121.馬車の中で
「それでは私たちはこれで失礼します。公爵城では過分なおもてなし、ありがとうございました」
「何、私の頼みを聞いてくれたのだ。それにマルグリットの命を救ってくれただけでランベルト家は卿に恩がある。父もそなたの事を認めていたぞ。詳しくは秘密だと明かしてくれないが、相当な功を立てたそうではないか。私たちが王都に行くこともあるだろう。そしてその時子爵は伯爵になっているだろう。その時はまた宜しく頼む。ヘルムートで良い。今後も両家で共に手を取り合って行きたいものだ」
ラントが挨拶をするとヘルムートが手を差し出してくる。ラントはその手を取り、ぎゅっと握る。剣や槍を握る手だ。
生半可な修練ではこの手にはならない。ヘルムートと剣を交える機会はなかったが、騎士たちを鍛える際、魔法士たちを鍛える際、ヘルムートは忙しいだろうに常に見に来ていた。
やはり彼もルートヴィヒの子なのだ。表向きは小さな獣も殺さぬ顔をしていながら、しっかりと鍛え上げている。魔力も洗練されている。
「マルグリット、お前まで王都に帰ってしまうのは寂しいことだ。だがまた会える。幼子たちは懐いていたし、従姉妹たちなどはマルグリットに色々と刺激を受けたようだ。貴族令嬢としての美しさや教養の深さ、そして本気で魔法を練習する姿にあいつらも本気になっていたぞ。分家の者たちも流石マルグリットだと感心していたほどだ」
「あら、いやだ。伯父様。わたくしも寂しいですわ。ですがわたくしはそろそろエーファ王国にも顔を出さねばなりません。お父様やお兄様が首を長くして待っておりますわ」
ヘルムートはマリーの言葉に頷き、続けた。
「そうだな。ブロワ公爵家の方々はマルグリットの無事を知り、当然その姿を見たいと願っていることだろう。だが北方守護を任されているのだ。アーガス王国に来ることなど難しい。宰相閣下やコルネリウス殿下などには多くの手紙が届いていることと聞いた。あちらでも元気でやってくれ。そしてまた公爵城に顔を出してくれ。ランベルト家一同、皆も待っているぞ」
「はい、また必ず訪います。その時はどうぞ宜しくお願いします」
ラントたちはランベルク市を発った。当然ヒューバートたち第四騎士団、ヴィクトールたち魔法士団も一緒にだ。行きと同じくマリーの乗った馬車は王都の公爵家の騎士たちに守られている。
(ふぅ、なんだかんだで色々とあったな。むしろありすぎた。帝国め、一体どこまでやるつもりだ?)
ラントは帰りの馬車の中でマリーやエリーの相手をしながら振り返っていた。大樹海の中で蠱毒を作り、オーガキングやアラクネクイーンの群れまで作ったのだ。
ベヒーモスやブラックヴァイパーたちは彼らを追い、樹海に道ができるほど大きくその場所を動いていた。エルフたちも怒っていた。エルフを敵に回しても構わないとばかりの姿勢だ。
ただ彼らは少しやりすぎた。本当にエルフを敵に回してしまった。
リリアナの口から北にあるアウグスト帝国の名はエルフたちの中で広まるだろう。
エルフたちは人族が帝国の者たちであるのかアーガス王国の者たちであるのか判別はつかないだろうが、人族全体の印象は確実に悪くなっている。
(過激派エルフたちがアーガス王国を敵視しなければ良いのだが)
ラントの心配はそれだ。リリアナは信用しても良いと思った。だが人族を嫌っている過激な思想を持つエルフたちはアーガス王国の人族をより敵視するようになる。
大樹海に接する街は多い。ハンターや騎士たちは大樹海に入る事もある。特に公爵騎士団や第四騎士団だ。ラントは彼らと親しくしている。彼らが樹海でエルフたちと出会った瞬間、問答無用で殺される所など想像したくはなかった。だがあり得る話だ。
