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第1話 華やかな貴族社会の影

 夜の(とばり)が降り始めた王都の一角、豪奢(ごうしゃ)な宮殿の大広間では、名だたる貴族や上流階級の者たちが集い、華やかな社交のひとときを過ごしていた。シャンデリアの(きら)めきと舞台の美しい音色が場を彩り、まるで絵画のような光景を作り出している。そこに集まる誰もが、社交や結婚、あるいは政治的な思惑を胸に秘め、着飾った衣装と微笑みで互いを品定めするように視線を交わすのだった。


 その人々の中心付近に、一際目立つ姿がある。漆黒のドレスを纏い、まっすぐ背筋を伸ばした女性。名門公爵家の令嬢、クロエ・ド・ベルベットだ。彼女は(つや)やかな漆黒の髪をきちんと結い上げ、優雅な身のこなしで場の空気を支配しているようにさえ見える。周囲の貴族たちは彼女に声をかけようと躍起になりながらも、その冷ややかな目元と圧倒的な存在感にたじろぎがちだった。


「クロエ様、今宵も素敵なドレスでいらっしゃいますね」


 取り巻きの一人がそう声をかけるが、クロエの返答は素っ気ない。ほんの少し会釈をするだけで、まるで遠くを見据えているかのような視線を別の方向へ向ける。そのまなざしの先を追えば、大広間の奥、華やかな喧騒をよそに人知れず退出しようとしている数人の若者の姿がある。ドレスやタキシードを身に着けたまま、どこかそわそわと落ち着かない様子で、そっと扉の向こうへ消えていくのが見えた。


「そろそろですわね」


 クロエは低い声でそうつぶやくと、取り巻きたちに別れを告げて大広間を出て行く。その足取りは迷いなく、あらかじめ決めていた行動であるかのように軽快だ。これから向かう場所こそ、彼女が本当に求めている「舞踏会」。表向きの優雅な夜会ではなく、真夜中の峠で繰り広げられる若き貴族たちの秘密の社交。それは高貴な生まれを誇る者同士の競争でもあり、新たなステータスの争いの場でもあった。


 一方、同じ王都でも下町と呼ばれる区域では、人々の日常がまるで別世界のように営まれている。古びた石畳の路地には明かりが少なく、夕暮れになるとほとんどの店が看板をしまい始める。そんな通りの一角にあるのが、家族経営のチーズ屋「ブラウン商会」だ。看板は朽ちかけているものの、店先には種類豊富なチーズが並び、昼間は近隣の住民でそこそこ(にぎわ)わっている。しかし夜になると商売を終え、明かりが落とされた店内に静けさだけが満ちていく。


 そんな店の奥から、コツコツと木の床を踏む足音が聞こえる。寝る前に最後の片づけをしているのは、この店の娘であるミレイ・ブラウンだ。くりくりとした瞳に柔らかな髪を肩口ほどまで伸ばし、一見するとどこにでもいるような下町の少女。けれど彼女は幼い頃から自家製のチーズを遠方まで配達する役目を担っており、配達用の馬車を操る腕前だけは誰にも負けないという自負がある。


「明日も早起きして仕込みを手伝わないとなあ」


 店の鍵をかけながら、ミレイは苦笑いを浮かべる。父親と母親は小さなチーズ工房で今日の製作を終え、すでに休んでいる。明日は市場に新鮮なミルクを取りに行く日でもあるため、遅刻など許されない。そう思いながら店の灯りを落とし、夜の(とばり)に包まれた路地へ足を運んだ。


 そんな彼女には、周囲の同世代とは少し違った日常がある。小さいころから配達用の馬車を自分で引き、近場から遠方までチーズを届けていたのだ。配達用の馬車と言っても、見た目は至って簡素。車輪は木製、魔導の仕掛けも最低限で、使い込まれた木の幌には無数の擦り傷がある。だが実際に走らせてみれば意外に軽く、狭い路地でも小回りが利くため、ミレイは苦にすることなくあちこちへ向かうことができる。その積み重ねで自然と培われた操縦技術は、彼女自身すら十分に理解していないほどだ。


