137.白旗
(やりすぎたか? まぁもうやってしまったものは仕方がない。それにマリーが笑っている。後は丸投げしてもいいだろう)
ラントはドン引きした公爵家の面々を見ながら静かに出された紅茶に手を伸ばした。アーガス王国の物とは香りが違う。茶菓子の風味も違う。
結局エーファ王国にはマリーを助けたせいで訪れていないのだ。文化も風習も本で調べはしたがこういうところでも違いが出る。
「お父様、お兄様、ラントを怒らせない方が宜しくてよ。公爵城の結界ですら単独で破ってしまうでしょう」
「まさかっ、あれを張るのにどれだけの魔法士が関わっていると思っている! たかが一魔導士に破れる筈がない! 宮廷魔導士の長ですら不可能だ!」
ジョルジュがマリーの言葉に反論するがマリーは微笑んでいるだけだ。
上級魔法を何十発か打ち込めば公爵城の結界も一時的に不能になるだろう。ホーエンザルツブルク要塞でラントがやったように。
公爵城の結界を破ろうと思えば超級の魔法が何発も必要になるだろう。魔法薬も必要になる。だがそれだけだ。
ホーエンザルツブルク要塞の時は、魔法結界はそれほど大した物ではなかった。なにせちゃんと管理されていなかった遺跡なのだ。
北方要塞のようにきちんと今も整備されている要塞を落とそうと思えば鉄壁だっただろうが、そうではない。急拵えで修繕しただけだ。ラントの考えた電撃作戦が成功した所以だ。
同様に公爵城の結界も素晴らしい物だ。城や要塞を見るとついどうやって落とそうか考えてしまう。こればかりは性だ。治しようがない。
「そんなあり得ない仮定を話し合っても仕方ないでしょう。私に公爵家を攻撃する意思はありませんし、そんな命令も受けていません。ご安心を」
「くっ、あれほどの威圧をしておいて良くいいおるわ」
「マリーはエーファ王国から経緯はどうあれ捨てられたのです。帰ってきただけ有り難いでしょう。それとも見逃し、盗賊の振りをした襲撃者たちに襲われ、凌辱され、魔の森に捨てられていた方が良かったですか?」
マルタンは言葉が継げなかった。
当然だ。ラントがマリーを救わなければ二度と会うことすら叶わなかったことを忘れているのだろうか。喉元を過ぎればと言うが、鳥よりも忘れるのが早いのではないか。
「そうですわ、わたくしの命はラントに救われたのです。故にわたくしはラントにこの命を預ける事に致しました。おわかりになって?」
追撃でマリーが口を開く。それに答えられる者は居なかった。
これで漸く決着だろう。マリーが微笑んでいるのがわかる。公爵家の者たちには悪いがこれはもう決定事項だ。事後承諾を得ているに過ぎない。
別にアーガス王国で勝手に結婚式でも何でも挙げてしまっても良かったのだ。ただマリーの実家との縁を切らせたくなかった。マリーは実家の家族を大切にしているのが話を聞いているだけでもわかったからだ。
そして家族たちもマリーの身を大切に思っている。駆け落ち同然に結婚するなどは最後の手段だ。きちんと認めさせ、祝福された方が良いに決まっている。
「もう良い。マルグリットの気持ちはわかった。クレットガウ伯爵の気持ちもな。今更だ。確かにマルグリットの命が救われただけで感謝せねばならぬ。我らデボワ家はその恩すら返せて居ないと言うのにエーファ王国に蔓延していた魅了の解除まで手伝ってもらっている。認めるしかなかろう」
ジョルジュが白旗を上げた。これで決定だ。ラントはニヤリと笑った。
「最初からそう言ってくだされば良いのです。貴族の体面など考えるからややこしくなるのですわ。わたくしは家族の顔が見たくて帰ってきたのですよ。そして未来の旦那様をお披露目したくて来たのです」
「公爵家が貴族の体面を考えずにいられぬものか。そこも十分わかっていながらも言っているのであろう。マルグリット。強くなったな」
「えぇ、全てラントのお陰ですわ」
ジョルジュはふぅと小さくため息をついた。マルタンやクラウスは何も言わない。なにせ当主が決定したのだ。文句が有っても口には出せないだろう。
「各貴族家のエーファ王家への不信はまだ燻っている。幾ら帝国が魔導大国だからと言って好きにさせる訳にはいかん。其の為にブロワ公爵家があり、王弟殿下も軍事力の強化に力を入れている。今上陛下はあまりそちらには向いていないからな。クレットガウ伯爵、本当に疫病をなんとか出来ると言うのか?」
「さぁ、出来るか出来ないかはやってみないとわかりません。ですが教会や公爵家が出来ぬ事も私ならできるかも知れません。宮廷錬金術師の役職まで与えられているのです。できる限りはお力になりましょう。少なくとも原因の解明と解決方法くらいは提示できるでしょう。疫病をおさめるには今やっている方法で問題はありません。しかし根本的な解決には程遠い。自然に収束するには時間が掛かります。そして魔法薬などで治すにしても大量の素材が必要です。それがエーファ王国で手に入るかどうか、そこが問題ですね」
ジョルジュはマリーとの婚姻の話から逸らした。諦め顔だ。だが疫病の蔓延は北方を任されているブロワ公爵家としては喫緊の課題だ。
ラントは帝国の一手だと言い切ったがそうとも限らない。偶然が重なることなどは平気であるのだ。
