第2話 ライナスとミレイの出会い②
一方その頃、華やかな宮殿の一室では、クロエ・ド・ベルベットが窓の外を眺めながら憂鬱そうに眉をひそめていた。周囲では数名の貴族令嬢が盛んにクロエを取り巻き、「ライナス殿下とのご婚約は本当なのか」などと噂めいた話を投げかけている。
「ライナス殿下が夜になるとどこかに出かけていらっしゃるのは、本当なのでしょう?」
「夜の峠で何やら危険な遊びをしているとも聞きますけれど……」
クロエはそれらの問いかけに、本心では面倒臭いと感じながらも、一応は表向きの微笑みを崩さない。彼女自身、ライナスとの婚約が上層部で取り沙汰されていることは承知しているが、すべてが事実かは分からない。ただ、ライナスが夜の峠に足繁く通っていることは、知っていた。
「殿下の行動をいちいち追いかける趣味はございませんわ」
冷たく言い放つクロエに、取り巻きの令嬢たちは口籠もる。やがて彼女は意地悪な笑みを浮かべ、「それよりも、峠の噂なんてただの風聞でしょう。夜遊びを好む若者がいるだけで、殿下はそんな危ないことをなさる方ではないわ」と言い切った。だが、心の奥では、もしライナスが誰かの馬車に興味を示しているとすれば、それは面白くない。そう思う自分を自覚している。
実際に、クロエは峠でライナスの姿を何度か見かけたことがある。彼が馬車を巧みに操り、貴族の若者の中でも屈指の腕を持つと噂されるほど、走り屋として名を馳せている。それを知る者は少ないが、クロエにはその真実を見抜く目があった。高貴な血筋でありながら、危険を恐れず峠を駆ける王太子。その姿に複雑な感情を抱くのは、クロエにとって自然なことだった。
同じ頃、下町の納屋に着いたミレイとライナスは、ひとまず辺りに魔物がいないことを確認していた。納屋の扉を開けると、中には古びた配達馬車が止められている。ランタンの淡い光に照らされ、木製の車輪と朽ちかけた幌が浮かび上がる。それを見たライナスは興味深そうに近づき、そっと指先で車輪のフレームを撫でた。
「これは随分と軽そうだ。意外と操縦しやすいんじゃないかな」
「そうですね。整備はちゃんとしているので、長距離でも壊れたりはしません。むしろ小回りが利くから狭い道なんかは助かってます」
「へえ……」
ライナスは納得したように小さく息をつく。この馬車なら、峠の急カーブでもそこそこのスピードが出せるかもしれない。それこそ、下町の少女が無自覚に身につけた技術を発揮すれば、貴族がカスタムした魔導馬車と互角に張り合える可能性さえある――そんな予感すら抱かせる代物だった。
「ミレイさん、もしよければ、次の夜にでもこの馬車を走らせてみない? 峠ではいろんな人の走りを見られて、きっと勉強になると思うよ」
「えっ……でも、そんなこと私には……」
「大丈夫。僕が案内する。もちろん参加を強要するわけじゃない。でも、君が配達馬車を自在に操る姿を見てみたいんだ」
不意に差し出された提案に、ミレイは戸惑いを隠せなかった。夜の峠は貴族たちの秘密の舞踏会のようなものだという噂は聞いている。そこへ下町の娘が足を踏み入れていいのかという不安。そして同時に、なぜか胸が高鳴るような期待感が入り混じり、言葉に詰まってしまう。
ライナスの穏やかな笑みに背中を押されたような気がして、ミレイはごくりと唾を飲む。危険かもしれないし、貴族に混じってどうなるかも想像がつかない。けれど、彼の言葉には真摯な響きがあって、断るのも躊躇われた。
「……考えてみます。私なんかで本当に大丈夫なのか、ちょっとわからないんですけど」
「もちろん、急に決めろとは言わない。いつでも君が来られるタイミングがあれば、それでいい。僕はこの町のどこかにいるから、また会えたら話しかけて」
ライナスは名残惜しそうに外套の襟を正し、納屋を出て行く準備を始める。気づけば夜も深まっており、そろそろ彼自身も峠に向かう時間が気になっているようだった。
「今日は本当に助かりました。私、何もお返しもできないまま……」
「お礼なんていらないよ。その代わり、夜の峠に来てくれたら、それだけで充分さ」
そう言うと、ライナスは月明かりの下へと歩み出る。去り際、彼は振り返って一言だけ付け加えた。
「絶対に無茶はしないで。君の配達馬車の走り、僕は見てみたいけれど、怪我をしてしまったら意味がないからね」
その言葉にミレイは微笑み返し、か細い声で「気をつけます」と返事をする。静まり返った夜の路地へ消えていくライナスの背中を見送りながら、彼の穏やかで誠実そうな雰囲気が実は何かを隠しているのではないかという疑念が、ほんの少し胸に芽生えた。
あの魔物から救ってもらったことは事実だし、彼は優しさを持って接してくれた。だが、数々の噂が渦巻く夜の峠への誘いには、不可思議な魅力があると同時に、得体の知れない危険の匂いも含まれている。それをわざわざ下町の娘である自分に勧めるのは、何か理由があるのだろうか――そんな考えが、ミレイの頭から離れない。