「今日は遠い方の街にも配達があったから、さすがに疲れたかも」


 ミレイは心地よい疲労を感じながら、店に隣接した自宅へと戻る。そこには古い納屋があり、明日はここからまた愛用の馬車を引き出して出発するのだ。彼女がこの生活を当然のものと受け止める一方で、その腕前が特殊であるとは思っていない。下町で育った彼女にとっては、馬車を動かすことなど誰でもできる日常の一コマに過ぎなかった。


 しかし、この王都にはもうひとつの「夜の世界」が存在する。貴族や名家の若者たちが集い、魔導馬車を夜の闇に駆る――通称「ダウンヒル・バトル」。元々は貴族たちが馬車を競わせて遊ぶ小さな集まりだったのが、いつしか改造や魔導の工夫を凝らす形で進化を遂げ、今では夜な夜な峠を舞台とした熱狂の祭典と化していた。そこで華麗な走りを見せれば、新しい社交の形として貴族間に名を(とどろ)かせることができる。だからこそ、華やかな晩餐会が終わるや否や、彼らはこぞって峠へ向かうのだ。


 そして、その中心にいると噂されるのが王太子ライナス・マイアード。穏やかで優しい青年として知られる彼が、実は誰よりも夜の峠を熱く駆け抜ける「走り屋」だというのは、貴族たちにとって公然の秘密だった。若い貴族の多くは、自らの社交的地位を高めるためにも、あるいは単純に刺激を求めるためにも、この“夜の舞踏会”へこっそり参加しているのである。


 クロエ・ド・ベルベットもその一人に他ならない。彼女が操る漆黒の馬車は、細部に至るまで精巧にカスタムされ、魔導の力を最大限に活かす設計が施されている。そこに公爵家の財力と技術が惜しみなく注ぎ込まれ、闇夜においてはまさに「漆黒の薔薇(ばら)」のごとき威圧感を放つのだ。軽量化された車体と鋭いハンドリング性能、そしてクロエの大胆かつ正確な操作が組み合わさり、峠の急勾配をまるで舞うように駆け下りる。その様は見る者を圧倒し、同時に彼女の気高さを象徴しているかのようにも映る。


「まさか公爵令嬢が、あれほどの腕を持っているなんて」


 貴族仲間の間でも、クロエの名は伝説のように語られていた。夜が深まるほどに神秘的な空気を纏い、眼下の街を見下ろしながら峠のドリフトを華麗に決める姿。それは普通の舞踏会で見せる彼女のクールな(たたず)まいとはまた違う、熱と鋭さを秘めた奔放な踊りにも見えるという。


 今夜もまた、大広間での宴が終わりを迎えると同時に、クロエは自然な動きで会場を離れ、ほかの若者たちとともに王都の外れへ向かう。そこには山道の入り口があり、ランタンの灯りを頼りに闇の中を進むと、やがて本格的な峠道へと差し掛かるのだ。狭くうねる道幅、高低差の激しいコーナーが続くこの峠こそ、貴族たちが新たなステータスを競い合う決戦の場。夜の「ダウンヒル・バトル」が始まる。


 一方、下町のミレイ・ブラウンは、そんな夜の出来事など知る(よし)もないまま、灯りを落とした家のベッドに潜り込んでいた。明日の配達は早朝から始まるため、睡眠は大事だ。彼女にとって、峠や貴族社会というものは遠い世界の話でしかない。けれども、街の片隅では噂話が時折ささやかれていた。漆黒の馬車を駆る公爵令嬢や、王太子が密かに峠で競い合っているらしいという都市伝説のような話も、耳にした覚えがある。ミレイはそれを大げさな冗談だと思って笑い飛ばしてきたのだが、遠からずその「伝説」が、自分の未来を大きく変えるものになろうとは夢にも思っていなかった。


 こうして同じ王都の空の下、華やかな宮殿では夜会が終わり、一部の貴族たちはドレスやタキシードのまま峠へ向かっていた。クロエをはじめとする者たちは馬車を駆り、闇に閉ざされたヘアピンカーブや急斜面を滑るように下っていく。そこでは新たな階級争いが繰り広げられ、腕を上げれば上げるほど、名声や興奮を得られる刺激の場だ。


