが、身体に鋭い痛みが走った瞬間、俺は目を開けた――いや、おかしな話だが、目の前の光景は“見えて”いるのに、目を開けたという感覚がまったくなかったのだ。


「パパ、見て見て!うまくできたよ?」


「うん……すごく綺麗だ。でももっと良くなるかも。手伝おうか?」


優しげな中年の男が、そばにいる小さな男の子ににっこりと微笑みかけていた。

すると、その子の口から、幼いながらも元気な声が飛び出す。


「ううん、自分でやるの!ぼく、ちゃんとできるようになって、パパの役に立ちたいんだ!」


……この子の声――たぶん、あの男の子がこの人生での俺の兄弟で、男は父親ってところだろう。


でも……どういうことだ? 俺自身も子どものはずなのに、

視界が、ずっと古い作業台の上に張りついてんだよな……


……いや、まさか……これって……邪教の儀式!? 生贄にされるやつか!?


もしそうじゃないなら、もしかして……俺、モノに転生したってことか!?


いや、そんな馬鹿なこと……せめて人間には生まれ変わってるよな!? なあ!?


だが、刃物が削る音と身体を裂くような痛みが、無言のまま答えを示していた。

空間を舞う木屑。汗だくで笑う少年の顔。俺は――叫びたいほどの痛みに耐えていた。でも、声すら出せない。

動こうとしても、手も足もないことに気づいた。存在そのものが希薄だ。


終わりの見えない、まるで永遠に続く拷問のような激痛が、意識の奥底まで突き刺さってくる。俺は声すら出せず、ただその苦しみに耐えることしかできなかった――そんな時間がどれほど続いたのか。やがて、あの男の子が満足そうに笑みをこぼした。


「パパ!できたよ!この車輪すっごく綺麗でしょ!これでまた車が動くよ!」


「おお、イオアンニス、本当にいい子だな。すごくよくできてるよ!」


俺の視点が急に持ち上がる。そして目の前に中年の男の顔が――彼がじっと俺を見つめ、クルリと二回ほど俺を回した。満足げな顔で頷くと、息子の頭を撫でながら、俺を肩に担いで外へ運び出した。

――この瞬間、ようやく理解した。

俺、この世界じゃ……人間ですらない。車輪だって!? そんなのアリかよ!?


いや、いやいや、待て待て! きっと俺には何か特殊能力があるはずだ。変身能力とか、車輪戦隊シャリンジャーとか、爆走レンジャー・タイヤンとか……仮面ライダーだって変身できるんだぞ!?


これは異世界転生の物語だろ!? 俺がただの車輪で終わるわけが……いや、あるのか? 嘘だろ……!


……そう思った矢先、現実が遠慮なく俺のツラぶん殴ってきやがった。


男は俺を、タイヤの一つが欠けた荷車に取りつけた。

すると……何も起きない。ただ、俺は転がり始めただけだった。

視界は――たしかに、影響を受けてはいなかった。

それなのに、地面に転がるたびに感じる石の感触が、とにかく不快でたまらない。


剣もなけりゃ、魔法もない。ましてや美少女なんて、影も形も見当たらない。

あるのは……前世と大差ない、見るからに貧乏くさい父子コンビだけ。

なにが異世界だよ、なんだよこれ、転生してまで“半端な庶民の輪っか”ってどういうオチだよ!?


てか、この時代の道路、ボロすぎだろ!?


「パパ〜、いつコンスタンティノウーポリスに戻れるの〜? あそこの海、見たいよ〜」


「うーん……まだまだ先だな、坊や。俺たちの軍が、あのラティノイ(ラテン人)の異端を追い払ったら、きっと戻れるさ。ロメイオイ(ローマ人たち)は、負けないんだよ。」


「ほんとに!?」


「ああ、嘘じゃないさ。ほら、ここ数年ずっと豊作だろ?これはいい兆しだし、神さまの祝福なんだ。

今日だって、これから市場で収穫物を売るんだ。今年のブドウとオリーブは特に出来がいいから、きっと高く売れるさ!」


父と子の楽しげなやり取りを聞いていると、胸の奥にぐっとくるものがあった。

そういえば――俺はここ数年、息子とまともに時間を過ごしてこなかった。

社長に言われたあの言葉……あれは確かに刺さった。

でも、それ以上に辛かったのは、子どもが俺の忙しさをちゃんと理解してくれていたことだ。

それでも――客観的に見れば、俺は「父親としての役割」を果たしていたとは言えない。

理由がどうであれ、事実は変わらないんだ。


「僕も売るの手伝う!えへへ、売ったらおいしいの買ってくれる〜?」


「まったく……ほんとに、お前ってやつは……可愛いやつめ」


男が笑いながらそう言って、気がつくと、俺は二人の影をただ見つめていた。

彼はそっとイオアンニスの頭を撫で、イオアンニスは嬉しそうに、父の胸元に体を寄せた。


「やった〜! ぼくの勝ち〜!」

――その瞬間、ふと思った。

あれ……こういうのも、案外、悪くないかもな。


穏やかな田園の風景、頬を撫でるやさしい風、親子の微笑ましいやりとり。

異世界転生して“輪”になる――まさかのスローライフ。

うん、今のところは……わりと、悪くない。


……でも、その幸せな気持ちは、わずか数分でぶっ壊された。


二人は倉庫みたいな場所に到着し、収穫した作物を次々と俺の上に積み上げてきた。


重っっっっっっっっっ!!!


ちょっ、マジで勘弁してくれ!

いや、俺もう人間じゃないし、「重くて死ぬ」じゃなくて「重さで潰れる輪」じゃねーか……

何だよこれ、どんな転生だよ、労災案件だろこれ!!


ともかく、この市場への道のりは過酷そのものだった。

いや、二人にとってじゃない――俺にとって、“めちゃくちゃ転がりづらい”道だったのだ。


山ほど積まれた収穫物の重みで、今にも潰れそうになりながら、文句のひとつも言えず、ただただ物理法則に従って転がり続けるしかない。


前世は、社畜として歯車のように24時間働き続け――

今世では、農民一家の“車輪”として地面を転がり続ける……


これ、完全に階級レプリケーションってやつだろ!?


「着いたよ〜、イオアンニス、起きて〜、ブルーサに着いたよ〜!」


日差しの中、男の影がそっと息子の肩に触れ、やさしく声をかけた。

俺たちは街に入り、広場の市場は人で溢れかえるほどの賑わいを見せていた。

男は空いた場所を見つけて荷車を止め、売り物を手際よく並べ始めた。


「新鮮なブドウとオリーブだよ〜!市で一番の品質、今を逃すと後悔するよ〜!」

男は勢いよく声を張り上げ、人々に呼びかけていた。

すると、その声に反応するように、一人の女性が振り返り、彼のもとへと近づいてきた。


「ちょっと、それ言いすぎじゃない? 一番のオリーブとブドウって……何、それ、自信ありすぎじゃない?」


疑いの眼差しを向ける女性に対して、男は営業スマイルを浮かべ、何か言い返そうとした――その瞬間。


イオアンニスがニコニコしながら、かごから一粒のブドウと一粒のオリーブをつまんで、すっと彼女の前に差し出した。



「綺麗なお姉ちゃんには、綺麗な果物っ!

全部うちで作ったんだよ〜。

あまくて、おいしいよ〜!

ママも綺麗だけど、よく食べてるからだよ!

