118.ラントの帰還
「マリー、帰ったぞ」
「お帰りなさい、ラント。お待ちしていましたわ」
「おい、まだ身体を洗っていない。もう少し待てないのか」
「待てませんわ。お疲れ様です。ラント。どうせまた偉業を打ち立てたのでしょう。お祖父様からの手紙にその一端が書いてありましたわ」
ラントは苦笑した。マリーはラントに抱きついたまま離れない。
ルートヴィヒは本気でラントを伯爵に推すらしい。そしてルートヴィヒが熱心に推せば必ずそれは叶えられるだろう。
(伯爵か。ありえない速さの出世だ。帝国と言う敵が居なければ俺は騎士爵のまま終わっていただろうな。そうだったらどうしたかな。仕方なく宮廷魔導士にでもなってマリーに女伯爵になって貰い、婿にでも入っていたか。そんな未来も有り得たかも知れないな。だが帝国はまだまだ手を出してくる一部の精鋭は叩けたが首魁は逃がした。まさか転移の宝玉とはな。帝国には相当の錬金術師がいると見える。一度酒でも飲み交わしながら話し合ってみたいものだ)
マリーがラントの匂いを嗅ぐのはいつものことだ。ラントはマリーの好きにさせることにした。引き剥がそうとすると抵抗するのだ。ドレスが汚れるのも構わないらしい。一応〈洗浄〉は掛けてあるのでそれほど汚れていると言うことはない。服やローブも洗ってある。それでも戦場の匂いは消せない。
そしてマリーはラントのその戦場の匂いが好きなのだと言う。変態だ。だがその変態な所も含めてマリーと言う女だ。完璧な女など居ない。ラントも完璧など程遠い。エリーに言わせればお似合いだそうだ。そう言われて悪い気はしない。
「マリー、俺はヴィクトール卿やヒューバート卿とまだ話すことがある。悪いが支度をさせて貰えないか。今晩にはきちんと帰って来る」
「約束ですよ」
「あぁ、約束だ。俺が約束を破った事があったか?」
「いいえ、ちゃんと無事に帰って来られました。それだけで嬉しく思いますわ」
マリーはようやく離れた。公爵城に勤める者たちの視線が痛いが、マリーはそんなものはどうでも良いとなりふり構わない。
そのうち彼らも王都のタウンハウスの者たちのように諦めるかと思ったが流石にそこまで長居することはないとラントは振り返った。
恋は盲目と言うがマリーの盲目具合はラントの知る中でもピカイチだ。打算など一つも入っていない。ラントがテールの麒麟児でなくともマリーは今と同じ様にラントを愛したと思う。ただし最低限の実力を持っていなければマリーを救う事すらできなかった。たらればを言えばきりがない。ラントは考える事を放棄した。
しかしこれだけの女にそれほど惚れられると言うのはラントも嬉しく思う。なんだかんだでラントもマリーを愛しているのだ。他の女たちとは違う想いがある。マリーは特別だ。
「マリー、きちんと修練していたようだな。魔力が研ぎ澄まされているぞ」
「公爵城の魔導士に教えを請いました。色々と教えてくれましたわ」
「いろんな奴の意見を聞くのは良いことだ。俺のやり方は特殊だからな。早道ではあるかも知れんがそう簡単には行かん。マリーにはマリーに合うやり方がある。良い修練を受けられたようだな」
「えぇ、もう盗賊や傭兵などには負けませんわ」
「阿呆、出会わないようにまずは用心しろ。調子に乗るな」
ラントはペチリとマリーのデコを叩いて叱った。だがその声は優しく響いた。
◇ ◇
「ふぅ、なんだかんだでクラクフ市での戦いも激しい物だったな」
「えぇ、魔境の氾濫とはこれほどの物かと思い知りました」
ヒューバートが溢すとヴィクトールが返す。しかしヒューバートはまだ甘いと思った。きちんと教えておかなければならない。
