050.平和な一時と突然の
「うふふっ、ラントが居る生活はやはり楽しいですわね」
「マルグリットお嬢様、ラント様がいるといつになく輝いていますわよ。やはり恋する乙女は美しくなると言うのは本当なのかも知れません」
「あらやだ。表情に出ていたかしら」
マリーは頬に手を当て、ラントに貰った手鏡を見る。相変わらず美しい鏡だ。王妃殿下や王太子妃殿下、王女殿下たちに献上すると予想以上に褒め称えられ、感謝された。マリーに褒美まで与えられた。しかしそれはラントの功績だ。何せ作ったのがラントなのだから。
「えぇ、毎日楽しそうです。ラント様も王宮図書館に籠もらずに公爵邸に居る時間が長くなっております。王宮図書館からかなりの数の本を借りてきたみたいですけどね。山のように本が積み重なっておりました」
「そうね、毎日楽しそうに読んでいるわよね。本をベランダや執務机で読んでいるだけで絵になるので邪魔もしづらいわ」
「マルグリットお嬢様はラント様のことを本当にお好きでございますね。この前など一時間近くもラント様を見つめていらしましたよ」
「まぁっ、そんなにっ? 気付きませんでしたわ」
マリーはエリーの指摘に驚いた。
ラントの私室には豪華な執務机がある。上等な魔物革の椅子に座り、ラントがだらしなく机の上に足を投げ出して本を読んでいるだけなのに、まるで絵画の世界に入り込んだような気分にさせられるのだ。
この美しい世界を邪魔してはいけない。そう思わせられてしまう雰囲気がある。つい見惚れて用事を忘れそうになったことが何回もあった。
「ラント様は相当な愛読家ですね。更に雑食なようです。歴史書に英雄譚、恋愛物に魔導書、魔術書、魔法書、この前は吟遊詩人の詩集まで読んでおられましたよ」
「あら、そんなに。魔導書や魔法書などはわかるのですけれど恋愛物や詩集は意外ですわね。というかラントは語られる側ですわ。歴史書に必ず名を残すでしょう。既に王都ではラントの活躍を歌う吟遊詩人たちが現れていると聞きますわ。歌劇も作られると聞きました。ラントをモデルとした英雄譚が溢れ出ることでしょう。今度吟遊詩人を呼び出して見ようかしら」
「ふふふっ、ラント様と一緒に歌劇を見に行っては如何ですか」
「うふっ、面白そうですわね」
ラントが帰ってきて既に一月が経った。王城もコルネリウスの大勝利に湧いたが既に落ち着き、茶会や夜会の数も減った。そろそろ冬も本格化している。雪もちらついてきている。ラントの噂話はどこに行っても聞こえてくる。それほど鳴り響いているのだ。令嬢たちとお茶会をしてもラントのことばかり聞かれるので参ってしまう。
ラントも騎士団や魔法士団、近衛騎士団など引っ張りだこで登城すると必ず声を掛けられるらしい。それがイヤで王宮図書館から大量に本を持ち込んで読みふけっている。
公爵家の図書室も見事な物だがラントはすでに読破してしまったと聞いて驚いた。何せ十メル四方の部屋の棚が全て本で埋め尽くされているのだ。マリーでさえそんなに早く読むことはできない。
「ラント様は王宮図書館の本を全部読み漁るおつもりのようですよ」
「なんですって。何十万冊あると思っているの」
「ですが一冊をほんの数十分で読んでしまわれるんです。どうやるんですかと聞いたらコツがあるのだと教えてもらいましたが、全く理解できませんでした。それでいて読んだ本は全て諳んじられると言うのだから驚きです。ラント様の頭の中がどうなっているのか本当に謎だらけです」
「そうね、ラントなら本当にやってしまいそうだわ」
マリーもラントの頭の中がどうなっているか確認してみたいと思った。それほどに違うのだ。
「でもフランツェスカ様が寂しそうにしているそうですわよ。茶会にまた誘ってみては如何ですか? コルネリウス殿下がまだお戻りになられませんから」
「そうね、でももうランドバルト市は落ちたと聞いたわ。あっという間だったわね。戦後処理を終えて帰りを考えて後どのくらいかしら。それでも十分に早いわ。ラントの献策のおかげね」
「えぇ、ランドバルト侯爵家の支配地域を抜ける為にこそこそしていたのが嘘みたいです。今ならランドバルト市でも堂々と歩けますよ」