はい、お姉ちゃんも食べてみて〜!」


俺はその場でじっと見ていた。女性の表情は、疑いの色からふっと柔らかくなり、笑みを浮かべる。

彼女は手に取ったブドウをそっと口に運び――

ブドウを口にした彼女の目が、ぱちりと見開かれた。その視線が、まっすぐ俺をとらえる。――驚いてる……!


「……ほんとに……おいしい……!

えっ、これ……どうやって育てたの?

……じゃなくて、いくら!? 一房いくら!? 三房ちょうだいっ!!」


「お姉ちゃん、今日は特別だよっ!

ひと房はアッサリオン銀貨1枚なんだけど、

3つなら――アッサリオン2枚とオヴォロス2枚でいいよ〜っ!

お姉ちゃんがもっと綺麗になりますように〜♡

よかったら、他の人にも教えてね〜っ!」


「まあ、なんて可愛い坊やなの……♡ はい、これ、ご褒美ね。お釣りはいらないわ♪」


彼女は微笑みながらアッサリオン銀貨を3枚差し出し、イオアンニスの頭を優しく撫でると、ブドウを手にしてその場を後にした。


その直後、地面が微かに揺れた――と思ったら、人だかりがわーっと押し寄せてきた。どうやら、店の前に群がってきたようだ。

「おじさんっ!ブドウとオリーブ、まだある!?4房ずつちょうだい!」


「こらっ、俺の方が先だぞっ!」


「お兄ちゃん、お姉ちゃん、ケンカしないで〜!ちゃんと並んでね〜!いっぱい持ってきたから、だいじょうぶだよ〜!」


イオアンニスの無邪気な声が響き、騒がしかった群衆は次第に列を作っていった。やがて、商品の山は見事に完売した。


「イオアンニス、ありがとうな。今日は本当に助かったよ。」


「にししっ、ぼくすごいでしょ?パパ?」


「ああ、君は僕の誇りだよ。愛しい子。」


俺は、男の影がイオアンニスの影にそっと重なり、額に優しくキスするのを見つめていた。


「パパからもらったから、次はママの番だ〜!家に帰ったら、ママにもチューしてもらうんだ〜!」


「きっとママは、ぎゅ〜ってしてくれるさ。ははは!」


「楽しみ〜!それから、もっとお勉強する!絶対に裁判官か兵隊さんになって、パパとママを楽にしてあげるんだ!」


「ほんと、バカだな……そんな先のことより、今を大事にして、いっぱい笑って生きるんだぞ。」


夕焼けに照らされた帰り道、荷車はどこか軽く感じた。親子の温もりが伝わってきて――気づけば、胸の奥に、羨ましさと、やさしいあたたかさがじんわり満ちていた。


……ほんとに、少しだけど、羨ましいと思っちゃった。


俺たちが家の前に戻ると、ひときわ長い人影が門のそばに立っていた。


「ママ〜!!聞いて〜!今日ね、たっくさんブドウとオリーブ売ったよ〜!」


イオアンニスが飛びつくように駆け寄り、女性は彼を高く抱き上げた。俺の目には、ふたりの頭の影がひとつに重なったように映った。


「あなたはママの自慢の子よ、ほんとうにえらいわ〜!」


「イリニ、帰ったよ。今日は本当にいい日だった。今夜は、ちょっといいもの食べられるかな?」


「もう、アレクシオスったら……そんなこと言われたら、張り切っちゃうじゃない♪もちろんよ。イオアンニス、お父さんと荷車を片づけてね。一緒に晩ごはん、作りましょっか!」


「はーい!」


俺は、彼女の影がそっと彼の頬にキスをするのを見届けた――あの、温かい仕草の残像が、胸に染みた。


……毎日がこんなふうだったら、案外、悪くない人生かもな。


この日々が、いつまでも続いてくれたらいい。

俺はただの車輪だ。だけど、前みたいに、意味もなく転がってるわけじゃない。

今の俺は、誰かを乗せて、誰かと一緒に、前へ進んでる――そんな気がしてた。


この瞬間、俺はようやく、自分がここにいる意味を見つけた気がした。チートもハーレムもないけどさ――でも、ある意味……俺、ヒーローだろ?


この幸せが、どうか続いてほしい――そんなふうに願わずにはいられなかった。

けれど、運命ってやつはいつだって気まぐれで、理不尽で……

そのせいか、心のどこかでずっと怯えていた。

あまりにも穏やかすぎる日々。あたたかすぎる時間。当たり前すぎる幸せ。

まるで、静かすぎる海みたいに。……その向こうに、嵐が隠れているような気がしてならなかった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


気づいたんだ……私は英雄なんかじゃない。何者でもない、ただの運命の奴隷だった。


1240年1月7日、ブルーサ郊外の小さな農家の木小屋にて。


「イオアンニス〜、準備できた?今日は“君の名前の聖人の日”だよ、礼拝に遅れるよ〜!」


「ママ、パパ、ちょっと待って……もうすぐ行くよ……!」


朝っぱらから、イオアンニスが両親に呼ばれてる声が聞こえてきた。

本来、俺はただの車輪のはずなんだけど……いつの間にか“聴覚”まで備わってるらしい。

まあ、影や人の気配を感じ取れてるんだし、よく考えたら別に変でもないか。

……車輪にしては、これは立派な“特殊能力”ってやつだな。


この時代では、「聖人の日」ってのがほとんど誕生日みたいな扱いらしい。

ロメイオイ(ローマ人)を名乗るやつらは、自分の名前と同じ聖人の祝日を、「自分の記念日」みたいにして祝ってるんだ。


……でもなあ、俺にとっちゃ、マジで全然「いい日」なんかじゃなかったんだよ。

ブドウに干し果物、小麦まで山盛りに積まれて……いや、重すぎだっての。


地面から伝わってきた足音で、

アレクシオスがまた、家のかまどを車に積んでるのがわかった。

音の感じからして、今度はロバに轡をつけて、俺を引っ張らせる気らしい。


「パパ〜、ママと一緒に準備できたよ〜!」


その瞬間、車にかかる重みがさらに増した。

勘弁してくれ……二人まで乗るなんて……。

この時代の人間ってさ、車輪が壊れる可能性とか考えないの?

もう少し優しく扱ってくれよ……


「よし〜、出発!」


……車輪の俺が何か文句言ったって、そりゃあ誰にも届くわけがない。

今日も、物理法則さまに従って、ゴロゴロ転がるだけっすよ……。


転がってる途中で、村人たちの足が何度も視界をかすめていく。

……たぶん今日はアギオス・イオアンニスの日とかで、

みんな揃って礼拝に行ってるんだろうな、きっと。


どれくらい転がされたのか、正直わかんないけど……

気づいたら、耳にだんだん人の声が入ってきた。

……どうやら、教会に着いたらしい。


「閣下、陛下が異端を討伐なさるご遠征には、もちろん異議などありません……

ですが、これほどの量を一度に徴発なさる必要が、本当にあるのでしょうか?」


「おやおや……我らが主教どのは、皇帝陛下の勅命にでも異を唱えるつもりか?

ここ数年はずっと豊作だったはずだが?

まさかとは思うが……主教どの、異端と繋がってるなんてことはないよな?」


「……しかし、いくら陛下の遠征とはいえ、

このような神聖なる日に徴発など……今日がアギオス・イオアンニスの日であることは、ご存じのはずです!」


「あら……どうした? 教会は言い訳でも始めたのか?