「あの氾濫は小規模な氾濫だ。強大な魔物も少なかった。おそらくクレットガウ子爵が間引きしてくれていたのだろう。もしくはエルフのリリアナ姫様だな。あれを基準に考えるな。騎士団にも魔法士団にも死傷者が少なかっただろう。本来の氾濫とはあの程度ではない。そして大氾濫ともなれば都市が消えるのだ。住民もろともな。そしてそこは魔境となる。ならぬように騎士団が必死で魔物を打倒し、人の領域を取り戻す。魔物が長く住めばその土地は瘴気に侵され、人が住めなくなるのだ」
「それほどですか。流石第四騎士団長ですね。私もまだまだだったようです」
ヒューバートはニヤリと笑った。なんだかんだでヴィクトールとの付き合いもそれなりになった。ヴィクトールは魔境や魔物の知識はそれほどではないが、魔法の腕は本物だ。魔物も脅威だが今は帝国の脅威の方が大きい。ヴィクトールが活躍する場はまだまだあるだろう。
(クレットガウ卿が鍛えてくれていると言うから今後に期待したいところだな)
「わかってくれたなら良い。クレットガウ子爵に感謝だな。彼が居なければオーガキングとアラクネクイーンの勝者が進化していただろう。そうなればブラックヴァイパーとベヒーモス、そして勝者の三つ巴の戦いが繰り広げられ、大氾濫となっていた。今回の規模の十倍ではきかない数の魔物が溢れ出るのだぞ。更に深層の魔物ももっと多く溢れ出る。第四騎士団だけでなく、他の騎士団も動員せねばならぬ。宮廷魔導士も半数は使わねばならん。公爵領はぐちゃぐちゃになる。国家存亡の危機と言って間違いはない」
ヴィクトールはヒューバートの言葉を聞いてその恐ろしさを想像したようだ。顔が青褪めている。だが現実だ。
大氾濫と呼ばれる物はまだヒューバートも経験したことがないが多くの歴史書がそれを語っている。更にヒューバートの前の代の騎士団長はヒューバートの経験していない大氾濫を若い頃に経験したと語ってくれていた。
しかもそれが帝国の策謀であるのだ。自然現象ならば仕方がない災害と諦める事ができるが、帝国の侵略の一環なのだ。恐ろしい話だと思った。
「お前たち宮廷魔導士も他人事ではない。国家の大事なのだ。魔物の領域は多い。あの程度の氾濫は中堅程度の魔境でもよく起こる。数年に一度は国のどこかで起きているぞ」
「わかりました。王都に居てはなかなかできない経験が今回はできました。クレットガウ子爵に感謝ですね」
「あぁ、あのお方は俺たちとは視点が違う。強さの桁も違う。まさかエルフの姫君と対等に話をし、仲良くなってしまうとは。リリアナ姫様は我らの事は忘れているだろうが、クレットガウ子爵の事は忘れないだろう」
ヒューバートもエルフの性質くらい知っている。彼女の瞳にはヒューバートたちなど映っては居なかった。だがそれで良い。目を付けられたとなれば良くも悪くもとんでもない目に遭ってしまう。そんなことはごめんだった。
「そうですね。クレットガウ子爵は精霊の加護を得ているのでしょう。確証は持てませんがそうとしか考えられませんし、それらしき気配も感じました」
ヴィクトールがそう言うがヒューバートは釘を刺して置くことにした。
「精霊語を話せるのだ。それもあるかもしれん。だが他言はするな。クレットガウ子爵が国から離れるぞ。マルグリット様を攫ってな。そして放浪の大賢者様のように誰も見つける事は叶わぬ。そしてクレットガウ子爵を失った王国は帝国に良いように翻弄される。あの部隊の練度は凄まじかった。俺ですら一人や二人相手にするのが精一杯であった。あんなのが何十人も荒野にいたのだ。本国には何百人居ても驚かぬ。帝国とは恐ろしい相手だ。エーファ王国とももっと親密になって置かねばならぬ。クレットガウ子爵が伯爵に昇爵し、エーファ王国の公爵令嬢であるマルグリット様を娶る。アーガス王国の英雄がエーファ王国の至宝を娶るのだ。それが最善だ。そうすればクレットガウ子爵も王国から離れることはないだろうからな」
