第4話 二人の令嬢①
夜の峠バトルから数日が経った。王都では相変わらず貴族たちの華やかな社交が続いているが、その舞台裏では妙な噂が広まり始めていた。ある夜の峠で、公爵令嬢クロエ・ド・ベルベットの漆黒の馬車を追いかけるように走った下町の娘がいたというのだ。しかも、あろうことかクロエのドリフトに食らいつき、コーナーの一瞬で彼女の前に出ようとした――これは単なる与太話として笑い飛ばせないほど、具体的な証言まで添えられていた。
もちろん、その噂はクロエの耳にも届いている。そして彼女自身も当事者として、その少女の存在を忘れることができずにいた。豪奢な部屋の窓辺に立つクロエは、遠く王城の尖塔を見つめながら低く息をつく。あの峠での激戦を思い返すと、胸にじくじくとした感情が湧き起こる。
「下町の配達馬車……よもやあれほど動かせる者がいるとは思わなかったわ」
ほんの独り言。周囲に侍女の姿はなく、彼女は誰にも聞かれないことを承知でそう漏らす。カスタム馬車を駆る貴族たちの中でもトップクラスの技量を持つ自負があったのに、簡素な木製の馬車を使う少女に迫られるなど、想定外にもほどがある。
そしてもう一つ、クロエを苛立たせる原因があった。夜の峠を愛する王太子ライナス・マイアードが、そのミレイという娘に手を貸したらしいという話だ。すでに貴族仲間の一部で囁かれるライナスとクロエの婚約説がある以上、彼が下町の少女を助け、その馬車を峠へ誘ったのだとすれば、クロエのプライドにささやかなひびが入るのも無理はない。
「ライナス殿下がなぜ、あんな娘に興味を……」
クロエは窓辺から離れると、優雅な歩調で自室の奥へと進む。そこには漆黒の愛馬車の設計図や、新たに導入する予定の魔導石のサンプルが置かれていた。彼女は昨夜までに点検した結果、さらに加速力を向上させるチューンを施すべく作業を進めるつもりでいる。
「こんなところで立ち止まっていられないわ。次に峠へ出るとき、あの娘を一気に引き離すだけ」
自分に言い聞かせるようにつぶやく言葉には、ライナスへの不安と嫉妬も混じっていた。しかし、その感情を表立って示すことは決してしない。自分は公爵令嬢、気高い存在であり、何より峠を走る走り手としては誰にも負けたくない。だからこそ、あの配達馬車を、そしてライナスの視線を奪うかもしれない存在を、徹底的に打ち負かす必要がある――そんな想いが胸を焼いていた。
そのころ、下町のブラウン商会ではいつもと変わらずチーズ作りや配達の作業が行われていた。けれど、ミレイ・ブラウンの心は落ち着かないままだ。家族の前では何とか普段通りに振る舞っているが、先日の峠での体験が繰り返し脳裏に浮かんでくるのである。
「クロエ・ド・ベルベット様……あれが公爵令嬢の、本気の走り……」
工房の片隅でチーズをかき混ぜる手を止め、ミレイは一人小さくつぶやいた。その瞬間に感じた息苦しさ、同時に高揚感と悔しさ。あの漆黒の馬車が舞うようにコーナーを駆け抜けた光景は、まるで忘れられない夢のように鮮明に焼き付いている。
同時に、自分の馬車があそこまで走れると知った喜びもある。それまで配達の道具としか考えていなかった馬車が、予想以上のポテンシャルを秘めていると気づいたのだ。もしもう少し改良を加えれば、クロエとももっと競えるかもしれない……そんな期待が胸を膨らませていた。
「ミレイ、大丈夫かい? さっきから何だか手が止まっているようだが」
父親が不思議そうな顔で声をかけてくる。ミレイは「あ、ううん、ちょっと考え事をしていただけ」と苦笑いで応じると、再びチーズの仕込みに没頭した。下町の生活は忙しい。昼間は店先での販売や配達の準備があるし、夜になれば何かと雑務が待っている。普通なら、それで精一杯のはずなのだが、最近のミレイはさらに夜の峠へ気持ちを持っていかれる自分に戸惑っていた。
そこへライナスがふらりと訪れることがある。彼は素性を隠しつつも何かと理由をつけてブラウン商会に顔を出し、さもチーズを買うかのような体でミレイと話をする。
「ここのチーズは本当においしいね。初めて食べたときから気に入ってしまったよ」
そう言って笑うライナスに対し、ミレイの胸は微妙にざわめく。王太子などとは信じがたいほどにフレンドリーな態度だが、時々見せる鋭い眼差しや、言葉の端々からにじむ高貴さは隠しきれていない。
「ライナスさん、また馬車を走らせに行くんですか? 夜……」
「うん。ここのところ、ちょっと忙しくて行けてなかったんだけど、そろそろ走りたいなと思って。君はどうだい? 先日はすごくいい走りだったよ」
「そう……ですか? 正直、クロエ様には全然歯が立たない気がして。でも、もう少し頑張れば追いつけるんじゃないかなって……」
そう言った途端、ミレイの頬が熱くなる。配達馬車しか操れない自分が、公爵令嬢を追いかけるなど無謀だと笑われてもおかしくない。だが、ライナスは優しい目を向けたまま、「いいんじゃない?」とあっさり受け入れた。
「走りを極めたいなら、なおさら挑戦してみるべきだよ。君は間違いなく素質がある。手ごわい相手だからこそ、燃えるものがあるだろう?」
「……はい、そうかもしれません」
ミレイはうつむきながらも、胸に芽生える闘志をはっきりと感じていた。
そうしてミレイは昼間の仕事の合間を縫って、配達馬車の整備と改良に取りかかることを決意する。そこまで大掛かりな魔導チューンはできないが、車輪の補強や車体のバランス調整、時にはわずかながら魔導力を帯びた素材を加えるだけでも、峠の下りで安定性や速度が変わるはずだった。
「ここをもう少し軽くして……幌の部分を丈夫な帆布に変えよう。あと、ハンドルのところに魔導石を仕込めば……」
頭の中でイメージを膨らませながら、父が大事に取っておいた部品のいくつかを借りては組み合わせてみる。作業場からはギシギシと木を削る音や、魔導石を扱うときの不思議な反響音が聞こえ、母親は「何をやっているのか」と心配げにのぞくこともあった。
それでもミレイの決意は揺るがない。あの夜、クロエの漆黒の馬車が放つ圧倒的なオーラと美しいドリフトに心を打たれたからこそ、次はもっと負けたくないと思うのだ。