第6話 真の意味での“舞踏会”①
夜明けの光が淡く降り注ぎはじめた峠のふもとは、まるで深夜の喧騒が嘘のように静まり返っていた。霧が薄れ、東の空が紫色に染まるころ、一台、また一台と馬車がゴールエリアの近くへ辿り着く。その中でも、とりわけ注目を浴びているのは漆黒の馬車と木製の馬車。激戦を勝ち抜いた二台が、夜明けの茜色の中で並んでいた。
車体を止め、ようやくハンドルを離したクロエ・ド・ベルベットは、深く息を吐き出した。いつもは飄々とした表情を崩さない彼女だが、さすがに今夜の峠──しかも魔獣が出没した危険な道のりを駆け抜けた直後とあって、微かに肩を震わせている。そんな彼女の視線の先には、同じく息を整えているミレイ・ブラウンの姿があった。
「まったく……こんなに疲れたのは久しぶりね」
クロエが小声でつぶやくと、ミレイも思わず苦笑しながらうなずく。もはや互いを見据えるそのまなざしには、勝ち負けを超えた敬意の色が浮かんでいた。つい先ほどまでは、峠で火花を散らすライバルでしかなかったかもしれないが、命懸けの走行と魔獣の脅威を乗り越えた今、ふたりの心には奇妙な連帯感すら感じられる。
周囲ではライナスや貴族の青年たちが続々と駆け寄り、二人の健闘を称えている。誰もが大げさな言葉を並べ立て、「魔獣を相手にあそこまで走るなど信じられない」「まるで伝説の騎士のようだ」などと口々に賞賛を送る。けれど、クロエはそれを冷静に受け流し、ミレイに向き直った。
「……あなたも、相当鍛えてきたわね。まさか、私のブラックローズに食らいついてくるなんて」
「ありがとうございます。だけど、クロエ様が前を走ってくれたからこそ、私もあそこまで踏み込めたんです」
ミレイの声はまだ少し上ずっていたが、しっかりと意思をこめていた。木製の馬車がここまで走れるのは、自分の努力だけではない、と言わんばかりにクロエの走りに敬意を示している。
クロエはその言葉を受け止めながら、一瞬だけ言葉を探すように目を伏せる。普段なら傲慢と言われるほど気高い態度を貫く彼女だが、今はどうしてもミレイへ一言伝えたい気持ちがあった。
「あなたがいなければ、あの魔獣の前で私は……」
「いえ、私だってクロエ様がいなかったら、どうなっていたか……」
互いの言葉が途中で交錯する。それはまるで峠で繰り広げられた攻防を象徴するようだった。ふたりは苦笑を交わし合い、漠然とだが相手を認め合う空気がそこに生まれている。
そんなふたりのやりとりを、少し離れた場所で静かに見守っている者がいた。夜を通して漂う危険な熱気の中、彼は自らも峠を走りながらクロエとミレイの動向を見つめていた。漆黒の髪を持ち、柔和な表情でこちらを見守る青年――その人こそ、王太子ライナス・マイアードである。
彼が一歩前へ進むと、周囲の貴族たちは一斉に道を開け、深々と礼を取る。その姿を目にしたミレイは思わず息をのんだ。
「え……皆さん、どうして頭を下げて……?」
戸惑うミレイの視線は、ライナスに注がれる。彼は軽く首を振り、静かに口を開いた。
「二人とも、よく無事に帰ってきてくれた。まさに執念の走りだったね」
まわりの貴族たちが「殿下、お疲れ様です」と言葉を交わすのを耳にして、ミレイはさらに驚き、クロエへ目配せする。クロエはわずかに眉をひそめながらも、声を落としてつぶやく。
「そうよ。彼が……王太子ライナス・マイアード殿下」
「え……王……太子様……?」
ミレイは目を大きく見開き、ライナスを見返す。今まで普通の青年として接していた相手が、実はこの国の王位を継ぐ人物だと知り、言葉を失った。
ライナスはそんなミレイの様子に気づいたようで、小さく笑みを漏らす。
「君にはいろいろ手伝ってもらったから、隠していて申し訳ない。けれど、峠を走るときは、身分なんて関係ないんだ」
クロエは一度目を伏せたあと、「もちろんですわ」と誇らしげに微笑む。これは彼女なりの賛同の仕方だった。王太子に意見することなど、本来ならあり得ないが、峠で火花を散らす間柄であればこそ、貴賤の差など大した問題ではない――そう言わんばかりだ。
一方ミレイは、恥じ入るようにうつむきながら、なんとか声を出す。
「わ、私……そんな大それた方に普通に話しかけていて……す、すみません……」
「いいんだよ。むしろ、そのおかげで僕も気楽だった。二人とも、よく無事で帰ってきてくれた。まさに執念の走りだったね」
ライナスの柔らかな言葉に、ミレイは少し顔を赤らめながら、「恐れ多いですけど、頑張りました」となんとか答える。
「こうして並んでいると、まるで対照的な二台だ。けれど、どちらも素晴らしい走りを披露してくれたよ」
ライナスの言葉に、クロエは「ええ、それは当然ですわ」と胸を張り、ミレイもぎこちなく微笑む。突然知った身分の違いに戸惑いつつも、夜の峠で磨き合った走りへの自信が、ここで萎縮することを許さない。
そうしてライナスは静かに二人の馬車を見比べ、満足げにうなずいた。まるで公爵令嬢の黒馬車と、下町娘の木製馬車が、この夜の舞踏会を象徴するかのように語りかけているようだった。
ライナスを中心に、貴族たちの視線が二人へ集中する。その中にはクロエとミレイを等しく称賛する者もいれば、「どちらが本当に速かったのか」と興味を示す者もいる。さらに、クロエとライナスの婚約話を思い出し、微妙な空気を醸す者もあった。
「ライナス殿下とクロエ様は将来的に結ばれるのでは……」
「けれど、最近はライナス殿下が下町の娘とも親しくしているとか……」
そんな囁きがあちこちで聞こえるが、当の三人は気にかけているふうにも見えない。クロエは「そういう話題はあとで聞くわ」という態度で眉をひそめ、ミレイは自分にとって遠い世界の話だと思い込んでいる。ライナスに至っては、恋愛模様などよりも、純粋に二人の走りが生んだ熱気と高揚感のほうに胸を打たれているようだった。