「ふふっ、それもいいわね。アークアも良かったですけれどランドバルト市も素敵な景観の街ですもの。あんな状況でなければ寄りたかったくらいですわ」
そうやって話しているとコンコンコンとノックがされた。入室を許可するとラントだった。読んでいた本が終わったのだろう。一冊読むとラントはマリーの部屋を訪ねてくれるようになった。嬉しいことだ。マリーの会いたいという気持ちが通じたような気分になる。
「マリー、お茶でもしないか。それかたまには買い物にでも出よう。欲しい素材があるんだ」
「行きますっ!」
マリーはガタンと椅子から立ち上がった。
「おいおい、そんながっつくな。毎日会っているだろう」
「ですがラントからのデートのお誘いですわよ。気合を入れなくては」
「買い物だって言っているだろう。デートじゃない。エリーも騎士も居るだろう。まぁいい。支度は早くしてくれよ」
「わかりましたわっ」
ラントを部屋から追い出すと侍女たちが大急ぎで支度を済ませる。ラントは待たせると機嫌が悪くなるのだ。
ただマリーも普段からしっかりと化粧をし、いつラントと出会っても良いように準備は整っている。
外出用のドレスに外套を羽織、マフラーを巻く。それで準備は完了だ。姿見を見る。ラントにふさわしい格好をしているだろうか。エリーが太鼓判を押してくれる。
「おまたせしたかしら」
「いや、そんなことはないな。今日も美しいな、マリー」
「あら、ラントも凛々しくてよ。ローブではなく外套を羽織ったラントも良いですわね。その外套、珍しい形ですわね。何と言う外套ですの」
「お前、俺なら何でも良いんじゃないか。マリーと初めて会った時などハンター姿丸出しだったぞ。インバネスコートと言うんだ。自作だ。貴族が見ても悪くないように作ってみた。」
「見ない形ですけれど素敵ですわね……ラントなら何でもいい。そうかも知れませんわね。ラントのハンターの姿も格好良かったと思いますわ。わたくしの知るハンターと違って清潔感があったからでしょうか」
「常に〈洗浄〉は掛けているからな。そうでないと匂いで魔物に襲われるんだ。トール、出てきていいぞ」
「ワン」
「まぁっ、トール!」
エリーがトールの登場に声が高くなる。エリーはトール大好きっ娘なのだ。
「さぁ行きましょう。馬車も騎士たちも準備万端ですわ」
「それは凄いな。声を掛けて十分だぞ。流石公爵家だ。仕事が早い。では行こうか」
玄関を出ると公爵家の家紋の付いた箱馬車にイリスとアレックスが繋がれている。そこにラントとマリー、エリーが乗りこむ。ラントは紳士に手を取ってくれた。御者が手綱を持ち、ゆっくりと馬車が動き出す。
「う~ん、板バネの質が悪いな。少し改良するか」
「そうですの。わたくしはわかりませんわ。公爵家の馬車ですから王家の馬車にも劣りませんわよ。その板バネを改良するとどうなるんですの」
「簡単に言うと馬車の揺れが少なくなる」
マリーはがばっとラントに迫った。
「是非作ってくださいまし。むしろ王家に献上すべき技術ですわっ」
「慌てるな。誰も作らないとは言っていない。体が当たっているぞ」
王都はまだ良い。石畳で舗装されているからだ。揺れると言ってもそれほどのことではない。貴族街は特に綺麗に舗装されている。
だが街道はどうか。管理している領主にもよるがやはりガタつくのだ。クッションをいっぱいにしないと尻が痛くて仕方がない。それをラントは改良できると言う。誰もが求める夢の馬車だ。
イリスは大人しいバトルホースで殆ど揺れがなかった。乗馬も嗜みでしかないマリーの言う事も聞いてくれる良い馬だ。どちらかというとラントの言う事を聞いていただけの様に思える。
だがラントはマリーたちの体調を完全に管理し、強行軍だったと言うのにマリーたちは苦痛に感じることはなかった。幾度か襲われたのが昔のことのようだ。
「明日にでも商人を呼びつけましょう。どのような商人を呼べば良いのかしら」
「材木商だな。加工と改造は俺がやる。というか、図面を王家に売るか。俺が全て作るのは面倒だ」
「でも試作品は必要ですわ。公爵家の馬車を改良して、それを王家に持ち込んでみては如何かしら」
