第4話 二人の令嬢②
一方で、王城の奥ではライナスの婚約にまつわる噂がさらに加熱していた。ある者は「ライナス殿下はクロエ・ド・ベルベットと既に婚約を交わした」と断言し、別の者は「いや、ライナス殿下は貴族階級など気にせず自由恋愛を貫くらしい」と囁く。中には、下町の少女を王城へ連れ込むつもりだとまで憶測を飛ばす者もいる。
こうした噂の大半は、貴族たちが自身の立場を有利にするための策略だったり、単なる妬みから生まれたデマに過ぎない。だが、クロエはそれを耳にして内心穏やかでいられなくなっていた。
「殿下が私との婚約をどう考えているかは知らないけれど……下町の娘に興味を示しているという話は本当なのかしら」
クロエは誰にも見られないよう息をひそめ、庭園の奥で馬車のチューンを続ける自分を奮い立たせる。真実がどうあれ、自分に注目が集まっていることは確かだし、ここで弱い姿を見せるわけにはいかない。むしろ、圧倒的な走りで殿下の目を自分に惹きつける――それがクロエのプライドであり、同時にささやかな焦りから生まれた決意でもあった。
そんな噂話をよそに、ライナス本人は相変わらずマイペースに夜の峠を走りたいだけの男である。彼は王城のしきたりや公式行事を一通りこなしながら、夜になるとひそかに馬車の整備を行い、いざコースへと繰り出す準備を進めていた。
「クロエがどんな走りをするのか、ミレイがどこまで成長するのか……楽しみだな」
峠で火花を散らした二人を思い返すと、ライナスは自然と笑みがこぼれる。どちらが勝つかというより、二人が競い合うことで生まれるさらなる高次の走りが見てみたい。それこそが彼の願いなのだ。
周囲の恋愛沙汰や婚約話など、ライナスにとっては二の次に過ぎない。少なくとも今は、峠を制する走り手たちの存在こそ、何よりも彼を惹きつけていた。
月の光が再び王都を包み込むころ、ミレイは改良を終えた馬車の試走をこっそり行っていた。先日の初陣の興奮と悔しさが、夜の闇を前にすると胸の奥で再燃する。
「もっと速く、もっと上手く走りたい……」
車体は以前より軽くなり、魔導石の力をわずかに借りることでスムーズな加速と安定性を得ている。以前なら吠えるように軋んでいた木製の車輪も、多少は整えられてまろやかな音に変わった。まだ急勾配を全速力で攻める自信はないが、手応えは悪くない。
「これなら……クロエ様ともう少し互角に……」
そう思う瞬間、脳裏に漆黒の馬車が目に焼き付く。華やかでありながら、獲物を狙う猛禽のように鋭いドリフト。圧倒的な高級感と魔導の力が結集したあの車体は、峠を走る芸術品とも言えた。下町の少女が目を奪われても不思議ではないほどの存在だ。
けれど、ミレイは同時にその存在に対抗心を燃やしている。自分もあの人に負けたくない――そう素直に思うようになったのだ。いつしかクロエへの「憧れ」という感情は、「いつか追いつきたい」「もしかしたら追い抜けるかもしれない」という淡い希望に変わりつつある。
そして、クロエはクロエで漆黒の馬車をさらに洗練させるべく日々時間を割いていた。ガレージと化した広間では技術者や従者たちが懸命に作業を手伝い、ホイールや魔導石の調整に余念がない。
「公爵令嬢たる私の馬車が、下町の娘に遅れを取るわけにはいかないわ」
彼女はきっぱりとそう言い放つと、自らも工具を手に取り、その繊細な指先で部品の状態を確かめる。華奢に見えてもしっかりと力を込めるその手は、馬車を操る者として確かな自負を秘めていた。従者たちは「クロエ様はやはりすごいお方だ」と感嘆しながらも、その鋭い眼差しには触れられないほどの熱意を感じている。
