第5話 夜明け前のドリフト①
霧深い山の稜線を縫うように延びる細い峠道がある。その名を「魔獣の峠」と言い、王都近郊の若い貴族たちの間でも一目置かれる場所だ。崖下が深く切り立ち、しかも霧に覆われるため危険度が高いとされてきたが、それでも走り屋たちは自らの力を示すために集う。今宵は、そんな魔獣の峠で大規模なダウンヒル・バトルが催されるとあって、周囲の期待と緊張は極限に達していた。
闇が濃くなると同時に、続々と馬車が峠の入り口へ集まってくる。華麗に装飾された車体からは魔導ランタンのきらめきがこぼれ、貴族の青年たちがそれぞれの愛馬車を誇らしげに披露している。いつもより警戒の厳しい場所だが、この場所に集う者にとっては夜の舞踏会そのもの。名声と誇り、そして興奮を求め、彼らはこの危険な道に挑もうとしていた。
その賑わいの片隅、黒々と塗られた馬車が悠然と待ち構えている。漆黒のボディに艶やかな曲線を帯び、車輪には魔導石が埋め込まれた宝飾が施されている。クロエ・ド・ベルベットのカスタム馬車、「ブラックローズ」だ。
「ここが魔獣の峠……まったく、噂どおりの不気味さね」
クロエは外套をまとい、険しい表情を見せながら周囲の濃い霧を見やる。いつもの峠とは比べ物にならないほど視界が悪く、わずかに吹く風が霧を流してはいるものの、今夜のコースは相当な難易度になるに違いない。それでも彼女は恐れを抱くどころか、むしろ闘志をかき立てられているように見えた。
「それにしても、あの娘……来るのかしら」
低い声でつぶやく。誰に向けたのでもないその言葉は、もちろんミレイ・ブラウンのことを指す。下町の配達馬車で峠を走るなど、最初は噂話と高をくくっていたが、前回の対戦を経て、その存在を無視できなくなっていた。クロエの胸中にはいまだに苛立ちと興味がないまぜになっている。
一方その頃、峠の入口から少し離れた場所で、ひっそりと木製の馬車が停められていた。ランタンの頼りない光に照らされているのは、幌も車体も簡素に見えるが、丹念に手を加えられた痕跡がはっきりとある一台だ。ミレイ・ブラウンが心血を注いで整備し直した「配達馬車」である。
「本当に、ここでいいのかな……」
ミレイは大きく息をつき、遠方に見える霧の海を見つめる。確かに危険だと聞いていたが、ここまでの不気味さは想像を超えていた。馬車のランタンを照らしても、先の道がほとんど見えないほどだ。
それでも、ミレイの目には揺るぎない決意の光が宿っていた。前回の峠バトルで思い知らされた自分の未熟さ、そしてクロエの走りの美しさと悔しさ。それを超えるためには、どこかの峠ではなく、今夜の「魔獣の峠」が最適だと思えたのだ。
「クロエ様に、もう一度挑みたい。……いや、今度はもっと近づきたいんだ」
独り言のようにつぶやくと、ミレイはハンドルを握る。父母には心配をかけないようにと最低限しか話さずに出てきたが、自分なりの想いは家での作業に詰め込んできた。手持ちの魔導石を駆使して車輪の安定性を上げ、少しでも速度と安全を両立させるように工夫した。
今夜、この改良がどこまで通用するか――それがミレイにとっての大きな勝負だ。
やがてスタートの合図を告げるランタンが光り、貴族たちが続々とコースへ突入していく。クロエは馬車に乗り込み、毅然とした表情でアクセルを踏み込んだ。霧のため視界が悪いが、魔導石による感覚拡張を頼りに、コーナーの形状を予測しながら進んでいく。
「これが魔獣の峠の洗礼というわけね……負けるわけにはいかない」
闇夜の中、ブラックローズの車輪が火花を散らしながら峠を滑り降りる。その動きは、一見すると危ういほどの速度だが、クロエの卓越したコントロールが車体をかろうじてラインに留めていた。
近くには他の貴族馬車が数台走っているが、みな恐る恐る速度を落とし気味だ。霧と狭いヘアピンカーブが連続するため、無謀に突っ込めば一瞬で崖下に落ちかねない。しかし、クロエは迷いなく、むしろ積極的に攻めのドリフトを繰り返す。
「この程度の霧、走りの感覚で十分補えるわ」
凛とした声が車内に響き、従者が息を呑む。車体は瞬く間にライバル馬車を追い抜き、先頭集団に躍り出る勢いを見せた。
そのさらに後方、少し遅れてコースに入ったのがミレイの木製馬車だ。魔導ランタンの光が弱々しいため、闇と霧が重なるコースでは到底心許ない。けれど、ミレイには見慣れぬ道を自分の五感で確かめながら走るだけの勇気があった。
「ゆっくりでもいい……まずは馬車の感じを掴んで、いつもの配達のように」
そう自分に言い聞かせながら、ハンドルを慎重に切っていく。魔導石の力を少しだけ増幅させて、馬車の転倒を防ぐようバランスを取る。すると、最初は恐ろしかった霧も、不思議と慣れてきたように感じられた。