(とりあえず認めさせた。それで良い。十分な成果だ。多少俺の印象は悪くなってしまっただろうが、そのくらいはマリーが貰えるのならば許容範囲だ。どうせ帝国が攻めてくる。其の為にはエーファ王国も強くあって貰わねばならん。特に北方の最前線とも言えるデボワ公爵家にはな)
ラントはようやく話が纏まりそうになったことでホッと一息ついた。
◇ ◇
「公爵領や北方の領は良い。北の要塞が酷い。そちらを優先してくれぬか」
「構いませんが、まずは公爵領の状態を見てからに致しましょう。どちらも同じ疫病。どこかで解決の糸口を見つければ連鎖的に収束するでしょう。疫病とはそういう物です」
「そうだな」
セレスティーナはラントとジョルジュの話し合いを静かに聞いていた。
マリーも黙って紅茶を飲んでいる。口を挟む気はないようだ。
(この方がアーガス王国の救国の英雄、そして未来の義兄様? 先ほどの威圧は恐ろしかったですが、ちゃんと見れば風格もあり、魔力量も恐ろしいほどある事がわかりました。敵に回せば恐ろしいですが、味方にすれば頼もしく思える事でしょう。私としてはマルグリットお姉様が帰ってきただけで嬉しいのですが、お父様やお兄様たちにはそれだけではダメなのですね。貴族家の当主と言うのは難しい物ですわ)
「まぁまずは今日くらい家族の時間を取っては如何ですか。マクシミリアン三世陛下からの親書も届いておりますが、本日の本来の目的は、マリーをご家族に再会させるのが私の考えていた予定です。マリーが早々に爆弾を投下したようなのでああいう次第になってしまいましたが、今日くらいは再会を喜び、積もる話でもしたら如何ですか。私はちょっと公爵領の疫病患者を隔離している場所を見て行きたいと思います」
「そうだな。私もそのつもりであった。マルグリットがあんなことを言い出さなければな」
「とりあえず部外者は出ていきましょう。改めて、再会を喜んでください」
父親のジョルジュのこんな顔は初めて見たと思った。
ラントは席を立ち、従者たちを連れて部屋を出ていく。誰も止める者は居なかった。
クラウスがマリーに向き合う。
「マルグリット、アレに惚れたのかい? 苦労するよ」
「わかっていますわ。ですがクラウスお兄様はラントを見縊ってらしてよ。本来のラントはあんな物ではありませんわ」
「報告で聞くのと本物を見るのは全く違うな。敵う気がせん。お前たちもそうしょげるな。あれこそがアーガス王国を救った英雄の姿だ。目標にするのも良いが足元を見て地道に訓練を重ねろ。お前たちの訓練方法を伝授したのもクレットガウ伯爵だぞ」
クラウスがマリーに呆れたように言うがマリーは楽しそうに微笑んでいた。これほど楽しそうなマリーを見るのはそうそうない。
そしてクラウスは騎士たちや魔法士たちに忠告をする。ラントの実力の程はわからないが、主君たちを危機に晒された彼らの気持ちは幾ばくだろう。セレスティーヌにはわからなかった。
「さぁ、ラントもそう言ってくれたのですし再会を喜び合いましょう。この日をわたくしはずっと待ち望んでいたことですのよ」
「私たちも待ち望んでいたさ。思っていたよりも遅くなったがな。なぜすぐ帰って来なかった、マルグリット。やろうと思えばいくらでもできたであろう」
マリーはジョルジュの質問に少し考える風に間を置いた。
「一つはベアトリクス叔母様やディートリンデなどとの交流がありますわ。あれほどゆっくりとアーガス王国に滞在することはありませんでしたし、ランベルク公爵邸を貸して頂けました。そしてルートヴィヒお祖父様やあちらの親類とも交友を深めたかったですわ。なによりエーファ王国への不信がありますわ。即座にエーファ王国に帰っても良いことなどはないだろうと思いましたの。そう思いませんこと? 実際王家はわたくしを殺しかけた癖に第二王子殿下の婚約者に据えようとしたのでしょう? ラントの存在がなくてもあり得ない選択肢ですのよ。セレスティーヌを出す事もお控え為されたらどうかしら。側室の娘などを出してブロワ家の怒りを見せて置いた方がよろしいと思いますわ」
「くっ、痛い所をつきおる」
マリーは最後少し怒りながら言う。マルタンが苦い顔をする。
ジョルジュが答えた。
「そうだな。私たちとしても王家との関係は修繕せねばならぬと考えていた。其の為にはマルグリットと第二王子殿下の婚姻が最良であった。……帝国の脅威さえなければな、それほど重視することもないのだが、今はそういう時代ではない」
「えぇ、このような時代にはラントのような英雄が必要とされますわ。それにラントはあの時点では何の爵位も持っていませんでした。それで皆が納得できて? 後二、三年は掛かると思って居ましたのですけれど、わたくしの予想を大幅に超えてラントは伯爵位を自力でもぎ取ってしまいましたわ。騎士爵でも子爵でもわたくしは構わなかったのですけれどね。ふふふっ」
マリーはラントを想っているのか妖艶に微笑んだ。見たことのない笑みだと思った。姉はラントと言う男を知って変わったのだ。
だがセレスティーヌに向けてくれる笑みは変わらない。優しいマリーのままだ。セレスティーヌにとってはそれで十分だ。マリーの為ならば王家にも嫁ごう。そう思えるほどにはセレスティーヌはマリーの事を思っていた。