087.幸せな一時
「ふぅ、とりあえず一服するか。慌ててもどうにもならん。サバス、マリーが公爵領に行く。準備をしろ」
「はっ。ラント様」
ラントは茶会にマリーを送り出した後、公爵から届いた手紙を読み直した。そこには東の樹海に怪しい香りが漂っており、帝国の策謀も感じられると綴られている。
簡単に言えば帝国は東の魔境に何か仕掛けをし、氾濫でも起こさせ、王国の国力を下げようと言う魂胆なのであろう。
「どうしたものか。樹海と言っても広いからな」
内乱があっさりと鎮まってしまった今、次の策謀を考えたのか、それとも同時並行的に策謀を練っていたのかはわからない。だがあのルートヴィヒだ。あの男が不味いと言うのなら相当不味い。
基本的に公爵家の騎士団は精強だ。公爵領ならば数もいるだろう。それで対処しきれない可能性を示唆している。
しかもラントを名指ししている。ラントの器量を測ろうと言う魂胆なのだろう。ラントは品定めされているのは気付いていた。そしてそこではおそらく合格は貰っている。だが実際に公爵家の為に働いたわけではない。
マルグリットの伴侶として、正式に認められるチャンスであり、ルートヴィヒもラントの底を見たいのだ。故にラントに指名付きで手紙が届いたと解釈した。
「これはいかんな。コルネリウスに相談せねばならん」
ラントは紫煙を曇らせながら王城へ登城することを決めた。だが今日はコルネリウスの都合が悪いことは知っている。確かどこかへ視察へ出ているはずだ。明日には帰って来る。
ベアトリクスでも良いかと思うがこれは王太子が判断する案件だろう。次期国王として仕事を振らなければならない。
当然国王陛下にも同じ手紙は届いているだろう。王城も認知しているはずだ。だが陛下はコルネリウスよりも余程忙しい。陛下の手を煩わせるほどの問題では未だない。推測の段階でしかないからだ。
しかしラントはこの問題は放置できないと考えた。
「明日か。第四騎士団を借りるとするか。それと宮廷魔導士に魔法士団だな。魔導士が混じっていれば尚良い。魔法士団は魔物相手の経験などあるか? 第四騎士団はそれが任務だから問題ないだろうが、魔法士たちは疑問が残るな。ハンス閣下あたりに聞いてみるか」
コルネリウスには今日は会えない。だがハンスなら会えるだろう。ラントは取り敢えず登城することにした。
「ハンス閣下、お久しぶりでございます」
「ふぉっふぉっふぉ、なんじゃ。どうした畏まって。ハンスで構わんぞ」
「いえいえ、宮廷魔導士の長をしている方を呼び捨てにはできません。どこで誰が聞いているかわかりませんからね」
「良い、儂が良いと言っているのだ。誰が文句を言えようか。更に卿であれば宮廷魔導士のほとんどが認めておる。認めておらぬのは嫉妬に狂っている阿呆どものみよ。魔導士なら魔導の腕で勝負を決めねばならぬ。だと言うのにあやつらは魔導の腕比べを迫るのではなく、陰口を叩いておる。少し引き締めねばならぬな」
ハンスは厳しい顔になった。
「ところで何の用じゃ? わざわざ老骨の顔を見に来たわけではあるまい」
「魔法士のことです。魔境で戦えますか?」
ハンスは髭を撫でながら自信満々に頷いた。
「ふむ、貴族院でも魔法学院でも魔境での実習は全員経験しておる。魔物との戦いの心得も叩き込んでおる。余程の大魔境でなければ大丈夫であろう。それに魔法士資格になる為には魔境での実習も必須なのじゃ。お主はそんなこと関係なく取ったから知らぬかもしれぬが、最低でも三ツ目大熊くらいは楽に倒せんと魔法士資格は取れぬ。見習いのままじゃ」
ラントはなるほどと納得した。三ツ目大熊はそれなりに強い魔物だ。魔法士単身で倒すとなると大変だろう。
「そうでしたか、それは知りませんでした。ですが東の樹海に連れて行こうと思っているのです。長く魔境に滞在することになるかもしれません。耐えられるのか私には判断できませぬ」
「ならばヴィクトールに選ばせれば良かろう。あやつも良い経験になるじゃろうて。魔物狩りが得意な魔法士も当然おる。きちんと選抜すれば問題ない。なぁに、砲台になるだけが魔法士ではない。杖術も教えておるし、最低限の体術も仕込んでおる。野営の経験もさせておる。出来ぬ者は魔法士になれぬ。国家資格とはそういうものじゃ」
ハンスが自信満々に言った。
なるほどとラントは思った。魔法士は当然魔物相手でも活躍しなければならない。だが在野の魔法使いと違って魔法士は国家資格だ。その要件に魔物討伐の履歴や魔境での野営経験が必要だとは知らなかった。
何せラントはベアトリクスやハンスの鶴の一声で貰ってしまったのだ。知るはずがない。魔導士試験は魔法と魔術の腕を見せるだけで良かった。
ヴィクトールは北方に連れて行ったがきちんと魔物相手でも戦えていた。だがそれは宮廷魔導士だからだと思っていた。通常の魔法士は魔物相手では戦えないのではないかと懸念があったのだ。