ヴィクトールは神妙に頷いた。
「そうですね。他言無用としましょう。クレットガウ子爵は幾つも切り札をお持ちの様子。オーガキングとアラクネクイーンを打ち破った一撃。私は金色の閃光が走ったようにしか見えませんでした。何をしたのかもわかりません」
「それは俺も同じだ。何が起きたのかと目を疑ったぞ」
ヒューバートはあの時の光景を思い出した。あれほどの魔物たちの中に飛び込むだけでもあり得ないと言うのに、戦況を完璧にコントロールし、首魁を同時に討ち取る。王国の誰をもできない偉業だ。アレだけで伯爵位を賜るには十分だ。
更にラントはベヒーモスとブラックヴァイパーもエルフの戦士たちと共に討ち取ったと言っていた。証拠も見せられた。ベヒーモスの皮にブラックヴァイパーの鱗。どちらも素晴らしい逸品だった。アレで鎧や盾を作れば素晴らしい物が出来上がるだろう。ヒューバートたちですら垂涎の逸品だ。
「羨ましいことだ。嫉妬の念すらわかぬ。北方の出だと言うのだ。北方とはどれほどの魔境かと思う限りだな。乱世に生きる男故にあれほど強くなれたのだ。平和に慣れたアーガス王国やエーファ王国ではあれほどの男はなかなか出来上がらん。帝国も皇位継承権争いで荒れていたと言うがその分戦争を知っている世代が多いのだ。国が荒れるのはごめんだが現場で戦場を知るものは少ないのは不安だ。難しいものだな」
「そうですね。帝国の部隊は恐ろしい物でした。そして超級魔法をたった一人で操ったクレットガウ子爵も魔導の極致を極めているように見えますが本人に言わせればまだまだだそうです。どれほど奥が深いのか、深淵の淵すら私には見えません」
「ふっ、それでいて剣技も槍術も超一流だ。どれほどの修羅場を潜り抜けているのか想像もつかん。俺は勘弁だな。必ず道半ばで死ぬ。確信がある」
「私も勘弁願いたいですね。まだまだ頂きは遠いです。一歩でも、せめてハンス閣下の足元くらいには届かねば死んでも死にきれません」
「くくくっ、クレットガウ子爵に鍛えて貰うのだな。それが一番の早道だ。ただし厳しいぞ。俺の第四騎士団もクレットガウ子爵の訓練を受けると全員がへたりこむ。三日三晩寝ずに魔境を歩ける戦士たちがたった数時間で全力を使い切るのだ」
ヒューバートはラントの訓練を思い出して笑う。ヒューバートの部下たちは急速に成長している。ラントの訓練のおかげだ。宮廷魔導士はともかくヴィクトールの部下たちも同様だろう。魔導士や魔法士たちもしごかれていると聞く。
ラントが来ると聞くと誰もが怯えるが、実際に強くなる実感があるのだ。故にラントの指示には必ず従う。第四騎士団は既にラントに乗っ取られている。
騎士団長であるヒューバートの指示よりもラントの指示を優先して聞くかも知れない。実際ラントの指示の方がおそらく的確だ。
「今回はリリアナ姫様のおかげで色々と予定が狂ったとぼやいていたな。俺たち第四騎士団と魔法士たちをこき使う予定だったそうだ。こき使われる俺たちは堪らんが、その分精強になる。だが十分勉強になった。俺たちは暫く大樹海の氾濫を収める任務に着くことだろう。一個大隊などでは全然足らぬな。ヴィクトール卿、お前も付き合え。城に居るだけでは魔導の極致は鍛えられぬ」
「はっ、ハンス閣下にお願いしてみようと思います」
ヒューバートとヴィクトールはしばらく歓談し、これからの事を話し合った。