死は身近にあり、友人知人が死ぬことなど日常茶飯事の国に居た。全く厄介なことだとラントはため息をつきたくなった。
◇ ◇
「うふふっ」
「どうしたマリー。嬉しそうだな」
「いえ、ラントとこうしてまた王都へ帰れる。それが嬉しいのです」
マリーは馬車の中でくすくすと笑っていた。だがラントの表情は晴れない。いつも自信満々だと言うのにどうしたことだろうかと首をかしげた。
「そうか、俺は少し疲れた。あれほど働く気はなかったのだがな。ランベルク公爵閣下の勘も馬鹿に出来ぬものだ。切り札も何枚も切らされた。本当に樹海の中は大きな異変があった。大氾濫になり、樹海に隣接している都市が全て壊されてもおかしくはなかった。なんとか小さく氾濫を収められてホッとしている」
「それほどですか」
マリーが問うとラントは真剣な表情で答える。その瞳に一筋の嘘も混じっていなかった。
「それほどだ。紙一重だな。もう少し遅ければかなり状況は悪くなっていた。今でも多くの人が死んでいる。顔見知りや俺が鍛えた者たちが死ぬのは寝覚めが悪いな。だからこそ拠点を転々と変えていたと言うのに」
「それは、申し訳ありません」
マリーが頭を下げるとラントはぼりぼりと頭をかいた。不満そうだ。
「マリーのせいじゃない。俺の意思で俺は選び、マリーを選んだんだ。へこたれるな。マリーがそこで謝っても何にもならん。それに結果的に多くの死者が減ったのだ。むしろ誇れ。あそこで俺とマリーが出会ったのはどこぞの神の采配だろう。そうでないと説明がつかん」
マリーはそう言われて少しホッとした。そして確かにあの決定的な場面でラントが救いに来てくれたのはマリーを愛してくれている神の采配であろうと思う。もうほんの少し遅ければマリーは自身の命を断っていた。エリーも盗賊たちに玩具にされていたに違いない。もしくは共に死んでいたか。
ラントの言う言葉が本当であれば、マリーたちは魔の森に捨てられようとしていた。それも魅了された王太子殿下の命令であれば、騎士たちは疑問に思いながらも実行したはずだ。あの時点のマリーたちに魔の森の浅い層すら突破することはできない。まさに間一髪であったのだ。
◇ ◇
「参ったな。そんな表情をするな」
「でもわたくしがわたくしの欲望の為に、ラントを表舞台に立たせたのですわ。その責任はあると思うのです。そしてそのラントが苦しんでいる姿を見るのは耐えられません」
「エルフの姫君は事故だ。そして氾濫は帝国の謀略だ。俺が居なければ酷い現状になっていた。間接的にマリーが解決したも同然だ。俺は表舞台に立つつもりはなかったがな。だがもう俺の名は知れ渡ってしまった。それももう諦めている。こうなったら貴族として栄達し、マリーを娶る。幸せにする。約束しよう」
ラントはマリーの表情が陰ったのを見て失敗したなと思った。そんな表情をさせるつもりではなかったのだ。
だがラントとて万能ではない。ジジイの高みには未だ辿り着いていないと断言できる。ラントはジジイを知るからこそ、自身はまだまだだと思う気持ちが強かった。
自分を最強だと思えたらどんなに幸せだろうと思う。どんな謀略すら力で解決し、帝国の野心を挫けたらと思わない日々はない。
だがラントの手はそれほど広くはない。もどかしい限りだ。流石に帝国に一人で乗り込むほど馬鹿ではない。
ラントの実力は本物だ。実際ほとんどの人間は相手にならない。それだけの試練を、死線を潜り抜けてきたからだ。
事実アーガス王国で本気になったラントに敵う騎士や魔導士はほとんど居ないだろう。