この専制公(デスポテース)たる私が、使者をニケアへ遣わし、

皇帝陛下にご報告申し上げるよう命じてもよろしいのだが——

“ブルーサの主教が謀反を扇動している”と、な?」


その言葉と同時に、村人や農民たちが次々と教会前に集まり出し、私も人の流れに巻き込まれて押し出された。

「専制公」と名乗る男の顔は見えないが、声の調子……どこか聞き覚えのある口調だった。


「閣下!私の忠誠を侮辱しないで頂きたい!

それに、こんな重要な日は例年、徴発など避けてきたではありませんか!

これは聖人への不敬です!


なぜ、今日という日にわざわざ……私は理解できません!

たとえここ数年が豊作だったとはいえ陛下は長期的な減税をお命じになったではありませんか——あっ……!」


刃が振るわれる音が、俺の聴覚に響いた。

主教が苦しげな悲鳴を上げる。

ざわめく人々の気配が伝わってきたが、皆、恐怖に息を呑み、誰一人声を発することはなかった。


「あ〜あ、ようやく静かになったか……。

テオス”の名前を出して、私を脅すのはやめてくれよ。

まったく、あんたらこの時代の連中はさ……なんでいつもそうなんだ?


でさ、どうして私の剣があんたに当たったと思う?

……そういうことだよ。ちゃんと反省しとけ。」


「よく聞け、ここに持ち込まれた物資は全て徴収する!

皇帝陛下の遠征は一刻の猶予も許されない!

土地も国家の監督下に置く!異論は許さん……いいな?!……

わかったか!」

専制公の剣が鞘に収められる音がした。

住民たちは不承不承ながらも、嘆きと囁きを交えながら物資を差し出していく。

その中で、私はとても小さな、耳をすませないと聞こえないような修道士の声を感知した。

いや、むしろ私にしか聞こえなかったのかもしれない。


「……人を送って、総主教に連絡を……専制公ニキフォロスが……」


あのかすかな声——いや、「私だけに聞こえた」と言ってもいいその囁きは、最後に「叛乱」という言葉を含んでいた。

私はその意味を考えようとした……だがその瞬間、私はまたしても物理法則に抗えず、強制的に前方へと転がされていった。

……そして、あの専制公の元へ引き寄せられたその瞬間——

視線ではなく、何かもっと深いところで、あの眼差しを俺は“感じ取った”。


あの口調……あの目つき……まさか、柳葉——!?


なんであいつがここに!? ふざけんなよ!?


ふざけんなよ……俺は車輪だぞ。……ただの、輪っか、なのに。

なのに、あのクソ社長・柳葉は……どうして、あんなドス黒い地方の権力者みたいな存在になってやがるんだ……


抑圧者は相変わらず抑圧者のまま、

俺は前世じゃただの社畜で、転生してまで——

また“見ることしかできない弱者”だってのかよ、うそだろ……!


数え切れないほどの感情が、怒涛のように胸の内を駆け巡った。

今この瞬間、自分の気持ちをどう表現すればいいのか、まったくわからない。

柳葉は尊大で傍若無人、まるで誰にも止められない暴君のように振る舞っている。

対して俺は——声すら上げられず、ただ黙って見つめることしかできない車輪。

目の前で、この家族が祝いのために用意した作物や物資が、無理やり軍需品として取り上げられていく……その様を、ただ見届けるしかなかった。


アレクシオスとイリニふさいが、不安と恐怖を必死に押し殺しながら物資を差し出す姿が、はっきりと私に伝わってきた。

彼らはイオアンニスの頭をそっと撫でてから、その場を後にした。


「……ママ、大丈夫……だよね?」


「……ええ、いい子ね。きっと、大丈夫よ……」


上から微かに――泣き声まじりの言葉が、俺に届いた。

慰めるようなその言葉には、どこか切なさが滲んでいた。

俺の上から聞こえてくる声には、わずかに涙の気配すら感じられた。

教会へ向かう道には、祝福と希望があった。

だが帰り道には、まるで命を失ったかのような沈黙と、どこにも救いのない絶望が広がっていた。


……もしそれだけなら、ただの試練で済んだかもしれない。

だが運命は、あたかもこう告げているかのようだった。

「お前たちは、何者でもない」と。


翌日――――――


「閣下!これはあまりにも理不尽です!

私たちの畑全部は、私たちの命そのものなんです!

なぜそんなことを……閣下、どうして……ぐはっ!」


俺は納屋の中で、アレクシオスの畑を奪うために押しかけてきた兵士たちの姿を、否応なく見せつけられていた。

彼は必死に抗議しようとしたが、苛立った兵士が容赦なく彼を蹴り飛ばした。


「ごちゃごちゃ言うな! 文句があるなら専制公にでも言ってこい! 俺たちに口答えすんな!土地は国家のもんだ! 少しは奉仕する気はないのか!?


皇帝ヴァシレウス陛下が遠征を始めるってのに、自分のことしか考えねぇとは何事だ!

お前みたいな奴は、あのラティノイ(ラテン人)の異端共と同罪!テオスへの不忠だ!」


「おかしいだろ、これ……!……皇帝陛下は長期減税を布告されたばかりだ……徴用ならば主教から前もって告知があるはずなのに……なぜ今回は……」


「お前には“教育”が必要みたいだな? 俺が教えてやるよ、“信仰に忠実”ってのがどういうことかをな!

聖戦の邪魔をするつもりか? 死にてぇのか、この野郎……!」


その直後、拳が肉を打つ鈍い音が何度も響いた。

俺は何もできず、ただ見ているしかなかった——兵士たちがアレクシオスの身体に容赦なく拳や足を叩きつけるのを。

彼はすぐに崩れ落ち、必死に頭や急所をかばいながら、暴力に耐えるしかなかった。


「パパァァァーーッ!! パパァッ!! やだあああっ!!」


「邪魔だ、ガキが!」


「イオアンニスっ!」


どれほどの時間が経ったのかもわからないまま、

イオアンニスとイリニの泣き叫ぶ声とともに、

兵士たちの足音は次第に遠ざかっていった。


「パパ……パパ……!」


「ゲホッ……」


大量の鮮血が地面に吐き出され、

イリニが慌てて夫を抱え起こし、家の中へと連れていくのを私は感じ取った。

この無力さに、私は焦りと怒りを覚えた。

何もできない。ただ、目の前の出来事を“見ている”ことしかできない自分が憎らしかった。


この一家にとって、そして私にとっても、これは悲劇の始まりに過ぎなかった。

土地は理不尽に奪われ、アレクシオスは重傷で働けなくなり、

家族全員の暮らしは、あっという間に絶望的な貧困へと転落していった。


「ママ……パパ、ちょっとは良くなった……? パパ、また元気になるんだよね……? 本当だよね……?」


「大丈夫よ……いい子ね……ゲホッ、ゲホッ……だいじょうぶ……きっと……」


私は外で二人の会話を聞いていた。

数か月が過ぎ、イリニの体調にも異変が現れ始めた。

最近では疫病が広まり、私は“遺体を運ぶ車”として使い回される羽目になった。

その見返りとして、この一家はわずかばかりの食料をようやく手に入れることができた。

もう十一月になっていた。状況の悪化は、誰の想像をも超える速さだった。


死体を運んでいた私は、道中で感じるのは、死と絶望の匂いだけだった。

飢えに倒れた村人たちが道端にそのまま横たわり、

兵士の足音と戦馬のひづめの音が、道を埋め尽くすように響いていた。

まるで何かを“準備”しているかのように。


柳葉……あいつ、本当に叛乱を起こすつもりなのか?