「うん……コーナーの先が少し見えてきた……かも」
霧で視界が悪いとはいえ、道自体は一本しかなく、どこに減速帯があるかを把握していれば意外と走れる。しかも軽量化した馬車は、少しの切り返しでも反応が鋭く、峠特有の急勾配をむしろ利用して加速することができた。
目の前の貴族馬車がブレーキをかけているのを見て、ミレイはあえてイン側を攻め、スルリと抜き去る。思わぬスピードで差を広げる自分に驚きながらも、彼女は一心不乱にハンドルを操った。
そうして両者は、コースの中盤付近でようやく近い位置へ差し掛かり始める。クロエが前方の小集団を抜け、ミレイが後方集団を追い抜いて合流しつつある形だ。霧の切れ目を縫うように車体が揺れ動き、周囲の貴族たちは必死に食らいつくが、クロエとミレイの馬車は明らかに別次元の走りを見せていた。
中でもクロエの漆黒の馬車は、コーナー手前でわざと車体をスライドさせ、ドリフト状態に移行してから一気に加速するという高度な操作を連続で行う。その度に車輪が悲鳴を上げ、火花が霧の中に瞬くが、クロエはまったく乱れずにハンドルを操り続ける。
「すごい……やっぱりクロエ様は……」
後方からその姿を捉えたミレイは、前方の黒いシルエットに目を奪われる。追いつきたいという欲求が胸を熱くし、知らずアクセルを踏み込む足に力がこもる。
ところが、その熱い走りを嘲笑うかのように、突如コース脇から獣じみた咆哮が響き渡った。霧の中、何か巨大な影が蠢き、馬車の前方を横切る。一般の魔物とは比べものにならない獰猛な気配に、一瞬、参加者たちは息を呑んだ。
その魔物は夜行性の魔獣で、牙の並ぶ大きな口を持ち、道を塞ぐように立ちはだかっている。大きさは馬車と同じくらいあるかもしれない。こんな場所に出るという噂はあったが、まさか本当に遭遇するとは思わなかった参加者たちは一気にブレーキを踏み、一部は路肩に逸れてしまう。
「なんですって……こんなところに魔獣が……!」
クロエは舌打ちして速度を落とし、ハンドルを左へ切ってかわそうと試みるが、魔獣は霧の中でもこちらを確実に狙ってくるようで、一歩踏み出して威嚇するように唸り声をあげた。下手に動けば馬車を引き裂かれかねない。
しかし、そのとき背後から勢いよく滑り込んできたのがミレイの馬車だった。彼女もまた霧の中から魔獣の咆哮を聞きつけ、急ブレーキをかける寸前に魔獣の姿を捉えている。
「クロエ様……! 危ない!」
ミレイはとっさにハンドルを切り、馬車の車輪をわざとかすめるように魔獣の前脚へ突っ込む。魔物としても、突然横から迫る車輪に動揺したのか、わずかに後ずさりする動きを見せた。
その隙を見逃さず、クロエは咄嗟にアクセルを踏む。一拍遅れる形で魔獣が再び威嚇しようとするが、クロエの馬車はすんでのところでその懐を抜け、数メートル先へ逃げ出すことに成功する。
「ふん……こんな獣に邪魔されるわけにはいかないわ」
クロエは息を整える間もなく、一気にハンドルを回してコーナーを抜けていった。
その一方で、ミレイの馬車は依然として魔獣の正面近くにいた。ギラリと光る獣の眼差しに、普通なら恐怖で動けなくなるところだが、ミレイは必死に馬車をコントロールし、避けるように路肩へハンドルを切った。
「なんとかやり過ごさなきゃ……!」
魔獣が大きく吠え、前脚を振り下ろす。車体に一撃でも当たればひとたまりもないが、ミレイはわずかな隙間を狙ってアクセルを踏み、車体を斜めに滑らせるドリフトを試みる。狭いコースならではの小回りが功を奏し、魔獣の爪は馬車をかすめるだけで済んだ。
「くっ……危ない……でも、まだいける!」
その瞬間、ミレイの耳に別の車輪の音が聞こえる。霧の奥から戻ってきたかのように、漆黒の馬車が一瞬だけ姿を現し、恐るべき速度で魔獣に体当たりする――かに見えた。だが、実際には横をかすめるだけで、魔獣の注意をわずかに引きつけようという狙いのようだった。
「クロエ様……!?」
驚くミレイ。しかしクロエは一言も発さず、気高い瞳だけで「今よ」と合図するかのようにミレイを見やる。これまで反目し合っていた両者が、魔物の前に立った一瞬で暗黙の連携を築いたのだ。
クロエが魔獣を一瞬ひきつけ、ミレイがその隙に馬車を崖側のコースへ戻し、再び動き出す。魔獣は唸り声を上げながらも、二台の馬車がすれ違いに逃げたことで、いきなりどちらを追うべきか戸惑ったようだ。
こうして数秒の綱渡りにも似た駆け引きの末、二台の馬車は魔獣の攻撃範囲から離脱することに成功する。後ろでは他の貴族たちが悲鳴や騒ぎ声を上げているが、二人はレースを続行する道を選んだ。