第2話 ライナスとミレイの出会い①
夜空に浮かぶ月が、王都の下町を淡く照らしていた。石畳の路地には人通りもまばらで、軒先のランタンも大半が消されている。そんな夜更けに、ミレイ・ブラウンはささやかな用事で外へ出ていた。明日の配達の準備を終えたはずが、納屋に保管しているはずのチーズに不足分があるかもしれないと気付き、慌てて再確認をしに向かったのである。家族が寝静まった後のこととはいえ、彼女にとって夜の街を歩くのはさほど珍しいことではなかった。
月明かりを頼りに石畳を進むミレイは、はやる気持ちを抑えながら歩幅を速める。半分壊れかけの木箱や捨て置かれた樽の陰が作る暗がりに、わずかに警戒を抱きつつも、慣れた道だと安心する気持ちもある。子どもの頃から配達先が夜明け前に及ぶこともしばしばだった彼女にとって、夜の王都は決して初めて見る景色ではなかった。
だが、その夜はいつもとどこか違った。人気のない路地裏で、ふと背後の闇がざわりと動いたような気がして、ミレイは思わず足を止めた。
「……風のせい、かな」
そうつぶやきかけたとき、不意に何かが石畳を引っ掻くような、低い唸り声ともきしむ音ともつかない、不気味な音が響いた。ミレイは息を呑む。辺りを見回しても人の姿はない。しかし、月の光の届かない暗がりに、まるで獣じみた気配が潜んでいるのを感じた。
次の瞬間、暗がりから黒い影が飛び出してきた。それはどろりと濁った目をした魔物で、体格は大きな犬ほどもある。光を反射しない皮膚と鋭い牙、そしてぐにゃりと曲がった前肢が特徴的で、一見するだけでただ者ではないことが分かる。こんな街中にも、稀に魔物が迷い込むことがあると聞いたことはあったが、実際に遭遇するのは初めてだった。
咄嗟に逃げようとしたミレイの足は強張り、思うように動かない。魔物は低い唸り声を上げながら、彼女へとじりじり距離を詰めてくる。爪が石畳を引っ掻くたび、嫌な音が鼓膜を刺激し、ミレイの鼓動は速まるばかりだった。
「まずい……どうしよう……」
声にならない声を上げ、後ずさりをする。しかし背後には壁があるため、逃げ道はほとんどなかった。
そのとき、突如として路地に軽やかな足音が響く。まるで何かを躊躇なく蹴り飛ばすような衝撃音がして、魔物が鋭い悲鳴を上げた。ミレイの目の前で、魔物の身体が不自然に跳ね飛ばされる。何が起きたのか理解できずにいると、路地の暗がりから一人の青年が姿を現したのが見えた。
青年はマントのような外套をまとい、すらりとした体躯で杖のようなものを手にしている。だが、その杖は魔法使いのそれとは少し違う印象があった。風切り音を残して魔物と対峙する様は、どこか騎士が剣を構えるようにも見える。
「大丈夫かい? ここは少し危ないみたいだ」
柔らかい声で問いかける青年の瞳は、どこか余裕すら感じさせる。彼は魔物に振り返ると、軽く杖を振って牽制するように前へ踏み出した。魔物は低い唸りを上げたが、先ほどの不意打ちで怯んだのか、一瞬動きを止める。すると青年は次の一撃で魔物を追い払うべく、魔導の輝きを帯びた杖を振り上げた。
魔力の風が路地を駆け抜けると、魔物は狂乱の声を上げながら身を翻し、建物の隙間へ逃げ込んでいく。完全に撃退したかどうかは分からないものの、とりあえずその場から魔物は消えた。路地には静寂だけが戻り、恐怖に固まっていたミレイはようやく呼吸を取り戻す。
「ありがとうございます……助かりました……」
震える声で礼を言うミレイに、青年は申し訳なさそうな笑みを浮かべてみせる。
「いや、こちらこそ驚かせてしまったかもしれない。怪我はないかな」
「はい、なんとか……」
ほっとしたのか、ミレイの体から力が抜けていく。地面に崩れそうになったところを、青年がとっさに支えてくれる。まるで貴族の舞踏会で女性をエスコートするような動作だが、その手には優しい温かみを感じられた。
「この辺りは夜が更けると危ない場所だから、気をつけたほうがいいよ」