何が彼にそこまでの自信を与えたのかは分からない。

だが、おそらくあの皇帝の遠征が、彼に“今こそ動く時だ”と思わせたのだろう。


他の人々の話から分かったことがある——

このブールサから皇帝がいるニケアまでは、わずか百キロしか離れていない。

つまり、皇帝の軍が手薄な今は、彼にとって最高の機会だった。


生前も、そして今も、柳葉は変わらない……。


テオスよ……どうか私たちをお救いください……!

この命、あなたに捧げます……どうか……どうかせめて、私の子だけでもお救いください……!」


その祈りの声は、今もなお、私の心の奥底に焼きついて離れなかった。

前夜、誰もいない納屋でイリニが病身を引きずって祈り続けていた言葉——

それが私の心を切り裂き、どうしようもない焦燥と怒りが、獣のように私の内側で吼え狂い、出口を求めて暴れ回っていた。


弱者の祈りなど、抑圧者の傲慢も野心も、ひとかけらすら削ぐことはできない。

それを認めたくはなかった。だが、現実は何度でも、私にそれを突きつけてくる。


――――― 一か月後。


十二月、ブルーサに雪が降った。


そして、一つの家族は音もなく崩れ落ちた。


「……パパ……ママ……」


イオアンニスの声が、かすかに私の上から漏れた。

今にも消えそうな囁きだった。

彼は残された力を振り絞り、二人の冷たく、重たい身体を車に乗せた。

父母を喪った悲しみと孤独が、彼の涙をも呑み込み、

飢えと虚脱感が、彼から泣く力すら奪っていた。


家で唯一のロバは、数ヶ月前にやむなく食用として屠られた。

十歳のイオアンニスは今、自分の小さな体だけを頼りに、壊れかけた荷車を引いて墓地へと向かうしかなかった。


私は何も変えられなかった。

運命は、まるで私を嘲笑うかのように、この家族を絶望の底へと突き落としていった。

私にできるのは、ただ……転がり続けることだけだった。


「逃げろー! 皇帝陛下が来たぞ! 陛下がブルーサに来た! 専制公は死んだ!」


「えっ!? 陛下はブルガロイ(ブルガール人)との戦で遠方にいるはずじゃ……? 何が起きたんだ!?」


「いいから! もう一方の道から逃げるぞ!」


灰と血にまみれた数人の兵士が、焦燥と怒声を上げながら反対方向へ逃げていった。

きっと……叛乱は失敗したのだと、私は思った。


どれほど経っただろうか。私たちは乱葬坑のような場所に辿り着いた。

その途中で、一つの深い穴の底に私は目を向け、そして見た——

専制官ニキフォロス……いや、柳葉の首は、乱葬坑の中へと粗雑に投げ捨てられていた。

その顔には、恐怖と信じがたい絶望が刻まれており、まるで「なぜ自分がこんな目に」とでも言いたげだった。

すべては彼の掌の外に転がり落ちた——その表情が、そう語っていた。


……だが、その最期を見ても、復讐の快感も、胸のすく思いも何ひとつ湧いてはこなかった。

ただ、運命の無常さと、そのあまりの残酷さが胸を押し潰していった。

かつて一地方を牛耳っていた男の末路が、これほどまでに惨めで哀れとは……誰が想像しただろうか。


イオアンニスは両親の遺体を、静かに葬坑の中へと下ろした。

その直後、古びた車体は音もなく崩れ落ち、私は地面に転がった。

だが彼は、他のことなど何も気にせず、私を拾い上げた。

力ない手つきで私を抱えて、彼はようやく見つけた場所に、そっと腰を下ろした。


彼は私を必死に抱きしめた。

この子にとって、私はアレクシオスと家族を繋ぐ、ただ一つの絆だった。

彼の呼吸は、どんどん弱まっていく。それを私は、何もできずに感じていた。

どうしようもない焦燥と痛み、悲しみが私を内から引き裂いていく——


私は心の中で必死に叫んでいた。


お願いだよ……頼む、イオアンニス……!

燃やしてくれ……俺を燃やして、暖を取ってくれ……!

そうしなきゃ、お前は凍えて死んじまう……っ!

売ってもいい、砕いてもいい、何に使ってもいい……!

だから……お願い、生きてくれ……生き延びてくれよ……頼むよ……本当に、頼むから……!

だけど、そんな私の叫びに、意味なんてなかった。

だって私は、最初から最後まで——

声ひとつ持たない、ただの“車輪”にすぎなかったのだから。


「パ……パパ……ママ……」


イオアンニスの息が、静かに止まった。

そして私は、自分が時の中で朽ちていくのを、静かに感じていた。

私の存在もまた、ここで幕を下ろそうとしていた。


魂がまたどこかへ漂っていくのを、私は感じた。

だが、この先に何が待っているのだろうか――。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


逃れられない階級?──作者との対決!


「うん、ようこそ。どう? 異世界に転生した気分は?」


意識を取り戻した瞬間、俺は周囲を見渡した。

空間はいつの間にか、どこか古びた雰囲気の小部屋へと変わっていた。


俺は足元を確認しながら、目の前に座る人物を見つめた。

眼鏡をかけたその人物が、こちらに向かって問いかけてくる。


その人物の話す言葉は全く理解できなかったが、すぐそばにあった機械が、発せられた言葉を日本語へと自動的に変換してくれていた。


「……あんた誰だ? ここは……どこだ?」


「んー、アレクシオス・コムネノス(Ἀλέξιος Κομνηνός)とでも呼んでくれればいいかな。


もっと砕けた感じがいいなら……『作者』でもいいよ。

この創作ルーム、気に入ったかい?


……いやー、2年分の給料つぎ込んで、RTX4090にI9-1300KとZ790マザボの最強構成でPC組んだんだけどさ、本当はFF14リメイク版とかガッツリ遊ぶつもりだったんだよね。


でも実際、時間がなくて……はは、結局小説書くのにしか使ってないとか、ちょっと贅沢すぎたかなって思わない?」


「さ、作者……だと!? じゃあ、これ全部お前の仕業ってことかよ!?」


「仕業って言われてもなぁ……ちょっと失礼じゃない? 君の希望通りに転生させただけだよ?」


その「作者」を名乗る人物からは、どこか近寄りがたい雰囲気が漂っていた。

言葉では言い表せないが、なぜかこちらを不快にさせる何かがあった。


「転生って……それならなんで俺を『車輪』になんかした!? ふざけんなよ!


こっちは社畜として人生終えたんだぞ!? その俺が、また別の形の社畜になってどうすんだよ!? 何もできずにただ他人の死を見届けるだけって、こんなのアリかよ?


普通、社畜だった前世の反動で、今世は無双チートでハーレム作って世界救うくらいが定番じゃねぇの!?」


怒りと悔しさを込めて作者に問いかけた俺の言葉を、作者はただ、静かに笑ってみせた。

眼鏡を外し、クロスで丁寧にレンズを拭くと、また静かにかけ直し、俺の方を見つめてこう言った。


「で、それがどうしたって言うんだ? テンプレ? 流行り? 知らねぇよそんなの。


資本市場の奴隷になってないか? それとも、アルゴリズムに支配されてんのか?


まさかお前、異世界に転生して――

開始早々チート武器を拾って、

仲間が空から勝手に降ってきて、

三話目にはもうハーレム完成してる……

そんなテンプレのテンプレみたいな“王道テンプレ”、読みすぎなんじゃねぇの?


お前さ、前世で悲惨だったヤツは、転生したら当然のように無敵で、最強で、苦しみなんて何一つない人生を手に入れるべきって、本気で思ってんの?