「大丈夫じゃ、その程度のやわな鍛え方はしておらぬ」
「そうですか、安心しました」
ハンスは断言してくれた。この老人なら信頼できる。ハンスができると言うならばできるのだろう。できなければ死ぬだけだ。本人が悪い。ラントは安心し、第四騎士団にも顔を出せたが団長は居らず、会えなかった。
◇ ◇
「ふぅ、茶会も退屈なものね。お祖父様たちのことが気になって仕方がなかったわ」
「そうですか、きちんと対応していたじゃないですか」
「そんなものは慣れよ。どれだけわたくしが茶会を経験してきたと思っているの。六才の頃からお母様に仕込まれていたのよ。誰でもあれだけ仕込まれれば茶会で如才なく過ごす事など簡単なことよ」
「それはマルグリットお嬢様だからこそ言えるお言葉ですよ。どれだけ仕込まれてもできぬ者はいるのです」
「そうかしら」
マリーはできない者の気持ちはあまりわからなかった。頑張れば誰でもできるだろう、その程度の気持ちだ。何せマリーは頑張ったのだ。才能だけで生きてきた訳ではない。
淑女教育、王太子妃教育、貴族院での教育。全て努力で勝ち取ってきた。それで今のマリーがある。
母親も父親も優しかったが教育には厳しかった。公爵家で次期王太子妃を期待されていたのだ。当然だろう。下級貴族ならともかく上級貴族は基本金に困ることなどそうはない。家庭教師も幾らでも暇を持て余した貴族夫人たちがやってくれる。
「エリーも頑張ったじゃない」
「マルグリットお嬢様の側に居たかったですからね。頑張りました」
エリーも男爵家の娘であるのにマリーについていこうと必死だった。故に彼女は伯爵家の娘と言われてもおかしくないくらいの教養がある。エリーも頑張ったのだ。男爵家の娘であまり良い教育を受けていられなかったエリーですら伯爵家並の礼儀作法を覚えている。アーガス語も読み書きができる。伯爵以上の上位貴族の生まれでできないと言うのであればそれは単純に怠慢だろう。それか親の教育が悪いのだ。そういう貴族は大概悪事に手を染めていて粛清されるのが落ちだ。
「ラント、帰っているかしら。登城すると言っていたわね。でも今日はコルネリウス兄様はお忙しいはずだわ。まぁ毎日お忙しいのでしょうけれど。王太子というのも大変ね。国を背負わなければならない重圧は流石のわたくしもわからないわ」
エリーがコルネリウスを庇う。
「王太子殿下も頑張っておりますよ。凱旋の時に襲われたそうですが震えずにきちんと立ち向かっていたそうです」
「そうね、度胸さえあればなんとでもなるわ。あとは有能な家臣さえ居れば国は保てるわ。コルネリウス兄様は有能ですから安泰でしょう。帝国の策謀だけが懸念だわ。帝国はアーガス王国とエーファ王国を足したくらいには大きいですからね。エーファ王国にも王太子殿下以外にも策謀が巡らされているでしょう。ですが国王陛下はしっかりした方ですし、なんとかなるでしょう。魅了も解除されたようですし、北方はお父様とお兄様がきちんとお守りになっているわ。ラントの騎士や魔法士の鍛え方のマニュアルをお送りしたら喜んでいらしたわよ。早く帰ってこいとの督促付きでしたけれどね」
エリーは苦笑した。
「それは仕方ないでしょう。マルグリットお嬢様は本来ブロワ公爵家の娘なのですから、家族としてマルグリットお嬢様のご無事を自分の目で確かめたいという気持ちはわかりますわ」
「そうね、わたくしもお父様やお兄様には会いたいわ。でもラントが子爵ではダメね。もう少し待って貰わないと釣り合わないわ。お父様の頭に角が生えてしまうわよ」
「ふふふっ、あの公爵閣下の頭に角ですか。想像したら笑えて来てしまいました」
エリーが笑う。マリーも笑う。公爵邸に帰るとラントは既に帰っていた。
ラントを迎えるのも良いが迎えられるのも良いものだ。抱きつき、抱擁され、癒やされる。茶会も疲れない訳ではないのだ。
マリーはラントの煙管の香りを堪能しながら、今日あったことをラントに話し、ラントの話も聞いた。
それだけで幸せだ。明日からは忙しくなると聞いている。こんなゆったりした時間はなかなか取れないだろう。
ついていくとは言ったが魔境まではついていけない。公爵城で待たされることだろう。ラントとまた離れ離れになる。だがそれは仕方がない。マリーには戦う力はないのだ。
「ラント、愛しているわ。だからきっとわたくしの元へ帰って来てね」
「当たり前だ。俺を誰だと思っている。ジジイには敵わんが大概の敵は一掃できるぞ。切り札も何枚もある。単なる氾濫だろうが帝国の策謀だろうが喰い破ってくれるわ」
ラントが獰猛な笑みになる。そしてそのラントにマリーはしなだれかかった。
しばらくは忙しくなるだろう。だがラントが活躍することをマリーは嬉しく思った。