「いつもはこんなことないんですけど……本当にありがとうございます」
ミレイがもう一度お礼を述べると、青年は杖を畳みながらうなずいた。だが、その瞳にはどこか好奇の光が宿っている。
暗がりの中でよく見れば、彼の身なりは質のいい布地を使っているように見える。下町の住人とはとても思えない。だが、華美すぎないシンプルな装いのせいか、あまり威圧感は感じられなかった。それでいて、何か品格を漂わせるような雰囲気もある。
「こんな時間に、どうしてこんなところを……? 危険だって、分かっていただろうに」
「ちょっと、家のチーズが足りないかもしれなくて。私は『ブラウン商会』の娘なんです。どうしても確認したくて、納屋まで行こうと思って……」
ミレイがそう答えると、青年は「なるほど」という風に小さく笑う。その言葉に馬鹿にしたニュアンスはなく、むしろ親しみのある表情だった。
「チーズ屋さん、なんだ。僕は……そうだな、あまり大っぴらには言えないけれど、普段はちょっと特別な仕事をしている。それでも、たまにはこうして夜の街を散策したくなるんだ」
「特別なお仕事……? 貴族の方、でしょうか」
ミレイは無遠慮かと思いつつも、どうしても気になって尋ねてしまう。すると青年は口の端を上げ、小首をかしげた。
「詳しくは秘密。でも、貴族というわけじゃない……とだけ言っておくよ」
そのやり取りをしばし続けたあと、ミレイは名乗り合うタイミングを見失いかけたが、ようやく思い切って尋ねてみる。
「ごめんなさい、まだお名前をうかがっていないような……。私の名前はミレイといいます。ミレイ・ブラウンです」
「そうか、ミレイさん、ね。……僕はライナス。まあ、そう呼んでくれればいい」
ライナスと名乗った青年は、どこか含みを残したまま微笑む。普通の名前だが、どこかこの国の高貴な家系を思わせる響きでもあり、ミレイは心の奥で少し違和感を覚える。けれど、目の前の彼が命を助けてくれた事実には変わりなく、それだけで十分だった。
ふたりは人気のない路地を離れ、ミレイの納屋へと向かう道すがら会話を続ける。ライナスはできるだけ歩幅を合わせるようにゆっくりと歩き、ミレイの不安を和らげるように気遣ってくれた。
「君はチーズ屋さんってことは、配達もするんだよね。馬車を使っているのかな」
「ええ、うちには簡素な配達馬車があって……。でも、そんな大したものじゃないんですよ。魔導馬車って言えるほど立派でもないし、古いし……」
「そんなことはないさ。馬車は人によって性能が変わる。結局、使いこなすのは人間だからね」
その言葉に、ミレイは少し目を見張る。まるで馬車の性能について詳しいかのような話しぶりだ。ふと、ライナスの装いの奥に、貴族が持つような高価な馬車の鍵らしきものが見えた気がして、やはりどこか普通ではない人物なのだと思わされる。
「ところで、ライナスさんは……夜に出歩くなんて、やっぱり何か用事があったんですか」
「うん、そうだね。夜の峠を走りに行こうと思ってたんだ」
「夜の峠……?」
ミレイはその言葉に首を傾げる。まさか、あの噂で聞いた「ダウンヒル・バトル」のことなのだろうか。若い貴族がこぞって通う夜の娯楽と耳にしたことはあったが、下町の自分には縁のない話だと思っていた。
「興味があるなら、一度見学に来るといいよ。普段チーズの配達で馬車を操っているなら、意外と楽しめるかもしれない。もっとも、あそこは貴族の集まりだから、敷居が高いって感じるかもしれないけれど……」
「そうなんですか。私はただ運転が好きなだけで、そんな、貴族の方々と張り合うようなことなんて……」
「張り合うとか、そういうのじゃない。走りを極めたいっていう熱意や、スリルを求める気持ちがあれば、誰でも歓迎だと思う」
ライナスはどこか楽しげに語る。その瞳はまるで、夜の峠を思い浮かべているかのように輝いていた。ミレイは彼の言葉に戸惑いながらも、なぜか胸の奥が少しだけ高揚するのを感じる。