まだ他の貴族家を全て知っている訳ではないが、騎士団程度蹂躙できるだけの手札は揃えている。アルとイル。トールにシヴァ。そして神気。隠している魔剣や魔法具など様々な手札を使えば王城すら落とせるだろう。
今も魔力を纏い、様々な属性に変化させて魔法の練度を上げている。
しかしこの鍛錬方法はマリーにはまだ早い。何事も段階と言うものがある。
(マリーはしっかりと育っている。まさか爆裂魔法を覚えるとは思わなかった。〈水刃〉もしっかりと使えていたし、〈氷壁〉や〈氷盾〉は使い方も覚えていた。これほど育つとは思っても見なかった。魔力は高いのに勿体ないと思っていた。マリーを本格的に鍛えれば魔導士にすら成れるな。あのベアトリクス王妃殿下の姪なのだ。素質はある)
マリーはしっかりと段階を踏んですくすくと育っている。むしろラントの思うよりも早いくらいだ。
マリーは天才ではない。だが豊富な魔力と本人の真面目さ、そしてラントへ想いで必死でやっているのがわかる。エリーも戦闘侍女への道を進むそうだ。障壁なども使えるようになっていた。彼女も頑張っている。
その思いに応えないラントではない。マリーは必ず守る。アーガス王国ごとだ。
アーガス王国にはかなり長くいた。愛着もある。
王族や側近たち、騎士団長たち、元帥閣下、公爵閣下、侯爵閣下、ハンスや宮廷魔導士たち。既に情が湧いている。気持ちの良い男たちばかりだ。もちろん女も良い女が揃っている。不満はない。
マリーのおかげでこの世界を楽しんでいる。ラントに迫る俊英も居る。きちんと育てればヴィクトールなどはハンスと同様に歴史に名を残すだろう。
ヒューバートとも気が合う。ウルリヒなどはなかなか厄介な相手ではあるが嫌いではない。
(身につけた自重を捨てるべきか。それほど切迫している。皇帝暗殺か、考えねば成らぬな。帝国の臣民には悪いと思うが、俺は俺の道を行く。そしてその道はマリーが切り拓いたものだ。恋は盲目と言うが俺も視野が狭くなっている。いかんな、視野は広く、志は高く、そしてジジイのように高みを目指すのだ)
いずれジジイに会った時にこれほど育つとは思わなんだと驚かせねばならない。しかしラントは未だその域にない。鍛錬あるのみだ。
「前を向け。胸を張れ。アーガス王国とエーファ王国の危機に神は俺たちを出会わせた。それはつまり神の意思と言うことだ。だがそれとこれとは別だ。俺は俺の意思でアーガス王国もエーファ王国も共に守ろう。マリーの祖国と親族が居るのだ。帝国の部隊は思っていたよりも遥かに精強だが勝てない事はない。騎士団も魔法士たちも育っている。すぐには結果はでないだろうが、あと数年は余裕がある。なければその余裕を俺が作る。俺を信じろ。マリーが惚れた男だぞ。愛する男を信じずして誰を信じると言うんだ。其の為にお前は他の女を俺に宛てがい、王族を使い、絡め取ったのだろう。だが責任などと言うな。俺はわかっていてマリーの策に乗ったんだ。逃げるのなら即座に逃げ出しているし、今すぐにでも逃げようと思えば逃げられる。だが逃げん。俺がなんとかしてやる。だから笑え。そんな表情をするな」
「はい、わかりました」
マリーは気丈に顔を上げ、瞳に力が戻った。傾国と言われるような笑みをマリーは浮かべる。その表情が見られればラントの努力など何の事はない。ラントはマリーの笑顔に何度も救われているのだ。
「ラント様は本当に女泣かせですね」
エリーがちゃかしてくるが気にならない。この女も油断ならない。だがそこが気に入っている。
忠誠心が行き過ぎてやりすぎることもあるが、それはマリーを愛する故だ。その程度飲み込めないラントではない。何せ貞操までラントに捧げたのだ。