耳鼻科で聴力検査でも受けてこようかな……いや、私の聞き間違いじゃないよな?」


「……俺が何か間違ってたか? 前世はクソみたいな毎日だったんだよ。ブラック企業で搾取され、家庭も崩壊寸前。だからこそせめて、せめて転生後くらいは違う人生を……それがそんなに悪いことかよ?


人が、いや読者が現実から逃れて、違う自分になって、新しい人生を夢見ることすら、否定されなきゃいけないのかよ!?」


俺の叫びに、作者はほんのわずかにため息をついた。

それまでの軽薄そうな雰囲気は一瞬にして消え去り、

彼はまるで別人のように真剣な目で俺を見据えた。


「で、その“逃避”の先に、何がある? 私はただ、それだけを聞いてる。


本を閉じて、スマホを置いて、PCの電源を切ったその後──

お前はまた働くんだろ? 家賃を払い、ローンを返し、柳葉と向き合う日常に戻るんだよ。


私は分かってるよ。人には夢や逃避が必要なんだって。

でもそれって、結局は夢だろ? いつかは目が覚める。


結局、お前が向き合うのは現実なんだよ。


……とはいえ、読者ってのは案外賢いもんでさ。

俺が今言ったことなんて、もしかしたら耳にタコができるほど聞いた“ありがちな話”かもしれない。


でもな、それでも――言わずにはいられなかったんだよ。」

そう言って彼は、どこか諦めたように苦笑した。

……けど、俺にはその感情が全く理解できなかった。

この男はただの道化だ。偉そうに説教垂れて、現実の痛みなんて知らないくせに。


納得なんか、できるはずがない。


「……お前、自分を全知全能の神か何かとでも思ってんのか?

俯瞰して物言ってんじゃねぇよ、なにが“中立”だ、クソが。


現実が地獄みたいに苦しいからこそ、人は夢を見るんだよ……逃げ場がなきゃ、生きていけねぇだろ!」


「まだ分かってないんだな。私は最初から、それを否定したつもりは一度もないよ。


でもな、現実に戻ってみろよ。私たちは何者でもないんだ。

現実社会の“階級”に縛られた、ただの人間さ。……お前だって、分かってるだろ?


豊臣秀吉が日本を統一してから第二次大戦までの四百年間、徳川家は一度反乱を起こして滅ぼされ、その血筋は完全に断たれた。

以降、関東は大坂の中央政権から徹底的な弾圧を受け続けてきた。


そして戦後、豊臣の時代は終わった――だが、その四百年の蓄積は、今もなお日本社会を支配してる。


関東人は今もなお暗黙の差別に晒され、関西人はいまだに“選ばれし民”のように扱われてる。


……妻夫木、お前だって、それくらいのことは分かってるはずだろ?


異世界の幻想に頭を突っ込んだところで、現実が変わるとでも思ってんのか?」


「……分かってるよ! 分かってるに決まってんだろ! でも、俺に何ができるって言うんだよ……!


……現実に向き合ったところで、俺に何ができるって言うんだよ……!


俺は、できる限りのことは全部やってきたつもりだ。家族のために、親のために――全部背負ってきたんだよ。


うちの親なんて、ろくに稼ぎもないのに必死に働いて、俺を学校に通わせてくれた。期待に応えて、俺は大坂大学まで出たよ? それなのに……!


どこに出しても返事なんて来やしない。

最初は、大坂だから競争が激しいのかと思ってた。でも、どこ行っても一緒だった。


ようやく就職できたと思ったら、面倒ごとばかり全部俺に押し付けられる。

誰一人、疑問にも思わない。だって俺は……“関東の田舎もん”なんだから。

気づけば、ブラック企業で体と心をすり減らす毎日だよ。

家族のためだって歯を食いしばって10年頑張った。でも……親父が重病だったときさえ、見舞いにも行けなかった……!


そんな俺が、「世界を救う無敵の主人公になりたい」って願ったって……悪いことかよ!?


あんたも“階級”に縛られてるって認めてるじゃないか! 

だったら……そんな枠組み、ぶち壊すべきなんじゃねぇのかよ!? 

それなのに、なんで……なんで俺を、“無力な車輪”になんかしやがったんだよ!!」


怒りをぶつけ、声を荒げる俺の前で、作者は……まったく動じることなく、冷たく、厳しいまなざしで俺を見つめていた。


「……妻夫木、私の答えはいたって明確だ。

人類の歴史において、一貫して存在し続けてきたもの――それが“階級”だ。


人間の発展の歩みにおいて、階級という構造を避けて通ることは決してできない。


マルクスなんて男のことは、正直、虫唾が走るほど嫌いだ。だが……この一点に関しては、認めざるを得ない。


階級という構造こそが、人類の歴史そのものの中核を成している。

私たちはその枠組みの中で何千年も生きてきた。

そして、時代がどれほど変わろうとも、階級というものは決して消えることはない。」


「……それで、あんたは何が言いたいんだよ?」


不満を噛み殺しながら問い返す俺に、作者はふと視線を外し、窓の外を見やった。


ひとつ息を吐いたあと、隣にある機械の設定をいじり、そして――小さな装置を手に取ると、ゆっくりと俺のそばへ歩み寄ってきた。


「どこに転生しようが、結局は“階級”にぶち当たる――そう思わないか?


人類の歴史が“階級”の歴史だというのなら……どんな物語も、どんな作家も、その影響から逃れられやしない。

“階級を打ち壊す”だって? 冗談はよしてくれ。それは“秩序”そのものへの反逆なんだよ。


“階級”ってやつは、縛りであると同時に、人類社会が今日まで発展してきた“秩序”の原点でもある。

人は自分の立場を理解し、自覚した上で、生き方を選ぶ。それが“階級”という名の“ガイドライン”になる。


自分に合った場所で生きるからこそ、秩序が生まれる。だからこそ、歴史は発展していくんだ。」


「……何をわけのわからないことを……!

それってつまり、俺が差別されて、ブラック企業に押し込まれて、死ぬ思いで働かされたのは“当然”ってことかよ!?

俺はそれを受け入れろって? ふざけんなよ!!」


「でもな、妻夫木……よく考えてみろ。“物語”ってのは人間が作るもんだろ?

だったら当然、その人間が持っている“階級意識”ってやつも、知らず知らずのうちに物語に滲み出してくるってわけさ。


“受け入れろ”なんて言いたいんじゃない。ただ、知っておいてほしいんだ。

どれだけ突飛な世界観を掲げた物語でも――実のところ、現実と大して変わらない。


たとえばさ、勇者と魔法が存在するファンタジーの世界観だってそうだ。

勇者パーティーの中に、本当に実力差はないのか?

リーダーとその他大勢――モブとの間に、格差は生まれないのか?


力に差がある限り、そこには“序列”ができる。つまり“階級”が生まれるってことだ。


王様、大臣、貴族、庶民……異世界テンプレの設定、思い出してみろよ。

そのどれもが“階級”と無縁か? 違うだろ?


剣を手に、魔法を使い、世界を救う英雄――どれだけ設定を盛ろうが、

結局は“特別な存在=上位階級”として扱われるじゃないか。


“選ばれし者”という名の特権階級、明確なヒエラルキーがそこにはある。


世界を救い、人々から敬意を集め、ついには王すらも彼に頭を下げる――

それはまさに、下層から上層への這い上がりってやつじゃないのか?


