第6話 真の意味での“舞踏会”②
そうして、魔獣の峠でのバトルは一応の終焉を迎えた形になる。朝陽が山の向こうから昇り出すと、霧も薄れ、コース周辺には淡い金色の光が満ち始める。馬車を停めていた貴族たちは疲れ果てた様子ながら、皆が達成感に包まれたように見えた。とりわけクロエとミレイの二人が与えた衝撃は大きく、帰り支度をしながらも「もう一度挑戦したい」「次回は自分も加わりたい」と盛り上がっている声が聞こえる。
そんな中、ふとミレイの目が遠く下町の方向へ向けられた。夜の間に起こったことが、まるで幻のようにも思えてしまう。普通の生活に戻れば、彼女はただのチーズ屋の娘で、家族と一緒に店を切り盛りするだけの日常が待っているはずだ。しかし、もう自分の中では峠を駆ける感覚が身体から離れない。もしどこかで再びこの魔導馬車を走らせる機会があるなら、きっと今以上の意地を見せたいと思ってしまう。
「ミレイさん、どうするんだい? これから」
ライナスが声をかける。彼もまた、峠の最終地点まで来ており、自分の馬車を降りた状態で周囲の様子を見回しているようだった。ミレイは少し考え込んだあと、はっきりとした声で答える。
「私は、下町に戻ります。もともと家業を手伝いに来ていただけですし、こんなに長い時間いないと父や母が心配してしまいますし……」
「そうか。まあ、それが普通だよね。ただ、君が戻りたくなったらいつでも峠に来ればいい。僕はそう思っている」
それを聞いたミレイは、柔らかな笑みを浮かべて「ありがとうございます」と頭を下げた。それから視線をクロエに移し、少し言葉を探すように口を開く。
「クロエ様。今夜は本当に……いえ、今夜だけじゃなくて、ずっと……ありがとうございます。憧れと悔しさと、いろんな気持ちを教えてもらった気がして……」
「別に礼を言われる筋合いはないわ。私だって、あなたから学ぶことはありましたもの」
クロエは少しそっぽを向きながらそう言い放つが、その口調は決して冷たくはなかった。むしろ、高みを目指す走り手同士として、ミレイの存在を初めて真っ向から認めたようにも感じられる。
「また……会いましょう」
「ええ、必ず」
二人はきっぱりと約束を交わすように瞳を交わす。下町と貴族社会という、元来は交わるはずのない世界に生きる二人だが、峠での走りに関してはまったく別だ。互いを刺激し合い、高め合う存在として、これからもレースの舞台で共鳴し続けるだろう。
その様子を静かに見守っていたライナスは、心底嬉しそうに微笑んだ。周囲の貴族たちも、その雰囲気に感じ入ったのか、やや羨望のまなざしを向ける者までいる。クロエとライナスの婚約話についてはまだ何も結論が出ていないし、ミレイが下町の暮らしへ戻る問題もある。けれど、目の前の風景だけを切り取れば、今はただ爽やかな朝日が二人を照らし、未来への可能性を示唆しているかのようだ。
その後、貴族たちは名残惜しそうにしながらも順次馬車を走らせ、王都へと戻り始めた。長い夜からの解放と、魔獣の脅威を乗り越えた安堵感が混じっていて、馬車の列はいつものようなきらびやかさこそないが、独特の解放感が漂っている。
クロエ・ド・ベルベットも例外ではなく、もう一度馬車を確かめると、従者を促して別のルートから帰路につく。昨夜の激しいバトルや魔獣との遭遇が嘘のように、朝陽のもとでは静かな面持ちだったが、その胸の内には新たな熱が宿っていた。
「私には、まだやるべきことがある。誰にも越えられない走りで、殿下も周りの貴族も黙らせてみせるわ。そして……」
漆黒の馬車の車輪が、かすかな振動とともに地面を踏みしめる。峠を制する力とともに、クロエは自分の存在を誇示する。それが公爵令嬢としての義務なのか、それとも一人の走り屋としての選択なのかは、もはや彼女自身さえ区別がつかなくなっていた。
一方、ミレイ・ブラウンは馬車をゆっくりと下町方向へと向ける。徹夜での走行に加え、魔獣との緊迫した対峙まであり、疲労は相当なはずだが、その瞳にはまだ余力が感じられる。
自分は下町のチーズ屋の娘。父母とともに朝早くから仕込みをし、配達をこなす毎日を送る。それはきっと変わらない。しかし、今回の峠バトルを経験したことで、走ることへの情熱が膨らんでいるのを止められない。
「もっと上手くなりたい。もっと自由に走りたい。次こそはクロエ様と完全に肩を並べるぐらいに……」
そう思えば、馬車を動かす手が自然と軽くなる。帰路の道すがら、疲れた身体とは裏腹に、心は高揚感で満たされていた。
峠のふもとで繰り広げられた光景は、貴族の青年たちにとっても衝撃だった。名門公爵家の令嬢が下町の娘と互角に渡り合い、さらには魔獣さえ退けながらトップ争いを繰り広げた――そんな話はすぐに王都中に広まり、人々の話題をさらうに違いない。
しかし、何よりも尊いのは、そこで生まれた互いへのリスペクトと、走り屋としての誇りである。婚約話が宙ぶらりんであろうと、貴族と下町の垣根があろうと、そんなことは二人にとって大きな障害ではない。走ることで得られる充実感こそがすべてなのだと、夜明け前の峠が教えてくれた。
こうして新しい朝を迎えたクロエとミレイは、それぞれの道へ戻っていく。立場も環境も違うが、不思議と共有できる時間が存在するのを知った以上、もう二人はまったく別世界の住人とは言えない。峠という名の舞踏会で、いずれ再び巡り会う日は遠くないだろう。
王太子ライナスは、その余韻がまだ残る峠の麓に佇み、薄く笑みを浮かべて空を仰いだ。自分に押しつけられる婚約の話や王位継承の義務もあろうが、今はただ、あの二人が作り出す熱いレースの続きを見たいという純粋な願いが頭を支配している。
「きっと、これからもっとすごい走りを見せてくれるはずだ……あの二人なら」
夜明けは完全に訪れ、朝日が峠の岩肌を柔らかく染めていた。空には一筋の薄い雲が流れ、風に乗って霧が晴れ渡っていく。あれほどの危険をはらんだ道も、昼間になればただの山道だ。けれど、そこに夜が訪れれば、必ずまた若き走り屋たちが姿を現し、魔導馬車を駆って競い合うのだろう。
この物語はここで一区切り。けれど、二人のレースは終わらない。夜の峠に馬車が集まり、ランタンが灯るたびに、新しい伝説が生まれるかもしれない。その時、漆黒の馬車と木製の馬車のタイヤ痕が、再び深い軌跡を刻むだろう。
峠に吹き抜ける風が、彼女たちの名残をさらっていく。見上げた空は高く澄み渡り、朝焼けの残り香が消えていく。今はただ、静かな王都の朝が始まるだけ。しかし、いつかまた夜の帳が降りれば、この二人の物語が続いていく。その未来を誰もが期待し、陽光の中へと消えていく彼女たちの背中をそっと見送るのだった。
(完)