貴族の貞操はそう軽い物ではない。少なくともラントはそう思っているし、マリーもエリーも同じ気持ちだろう。だからこそラントはマリーに手を出さず、しかし想いには応えるつもりでいる。
王城に帰り、コルネリウスに報告すれば伯爵位を頂ける可能性は高い。そしてエーファ王国にマリーを送り届ける。同盟国で最短で伯爵位を得た俊英なのだ。マリーの実家も無下にはしないだろう。
(マリーの父と兄か。弟も居ると聞く。どんな男か楽しみだな)
ブロワ公爵がどのような男か知らないが、武人肌で有能な男だと言う。兄も優秀なようだ。
帝国との境である北の国境を任されているのだ。それだけの信用がなければ即座に別の公爵などに北の国境を任されるだろう。
マリーの教育具合を見ればどれほどの家かは想像ができる。後はラントが鍛え直し、アーガス王国の北の国境のようにラントが力を使い、強化すれば良いだけだ。
アーガス王国でやるべきことは大概為した。後はコルネリウスやマクシミリアン三世陛下が対策を練り、帝国の侵略を防ぐだけだ。
そればかりはラントが本気を出したとしてもどうにもならない。極級魔法を練習せねばならない。パスカヴィルの猟犬は精鋭揃いだった。よくぞアレほどの部隊を作り上げたものだと感心するばかりだ。皇帝就任の影の立役者だと言われている。
(エーファ王国も鍛え直さねばならん。今の王は覇気がないと聞く。平時であれば良いのだろうが今は乱世に入り込んでいる。今の王ではこの戦いは厳しい物になるだろう。だがそれをわかっていて、公爵や辺境伯などは危機感を募らせているだろうな)
エーファ王国に関してはマリーの追放劇と魅了が広がっていたのをなんとかしたに過ぎない。王宮は汚染されていたようだがまだ他にも幾つもの謀略が蔓延っていることなのは簡単に予想がつく。
過去の版図を取り戻したいと言うだけの為に帝国にアーガス王国を明け渡す訳にも行かないし、マリーの祖国であるエーファ王国も守らなければならない。
手が幾らあっても足らない。自分と同等の部下が十人も居れば良いと何度思った事か。たった半年と少しなのに既にラントはずぶずぶだ。
マリーの魅力はそれほど高い。美しさだけではない。凛として芯のある女だ。これほどの女はそうは転がっては居ない。他の貴種とも情を交わしたし、良い女も多数いた。だがマリーには敵わない。
(兄上はどうしているだろうか。流石に情報が届かないからな。だがなんとかなっているだろう。侯爵家にでもなっているかも知れない。王は有能ではあったが野心溢れる男だった。クレットガウ家をこき使っていることだろうな。兄上は王を弑逆して王になっていてもおかしくない。それだけの遺産を残してきた)
祖国はどうなっているか知らないが兄に秘策を幾つも残したし、テール国王も脅して置いたのでクレットガウ家は安泰だろう。
ラントの子も幾人も居る。ラントの残した育て方マニュアルを実践していれば、かなり強い魔法剣士の少年少女が出来上がっているだろう。後五年もすればミニラントの完成だ。
ラントには劣るだろうが、北方諸国の騎士や魔法士などに負けるような教育は施さないのは容易に想像できる。
それだけクレットガウ家は切迫していたのだ。ラントがやりすぎてテール包囲網などと言う同盟が組まれたほどだ。しかしそれも食い破った。テールの周辺国家は今や壊滅の危機に瀕している。
王が代わり、今も大きく躍進しているし、ラントの兄は王国内での発言力も上がっているだろう。
いつか祖国に帰ってマリーを伴侶として兄に紹介しよう。兄ももう妻も子も居る。北の方向を向き、甥や姪に会いたいと思った。