結局のところ、人間の思考ってのは――

歴史の発展で積み上げられてきた“枠組み”から、そう簡単に抜け出せるもんじゃない。

「階級をぶっ壊す!」なんて叫んでみせても、

そこで語られる価値観も、根底にある論理も、やっぱり“階級”そのものに基づいてる。

……そうは思わないか?


物語がそうなら、現実なんて尚更だ。


マルクス主義はこう説いた――「無産階級が有産階級を打倒すれば、階級はやがて縮小し、やがては消滅する」と。

だが現実は、そう甘くはなかった。


「動物たちの代弁者」「無産階級の先鋒」を自称した豚どもは、

最後には人間と見分けがつかなくなり、

挙げ句には、共に戦った仲間の馬ですら、屠殺場に売り飛ばした。


あれで「階級が消えた」なんて言えるか? 言えないだろ。


結局、無産階級がそのまま“新しい有産階級”に成り代わって、下層を搾取し続けただけなんだよ。


では、今の時代を見てみろよ。

平等の理想を実現する」とうたう進歩主義は、実際には何をしてる?


平等の名のもとに、やたらと専門用語やカテゴライズを次々と生み出し、

最終的には“新しい特権階級”を作り上げてるだけじゃないか。


「平等」なんてただのスローガンだよ。

実態は、“新しい階級社会”をもっともらしく正当化してるにすぎない。

そう、結局“階級”は常に姿を変えて生き続けてるんだ。」


「どういう意味だよ……?」


「“階級”がなくなれば、“道しるべ”も失われる。

人間にとって最も恐ろしいのは、“自分が何をすべきか分からない”という状態なんだ。


たとえば、店で買い物をするとき、商品にラベルも説明書きも何一つなかったらどう思う?

“自由に選んでいい”と言われても、それが何の商品かも、何を買うべきかも分からない。

確かに選択の自由はあるが、情報が一切なければ、ただただ不安と混乱に襲われるだけだろう?


私の見るところ、多くの人が本当に求めているのは、“階級を覆したい”ということではなく、今の自分の立場から抜け出して、“より上の階層へと這い上がる”ことなんだ。


勇者が世界を救う――そんな物語が愛されるのは、

人々の成り上がりたいという欲や、特別になりたいという憧れを映してるからさ。

それを“体制を壊す話”だと勘違いする人もいるかもしれないけど……

“特別な存在”になることそのものが、“階級”という価値観に根ざした願望じゃないのか?


でもな……それは、いわば“興奮剤”みたいなものだと私は思う。

摂取した直後は気分が高揚しても、効き目が切れた瞬間に、倍以上の虚しさが襲ってくる。

人は“変わりたい”と願いながら、その願いを物語に託し、そこに自分の心を預けてしまう。


希望にすがりつつも、現実には何も変わらず、むしろその落差に苦しむだけだ。

それでも私は、それが間違っているとは思わない。


人間って、そういう生き物だと思うよ。

――私だって、そうなんだから。


でも、“階級制度”を取り払えば問題が解決する――なんて考えるのは甘い。

それは社会の秩序を崩し、人々に「どうすればいいのか分からない」という不安と混乱をもたらすだけだ。


“階級”という構造があるからこそ、人は上の層を見て、

「ああなりたい」「どうやってそこにたどり着けるか」と目標を描くようになる。


その過程で、“基準”が生まれ、“手段”が考えられ、

それが“人生を導く道しるべ”になっていくんだよ。


“階級”がなくなったら、人は何を“道しるべ”にして生きていけばいい?


「すべての人間は平等だ」と掲げて、階級というラベルを剥ぎ取ったところで、

本当にそれで皆が平等になるのか? それはただ、“自分がどう生きればいいのか”さえ見失わせるだけじゃないのか?


たとえば、私は労働者だったとする。

その立場なら、自分の収入や働き方から、どう生活を組み立てるべきかが見えてくる。


けれど、もしこの社会に何の階級も存在しないとしたら?

自分がどこに属し、何をすればいいのかすら分からなくなって、

人はただ、途方もない不安と混乱に呑まれるだけだろう。


私たちの暮らしにある多くのものは、何千年もの人類の歴史の積み重ねによって形づくられてきた。


“階級”がどれほど嫌われようと、それもまた歴史の中で築かれた人類のひとつの遺産だ。


それを否定するということは――人類という存在そのものを否定するに等しいんだ。」


「……あんたさ、結局何が言いたいんだよ?

俺はな、ここに説教聞きに来たわけじゃねえんだよ!

読者だってそうだろ?途中で読むのやめちまうかもしれないって、怖くねえのか?


今は“読者至上主義”の時代なんだぜ?

転生モノを読むのは、現実から逃げたいからだ。

何も考えずに、気楽に楽しみたいからだ。

そんなとこに、誰がわざわざお前の小難しい話を聞きにくるんだよ!


それに、俺は“主人公”なんだぞ?

そんな俺を追い詰めてばっかで、読者がついてくると思ってんのかよ!?

お前、結局……俺にどうしろって言うんだよ。

まさか……このままずっと社畜をやれってのかよ……!」


「ままっ……読者に癒しが必要なのと同じで、私にも逃げ場が欲しいんだよ〜(´艸`)

読者の皆さんは、私にとっての“避難所”なんだ♪


だってさ、最初に言ったじゃん?

“脳みそは横に置いて、何も考えずに読んでください”って。

考えるのをやめたら、苦しみもイライラも消える。

ほら、不思議とリラックスできちゃうし、何を言われても届かなければ痛くも痒くもない……そうでしょ?


……で、“私をどうしたい”って?

そんなの、答えは目の前にあるじゃないか、妻夫木くん。

忘れたのかい? これは“短編小説”だよ。

君は――主役なんだよ?」


作者はふっと笑みを浮かべながら、俺の肩を軽く叩いた。

隣の装置から流れてきたのは、日本語に変換された機械音声。

どこか無機質で、ノイズ交じりの声が耳に刺さる。

その笑顔には皮肉めいた色が滲んでいたが、

その目の奥には、どうしようもない諦めが宿っているように見えた。


俺は目を閉じ、深く息を吐いた。

目を開けると、作者が俺の返答をじっと待っていた。


「……俺を説得したいって? 階級だのなんだの持ち出したところで、どうせ互いに分かり合えることなんてないだろ。


でもな、読者が求めてるのは“娯楽”なんだよ! スカッとして、気持ちよくなって、楽しみたいだけなんだ!


そんな俺をこき下ろして、延々と理屈こね回して……一体なんの意味があるんだ?


もしお前が、こんな小難しい理論に時間かけて、それで読者の共感が得られるなんて本気で思ってるなら——それはただのお前の自己満足だ。


いいか? お前は“読者すべて”じゃない。

……お前なんか、何百万もある作品の中で、読者に選ばれることすらない、“最底辺の選択肢”だよ。」


怒りを鎮め、俺は静かに、言葉という名の刃を振り下ろす。


「……ああ、いきなり急所を突いてくるとはね。さすがは名門大学のご出身ってわけか……。


正直、読者としてこの手の作品を読んでるときは、確かにその瞬間は気持ちいいよ? 