一方、クロエ・ド・ベルベットは宮殿の一室を退出し、控えめに人目を避けながら車寄せへと向かっていた。夜会が終われば、彼女が本当に向かうのはダンスフロアではなく峠のコース。社交の場で聞かされる婚約話や貴族仲間の妬みなどには飽き飽きしており、早く馬車に乗りたいという焦燥感すら覚える。
「ライナス殿下、今頃はどこを走っていらっしゃるのかしら……」
小さくつぶやいたその言葉には、鋭い苛立ちと小さな期待が混じり合っている。王太子と噂されながらも、クロエにはまだ正式な約束など何ひとつない。彼女自身も結婚について深く考えてはいないが、周囲が勝手に盛り上がっていることが気に障って仕方ないのだ。
それでも、ライナスが峠で走る姿は確かに見応えがあると、クロエは知っている。素性を隠したまま華麗なテクニックを披露し、誰もがその技術に驚嘆するほどだった。そして彼女自身もまた、漆黒の馬車で峠を駆けるときこそ、自分を解放できる気がする。そうやってプライドをかけて突き進む先に、ライナスがいるのは悪い気はしない――そう思う自分がどこかにいるのを感じるのだ。
深夜、王都の下町の納屋に戻ったミレイは、一連の出来事を思い返していた。魔物に襲われた恐怖、突然現れた謎の青年ライナス、そして提案された夜の峠。普段なら絶対に関わり合いにならないはずの世界と、思いもよらず接点を持ってしまった。
「夜の峠か……。本当に、行けるのかな」
自室に戻って窓の外を見つめ、ミレイはわずかな月明かりに目を細める。もし行けば、どんな光景が待っているのだろうか。貴族たちが集う世界なんて、配達用馬車しか知らない自分には遠すぎる。それでもライナスが言っていた「見てみたい」という言葉が、何故か心に響いていた。
そして次の朝、いつも通り目を覚まして家業の手伝いをこなしながらも、ミレイの頭の片隅にはずっと夜の峠のことが引っかかっていた。市場でチーズの材料となる新鮮なミルクを仕入れ、せっせと仕込みをしていると、父や母が不思議そうに彼女の様子をうかがう。
「どうしたんだい、ミレイ。なんだか落ち着かないみたいだが」
「ううん、ちょっと昨日は眠りが浅かっただけ。大丈夫だよ」
まるで言い訳のように笑ってみせるが、心中はまるで嵐の前の静けさのようにざわついている。あの夜道での出来事は確かに現実で、自分はほんの少しだけ、新しい世界の入り口を覗き見てしまったのだ。
こうして、ミレイの中で夜の峠への関心が大きくなり始める。一方、クロエは貴族の仲間たちとともに「ダウンヒル・バトル」の話題を交わし、ライナスの動向を探ることに苦痛を感じながらも、峠での戦いに思いを巡らせていた。表向きは冷ややかな態度を保ちながら、その胸の内には次のバトルで誰よりも輝いてみせるというプライドが燃えている。
夜の峠――それは高貴な者たちが集う秘密の舞踏会でもあり、新たなステータスを競い合う場でもある。そして偶然にも、その扉の端に足をかけた下町の娘がいた。ミレイとライナスの言葉が交わされたあの深夜の路地を境に、二人の運命は確実に近づきつつある。
「……もしかしたら、あの人に会いに行くだけでも、いいのかもしれない」
チーズ屋の娘としての立場を超えられるかは分からない。それでも興味と期待が膨らむのは否定できなかった。納屋の片隅で配達馬車を点検する手が、自然と念入りになっていくのを、ミレイは自分でも意識している。ライナスという青年の言葉を裏切らないように――そんな思いが、不思議と胸を熱くさせるからだ。
この夜が明ければ、また新たな一日が始まる。けれど、彼女の意識はすでに次の夜へ向かっていた。夜の闇の向こうにある峠が、どんな世界を広げているのか。自分のような下町の娘には到底理解できない場所かもしれない。だが、たとえ一瞬でも覗いてみたいと思ってしまうのは、目を閉じても消えない衝動だった。
そうして王都の街のあちこちで、それぞれが違う想いを抱えながら夜を待っている。クロエは婚約話に苛立ちながらも、自分の走りをさらに研ぎ澄ますことを考え、ライナスはその両者の動向を気にしながらも、自らも馬車を整備し続ける。ミレイは配達が終わるたびに夜の峠に思いを馳せ、行くべきか迷いながら心を揺らしていた。
月の沈む空の下、ふと見上げた星々がいつもよりも強く瞬いたように見えた。ミレイの心にも、小さな星が生まれている。それが希望なのか冒険心なのか、それとも単なる好奇心かは分からない。ただ、ライナスが手を差し伸べてくれたことをきっかけに、彼女の世界は少しずつ広がり始めているのだ。
「行くと決めるかどうかは、自分次第なんだよね……」
闇の中へとつぶやく声は誰にも届かない。だが、そのつぶやきには確かな決意が混じっている。次なる夜、配達馬車は果たしてどこへ向かうのか。運命の交差点には、もう一人の公爵令嬢や数々の走り屋たちが待ち受けている。招待状など必要のない夜の「舞踏会」へ、彼女が実際に足を踏み入れるのはそう遠くない未来だろう。