クロエの思考にはいつも、ライナスがちらつく。婚約の話を周囲が騒ぎ立てるほど、彼との結び付きが言外に強調されるのは窮屈だったが、同時に峠で彼が目にかけているであろうあの下町娘を放っておけない気持ちもある。彼女が上達すればするほど、ライナスはそちらに目を向けるのか――そんな疑念と嫉妬心を、クロエは内心で自覚し始めていた。
「もしライナス殿下が、あの娘の走りに心奪われているなら……」
そこまで考えて、クロエは首を振って雑念を振り払う。峠においては、誰と誰がどう思い合おうと、最終的にものをいうのは走りの技量だ。だからこそ、彼女は自分のプライドのために、ただ勝ち続ければいいのだと決意する。
こうしてそれぞれの立場で、クロエとミレイは峠での第二戦を心待ちにしていた。ライナスは二人の状況を見守り、周囲の噂を気に留めることなく夜毎の整備を進める。貴族界隈には様々な思惑が渦巻くが、当の本人たちはそれぞれの胸に燃える想いがあり、ただ走りたいという純粋な情熱が勝っている状態だ。
やがて噂は再び王都を駆け巡る。近いうちに大規模な夜の峠バトルが開かれるらしい。あの王太子も参加するという話で、上級貴族や名家の若者たちが色めき立っている。クロエが漆黒の馬車を完全復活させるのではないかとの憶測もあり、下町のごく一部ではミレイ・ブラウンが再度挑むという噂さえ飛び交い始める。
「今度の夜会こそ、誰が真のトップになるのかが決まるかもしれない」
「王太子の婚約話も絡んで、華やかなレースになりそうだ」
半ば興味本位で沸き立つ者もいれば、出し抜こうと策を練える者もいる。だが、当のクロエとミレイは、そんな雑多な噂には耳を貸さない。ただ純粋に、前よりも速く、より完璧な走りで峠を制したい――そう願うのみである。
夜の空気が冷えていく中、二人の思いは次なるバトルへと自然に向かっていた。クロエは公爵家の名誉と自身のプライドをかけ、もはや何者にも譲らない走りを磨き上げる所存でいる。ミレイも、初陣で味わった高揚感を忘れられず、少しずつバランス調整を重ねた馬車を夜道で試走しながら己の限界を探っていた。
そんな彼女たちの姿を、ライナスは微笑ましく、そして頼もしげに眺める。彼は誰かが負け、誰かが勝つという単純な構図ではなく、双方が高みへ至るための切磋琢磨を望んでいた。まるで、彼自身もまた峠に命をかける走り手であるかのように、二人の進化を待ちわびている。
こうして、王都の夜を舞台に「次のバトルはいったいいつなのか」と噂と期待が高まる中、クロエとミレイはそれぞれの思いを胸に準備を整えていく。クロエは宝石のように磨き上げられた漆黒の馬車を再点検し、ミレイは父の工房から細かい部品を持ち出しては試行錯誤を繰り返す。
互いの居場所は遠いが、心は同じ方向を向いていた。夜の峠で勝負する――その一点で結ばれた静かな意地と情熱。もし二度目の直接対決が実現すれば、前回の比ではない激戦が待っているだろう。二人はそれを本能的に感じ取りながら、あえて焦りを表には出さない。
「次は……絶対に、負けない」
「もっと速く……もっと華麗に……」
二つの声なき宣言が、王都の風に溶けていく。
そうして時は移ろい、闇夜が深くなるほどに峠の鼓動が高まっていく。いつしか夜には、魔導ランタンの光と馬車の轟音が再び集まる瞬間が来る。そのときクロエはどんな走りを見せるのか。ミレイはどこまで上達しているのか。ライナスも含め、誰もが注目を注ぐ一夜が近づいていた。
周囲の貴族たちの熱気、下町に漏れ伝わる噂、そして二人の間で芽生えたライバル心と、それを複雑に彩る憧れや嫉妬――すべてが次なる峠バトルへと収斂していく。