でもさ、本を閉じてスマホの画面消した瞬間に、急に現実に引き戻されるんだよね。


……ふと冷静になって考えてみたんだよ。

ヒロインとイチャついてるのも、結ばれるのも、“私”じゃないんだよな。

現実の私は哀れな独り身で、毎年バレンタインもクリスマスも、

カップルたちのイチャつき攻撃で目ぇ潰れそうになってる。

……思い出すだけで、虚しくなってくるわ。


それに私、勇者でもなんでもないしさ。

もし“社畜”が“会社に飼われてる畜生”って意味なら——

現実の私は、“国家”に飼われてる“畜生”ってことになるよな。

略して……“国畜”! いやぁ〜哀れだなぁ、私ってば〜。」


作者はわざとらしく哀れっぽく叫び声を上げた。

その声は、かの有名な小説に登場する“あの兵庫県議員”の号泣シーンを彷彿とさせて、

怒るべきか笑うべきか、俺には判断がつかなかった。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっっ!!わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっっ!!!

兵庫県……いや、日本全国の……読者の皆様ぁぁぁ……いえ、全世界の読者の皆様ぁぁぁっっ……!!

うぅぅぅぅっっ……わたしは……ずっと……一生懸命……やってきたんですぅぅぅっ……!!この物語を……必死にぃぃっっ……書いてきたんですぅぅぅぅぅ~~っっ!!


だからこそぉぉっ……自分が生み出した主人公にまで……責められて……もう、つらくて……つらくて……うわぁぁぁんっっ……!!


これからは……まじめに……ほんとぉぉにぃ……市場とか、読者のニーズに合わせてぇ……反省してぇ……頑張っていきたいって……思ってますぅぅぅぅ……!!


でもぉぉっっ……でもぉぉぉっっ……!!

社会人として、大人として……もしどこかで妥協してしまったら……それはもう“作家”とは呼べないんじゃないかってぇぇぇぇぇ……!!


だからぁぁっ……全ての作家を、侮辱しないためにもぉぉっ……妥協なんて、できなかったんですぅぅぅぅぅっっ!!

どうかっっ……お願いですからぁぁぁ……読者の皆様ぁぁぁ……うぅぅぅっっ……わたしの気持ちを……察してくださぁぁぁいぃぃぃぃっっ……!!」


「……お前さ、本気で読者に謝るつもりあるのか? 

それに、お前……涙の一滴すら流してないじゃねぇか!

てか、なんでその翻訳機、あの議員の声をそんなに正確に再現できてんだよ。

さっきの会話、まさか最初から機械音になるように仕込んでたんじゃないだろうな?

いいから、くだらない言い訳してないで、ちゃんと読者に謝れよ!

資本の市場に迎合する”だぁ? は? 成功したいなら、流行に乗るのは当然だろうが!!」


俺が盛大にツッコミ顔をしてるのを見て、作者は唇を尖らせてふーっと息を吐いた。

たぶん、俺の顔には相当な軽蔑の色が出てたんだろうな。

作者はどこか諦めたような表情で、俺のことを見返してきた。


「……たしかにな。今のこの“アクセス至上主義”の時代、

創作者は数字や評価に縛られて、ひたすら自分を削っていく。

転生、異世界、追放、また転生……

キャラを何度も生まれ変わらせているうちに、気づけば疲弊して、心もペンも擦り切れてしまっているんだよ。


読者だって、同じようなものさ。

アルゴリズムと資本市場に馴らされて、読む作品の形もどんどん固定化されていく。

そのせいで視野は狭まり、選択肢も減っていく。


もちろん、この忙しすぎる時代じゃ、誰だって考えるのが面倒になる。

エンタメの本質は「楽しむこと」だと言われれば、確かにその通りかもしれない。


極端な話だけどさ、もし「楽しさ」とか「快感」だけでいいんなら、

注射一本でラリってりゃ済むじゃん。わざわざスマホ開いて、物語に付き合う必要なんてないっしょ?


それでも――人は、ただの快感以上の何かを求めているんじゃないか?

楽しみながら、心のどこかで「何か」を得たいと思ってる。

もしそうじゃなきゃ、深みのある作品なんて生き残れるはずがないだろ? 違うかい?


けどさ、今のアルゴリズムが支配する市場ってのは、そういう「何か」を奪ってくるんだよ。

多くの読者が「考えたくない」のではなく――

「考える力」そのものを、奪われちまってるだけなんだ。


出版社についてもさ……出版業界が衰退している今、生き残るためには“安全な作品”を選んで売るしかないんだよ。

つまり、転生だの異世界だの追放だの、売れるテンプレに頼るってわけさ。

だって出版社だって会社なんだから。

電気代に水道代、運営コストに社員の給料——全部カネがかかる。

慈善事業じゃないんだから、売上を確保しないと回らない。

結局のところ、出版社もアルゴリズムと市場の流れに縛られるしかないんだよ。


これは、誰のせいでもない。

……きっと、俺たちの世代全体が背負った“時代の業”なんだと思う。


たまに考えるんだ。

技術って、本当に俺たちを幸せにしてくれたのかな。

それとも……ただ、焦りと不安ばかりを増やしただけなのかもしれない。


ま、そんな答え、あと数百回くらい転生しないと分かんないかもな。……はは。」


「……さんざん言ってるけどさ、結局どうしたいわけ? 

まさか、ただ文句言いたいだけじゃないよな?」


「妻夫木くん……それは違うよ。

たとえば君がブラック企業で十年働いてたとして、

“お前は努力しない、変わろうとしない、文句ばっかりだ”なんて言われたら……納得できる?」


「……」


作者の問い返しに、俺は言葉を失った。

わずかに苛立ちを滲ませながら、この人をじっと睨みつけることしかできなかった。


「分かってるさ。変えられないことがあるってのは……私も、君も分かってる。でもな、それは“変えたくない”んじゃなくて、“変えられない”からなんだ。

もし本当に変えられるなら、私がこうして壁を越えてお前と話してる必要なんて、そもそもなかっただろ?


私の考えでは、「現状維持」ってのは人間の本能に近い。なぜなら、それは“安定”だからだ。

でもその“安定”が結果的に皆の損になるとき、そこで初めて“改革”が起きるんだ。


多くの問題ってさ、社会の仕組みとか歴史の積み重ねが絡んでて、簡単にどうこうできるもんじゃないんだよ。

社会が変わるのは、大多数が“このままじゃダメだ”って本気で思い始めてからなんだよ。


あの《リアル・ワールド》って小説に出てくるアメリカだって、そうだろ。

独立以来、ずっと抱えてる問題が山ほどある。

歴代の大統領が全員無能だったのか? バカばっかだったのか?

そんなわけないって、君も分かってるよな?


“変える”ってさ、俺やお前がそう思っただけじゃ無理なんだよ。

そもそも今のこの環境が、それを許してくれると思うか?

……そんな重要なこと、無視していいはずがないだろ?」


俺は、作者がそう言い終えるのを見て、

その意味ありげなため息に気づいた。彼は再び俺の方を向いた。


「……なあ、俺たちって、本当に良くなっていくと思うか?

何もかも、変わっていくと思うか?」


「もちろん、長い目で見れば、人類は少しずつでも前に進んでいると思うよ。

今がどれだけ厳しくても、きっと良くなっていくって信じてる。


じゃなきゃ、人類の科学なんて、どうしてここまで発展したんだい?

もし本当に何の進歩もない生き物だったら、読者だって“転生ファンタジー”なんて想像すらできないさ。


だって昔は、いつ命を落とすか分からないような時代だったんだ。

そんな中で、悠長に“異世界でチート生活”なんて夢見る余裕なんて、あるわけないだろ?」


「そんなことが言えるなんて……矛盾してるって言うべきか、

いや、もういいや。だったらさ、“良くなる”って言うんなら、

まず俺の人生をどう変えてくれるのか、教えてくれよ?