「お前、何がなんでもやらせる気だな。まぁいい。確かに試作品は必要だ。それに公爵家の馬車なら元の作りが良い。改造も容易い」
「では明日材木商を呼びましょう」
「いや、使う木は決まっている。この国にもある。王都にも当然あるだろう。だから材木商に指定した商品を運び込ませろ。念の為大量にな」
「わかりましたわ」
馬車はゆっくりと進む。貴族街を出て高級商店街だ。公爵家の家紋のついている馬車を襲うバカはどこにも居ない。高級商店街は王都守護、第一騎士団騎士が常に巡回していて、王都でも指折りの治安の良さだ。
「それで、何を買うんですの」
「いや、魔物素材の何があるか見たいだけだ。良いものがあれば買う。マリーのおかげで財布が重たいし、王都は魔境が遠いから自分で狩りに出るわけにもいかんしな。買うしかない」
「それは、申し訳有りませんわ」
「もう謝るな。許している。それに行きたければ勝手に行くさ。たまには魔境で暴れたい気分の時もある。トールもたまには狩りをしたいだろう」
「そうですわね。でも出ていく時は必ずどのくらいで帰るのか教えてくださいね。それに必ずわたくしの元へ帰って来るんですのよ」
「わかったわかった。腕を絡めるな。胸を当てるな。はしたないぞ」
マリーはニヤリと笑った。エリーはトールを愛でている。だがこっそりとマリーに視線で合図を送ってくれていた。ここには三人以外誰も居ない。目的の店まではまだ時間がある。遮音の結界も張られている。もっと押せと言う合図だ。
「当てているんですわ。ラントなら触っても宜しくてよ」
「結婚前の令嬢が何を言っている。襲われたらどうする。男は滾ったら止まらんぞ」
「それならラントに責任を取って貰いますわ」
「むっ、それは嵌まったら抜け出せそうにない罠だな。底なし沼のようだ」
「まぁ、ラントったら、わたくしを重い女のように言わないでくださいまし」
マリーは頬を膨らませて怒った。だが心の中では怒ってなどいない。ラントとエリー、馬車の中で三人きりだというのが嬉しいのだ。広い馬車だがマリーはラントの隣に座っている。そして体をくっつけ合っている。密着しても全くおかしくない。勇気を出して腕を絡めて見たがラントには軽くスルーされてしまった。
「いや、十分湿っぽいだろ。胸を当てて襲ったら責任を取らせるなんて美人局とそう変わらんぞ。貴族令嬢が取る手段じゃない」
「そうでないとラントはなかなか手を出してくれませんもの」
「仕方ないな、少しだけだぞ」
マリーは胸を触られるのかと身構えた。鎧を着せて貰った時以来、ラントに体を触られた事はない。殿方に体を触られたのもあの時が初めてだった。その時もいやらしい動きは一つもなかった。
しかしマリーの覚悟は裏切られた。良い意味で。
ラントはこっそりと幻影の腕輪を外した。金銀妖眼の美しい金色と翠色の瞳。サラサラとして艶のある銀髪。どこぞの国の王子と言われてもおかしくない美しさだ。
突然に本来のラントの美しい姿を見せられてエリーさえ真っ赤になってトールを愛でることを止め、両手を口に当ててマリーたちを見つめている。
ラントの妖しい瞳が光る。これは悪いことを考えているラントの癖だ。
ラントの左手が腰に回る。ぐいとラントと体が密着した。マリーの大きな胸がラントの胸板に当たって形が変わっている。右手がマリーの顎を持ち上げる。ラントの整った顔が近づいてくる。
自然とマリーは目を瞑っていた。唇が重なる。優しいキスだ。初めてのキスだった。それから何回も優しくキスされる。エリーが真っ赤な顔で見つめている。だがそれすら気にならない。ラントの姿しかマリーの瞳には映っていなかった。
「んんっ」
そうかと思うと唇を割って舌が入ってきた。巧みな舌使いで蕩けそうになる。自然と舌が絡まり合う。マリーの思考はショート寸前だ。
濃密なキスの時間はどれほどだっただろうか。数十秒? いや、数十分? マリーにはわからなかった。だが強烈なキスの快感を一瞬で覚え込まされた。
「ラント、責任を取って貰いますわよ」
「なんでだよっ」
しばらくしてようやく現実に戻ってきたマリーは、真っ赤な顔でラントに文句を言った。既に馬車は目的地につき、マリーたちが出てくるのを騎士たちが待っていた。