 一方で、下町に暮らすミレイはそんなことを意識することなく、ただ日常の延長で馬車を操っていた。大きく異なる二つの世界が、まるで接点のないまま同じ夜を過ごしている。しかし、それはほんの一時に過ぎないだろう。


「二人が出会わないままで終わるわけがない」


 王都の夜気が、そんな予感を秘かにはらんでいる。貴族たちにとっては舞踏会の余興、あるいは誇りをかけた決戦。それを知らぬ下町の少女にとっては夢物語のような話。だが、いずれこれらは交わり、思いもよらぬ火花を散らす瞬間が訪れる。今宵、クロエの漆黒の馬車が峠を滑り、遠く離れた下町でミレイの馬車が明日への準備に静かに横たわっている――この夜の裏側では、何かが密かに動き出そうとしていた。


 そして、王宮の最奥で淡い笑みを浮かべる王太子ライナスの姿がある。彼は公式の場では「王位継承者」として振る舞いながら、その夜には峠へと向かう「一人の走り屋」へと変貌を遂げる。若き貴族の多くは、その事実を知る者もいれば知らぬ者もいるが、ライナスの存在感は常に峠で絶対的なオーラを放っていた。


「今宵はどんな走りが見られるだろう」


 ライナスの胸は弾み、期待に満ちた瞳が闇夜の遠方を見つめる。そこへ、漆黒の馬車を操る令嬢が現れるのを、あるいは新参の血気盛んな貴族が挑戦にやってくるのを、心待ちにしているのだ。


 クロエの車輪が闇を切り裂くたびに、あるいは新たに姿を見せる者がいるたびに、この峠は変化していく。まるで夜ごとの咲き乱れる花のように、競う者たちの情熱が狂乱の彩りを生んでいくのだ。


 貴族社会を彩る豪華絢爛(ごうかけんらん)な舞踏会は幕を閉じ、闇の中にこそ本当の「舞踏会」が潜んでいる。クロエを乗せた漆黒の馬車は、今まさに峠へと向けて疾走し始めた。そのエンジンに相当する魔導の響きは低く重く、まるで胸の奥を(ふる)わすような鼓動を刻む。舞踏会の余韻を帯びたまま、彼女は夜の息吹を肌で感じながらハンドルを握る。目指す先は、華麗さと危険が紙一重に同居する場所。


 一方でミレイは、自宅の小さなベッドの中で安らかな寝息を立てている。遠い未来、彼女がこの夜の峠と深く関わるなど夢にも思わず、静かに明日の配達のための眠りにつくのだ。まだ出会うことのない二人の物語は、ここからゆっくりと動き出していく。どちらが先に一歩を踏み出し、どのように世界を知ることになるのかは、彼女たち自身も知らない。


 だが、王都の空に浮かぶ月と星は、その行く末を薄く照らしているように見えた。夜が明けるまでのわずかな時間、貴族たちの「真の舞踏会」はこれから始まろうとしている。クロエの漆黒の馬車が峠に消え、遠くから馬車の(きし)む音と魔導の(うな)りが一瞬だけ響く。それは、下町の穏やかな闇には届かない、秘密めいた轟音。けれど、やがてこの音がミレイの耳にも届き、ふたりを運命の舞台へと導くことになるかもしれない。


 深まる夜の闇は、まだその全貌を語ろうとはしない。王都は人々の静かな息づかいに包まれ、しかし峠の方角だけが熱を帯びてゆく。それが貴族にとっての新たな名誉や、あるいはスリルと快感を求めるための遊び場であることは間違いない。だが、そこには人生を変えるだけの力が潜んでいるとも、誰かが(ささや)いている。夜会から飛び出した若き貴族たちの馬車は、やがて月光の下で競り合い、華やかなドレスではなく車体の(きら)めきを披露するのだろう。


 クロエとミレイ、そしてライナス。彼らの想いと運命が交差する時が近づいている――

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