俺が良くならないと、読者にだって希望なんか届かないだろ?」


作者は静かに笑って、そっと俺の肩を叩いた。そして、何かを俺のポケットに滑り込ませた。


「さすが私が書いたキャラだけあるな。

図々しさが、まるで私と一緒じゃねぇか……ハハッ。

お前の望み、叶えてやるよ。

でもな、一つだけ覚えとけ。——幻想を抱きすぎるなよ。

せいぜい、新しい人生を楽しんでこい。……縁があれば、またね。」


「勝手に自分と俺を同一視すんなよ。キャラってのは、

作者が思うように動くもんじゃないんだぜ。

……最後に一つだけ、聞かせてくれ。なんで俺の苗字、“妻夫木”なんだよ?」


作者は、吹き出すように笑いながら、ズレた歯並びをあらわにした。


「ん? ああ、それか。

ロト7のCM、面白かっただろ? 

もう10年前になるけど、印象に残っててさ~。

……だから、俳優さんの苗字をちょっと拝借しただけ。本人とは関係ないよ。

じゃ、またどこかでな~!」


「ま、待って……じゃあ、俺の名前は……俺の“名”は……」


作者は俺の問いには答えず、ただ肩をぽんと叩いた。


次の瞬間——意識がふっと途切れ、気がつけば……。


「……まだ何か言いたいことはあるかい、妻夫木?」


――柳葉社長の声が、ぼんやりしていた意識を現実へと引き戻す。


気づけば、俺は最初に社長と口論していたあの社長室に戻っていた。

適当に相槌を打ちつつ、ふとポケットの中に異物感を覚え、そっと手を差し入れる。

指先に触れたのは――ボタンのようなものと、一枚の紙切れだった。


手のひらに取り出してみると、なぜかそこには一行の文字が浮かび上がっていた。


「人を助けるのは、最高のよろこび! 転生、体験してもらおう♪ 安心して、君は無関係!

ボタンは何度でも使えるよ♡d(`・∀・)b」


――その瞬間、ぼんやりと何かを悟った気がした。


「……いいです、社長。退職金なんかいりません。それじゃ、達者で!」


社長は目を見開いたまま、何も言えずに固まっていた。

俺はそのままクルリと背を向け、ドアを勢いよく開けて部屋をあとにした。


軽やかな気分でエレベーターに乗り込み、

口元には思わず笑みが浮かぶ。そのまま、ビルを後にした。


……今の俺の頭にあるのは、ただひとつ。

あの“とある田舎町の殺人鬼”が持っていた特殊能力。

“爆弾で時間を巻き戻す”あの能力……なら、俺も――


「第四の爆弾! 転生爆弾、起動!!」


監視カメラの映らない空きスペースで、俺は上機嫌にポーズを決めた。

まるで激辛マーボー豆腐に恍惚とするあの神父みたいに、

得体の知れない快感が心の奥からこみ上げてきた。

そして、俺は迷わずボタンを押した。


――ドォォンッ!!

ビルの高層階、かつて社長室があったあたりで大爆発が起きた。

その轟音を背に、全身にじんわりと広がっていく爽快感――たまらなかった。


ポケットから、さっきの紙をもう一度取り出す。


《ねぇ、知ってる? 柳葉を異世界でゾウのお尻の穴に転生させるって、けっこう面白そうじゃない? (=^-ω-^=)


あ、そうそう。君の名前のことだけど……ほら、

自分で言ってたでしょ?「キャラは作者の思い通りにならない」って。

だったら、自分で決めちゃいなよ〜♪


それからもし、誰か――読者でも――転生したいって思ったら……

君が“手助け”してあげてもいいんじゃない? (ゝ∀・)》


ぷははははっ……この作者、マジで最低だな……!

けど、“何度でも使えるボタン”をくれたことだけは、褒めてやってもいい。


もしかしたら、俺さ――

「異世界転生支援株式会社」でも立ち上げようかな?


名前? そうだな……爆発で人を吹き飛ばせるくらいの力を持ってるし……

だったら、“影吉”ってのはどうだ?

うん、なかなか悪くないネーミングだと思うぜ~♪


俺の会社のキャッチコピーも、もう決めてあるんだ。ふふっ


私の名前は妻夫木 影吉、5歳。

……名前を自分で決めたんだから、年齢だって自分で決めていいでしょ~?

これなら、人を異世界に転生させても“犯罪”にならないし、合法だよね d(`・∀・)b。


会社は大阪あたりで起業する予定。

今は既婚だけど、まぁ……もうすぐ“未婚”になる予定でさ。

理由? ふふ、“相手を異世界に転生させちゃえば”、そりゃ独身扱いでしょ? あははっ。


今は自分で会社を回してるんだ。

残業? 絶対に夜8時までには帰るって決めてるから!


タバコは吸わないけど、葉巻は吸う。

酒は嗜む程度――って言いながら、ウイスキー3本は空けちゃうけどね☆


夜11時には就寝、必ず8時間は眠るようにしてる。

寝る前には……そうだな、“誰かをひとり異世界に送って”から、ストレッチをきっちり20分。

その後は、ベッドに入って即・熟睡。


朝までぐっすり。疲れもストレスも、一切翌日に持ち越さない。

……ね? こんな生活、どう考えても“健全”そのものだよね?( ̄▽ ̄)v


もし読者の皆さま、あるいはその他の方々で「異世界転生をご希望」の方がいらっしゃいましたら――

ぜひ、当社にご相談ください。

“転生の実施”は保証いたします。勇者になることは保証できませんが、

最低でもアメーバに転生することは可能です。なお、“車輪”だけには決してなりませんので、ご安心ください☆


また、「特殊能力を持った状態で転生したい」「大富豪や権力者に生まれ変わりたい」などのご要望にも、

追加料金にて対応可能なカスタマイズ転生プランをご用意しております。


※転生にあたっては、事前に生命保険への加入をお勧めしております。

受取人の欄には、私の名前――妻夫木 影吉をお忘れなく。


会社電話番号:03-114514-1919810


異世界転生支援株式会社 責任者:妻夫木です!喜んでお手伝いします〜!


そう思いながら、俺はルンルン気分で家路についた。


――なんだかんだで、世界は少し……良くなっていくかもしれないな。

ハハッ。

ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます!


もし「読後感がキツい…」とか、

「ウソやん!これ詐欺やろ!?異世界テンプレで現実逃避できると思ったのに!なんでこうなんねん!」

って思われた方——


うん、その気持ち、めっちゃ分かります( ◔౪◔)✨


でも、そう感じたあなたにこそお願いしたい。

この作品、ぜひシェアしてください!


だって、他の人もこの苦しみを味わったら……

あなた自身はきっと、もう苦しくなくなるから。


そう、苦しみは相対的なものなんですからねぇ〜( ◔౪◔)フフ…

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― 新着の感想 ―
XのRP読む企画から来ました 短編詐欺…は置いといて序盤、中盤、そしてオチまで楽しめて読むことが出来ました 特に最後そう来たか!と思ってしまいました 時間ある時にまた一から読み直します
まず、短編詐欺で笑いました(笑) ちょっとした令嬢の連載モノよりも長かった(笑) 妻夫木って、やっぱり俳優さんから取ったんですね(笑) 何か、俺もジャニーズの名前出しまくってるから、何となく親和…
初めて短編を読む上で、冒頭にケツでもぽりぽりかきながら読んでもいいなんて書いてあるから、本当にかきながら読もうとしたら、めちゃめちゃ面白くてそれどころやないです!笑 めっちゃ笑えるし、ツッコミだか多い…
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