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ついに大広間は収集のつかないどよめきに包まれた。
ただし、それは律しようとした場合のみだ。殿下の怒声が辺りを震わすと、聴衆は動勢を聞き逃さぬよう自ずと静かになった。
「馬鹿馬鹿しいっ! 何が”人の子の英雄”だ。そんな500年前の昔話を誰が信じるというのだ! ならば、今度は人間界の国々から来た使者の方々に訊ねようではないか。この者はそなたらが担ぎ上げた”人の子の英雄”で間違いはないか。爵位の正当性は保証できるのか!」
大昔に授けた爵位など、今に生きる者が憶えているものだろうか。
周囲の様子を伺う招待客が多い中、手が挙がった。
人間界の国のひとつ、グラント海蝕国からの大使だ。
「海蝕国のスチュワード大使よ。これが正式な発言となることを承知の上で手を挙げられたのか」
「勿論でございます。我が国は、かの者を人の子の英雄と認めます。黒髪碧眼、分厚い鉄扉を蹴倒す怪力、始祖冥儀王様と対等の関係。これらは人の子の英雄であることを示すに十分な証左であると我が国は考えます。そして、一代限りの騎士位・男爵位を含め、523年前から現在もリッジ伯爵位は、わが国から叙爵された正当なものになります」
海蝕国の大使は慇懃に礼をした。
想定よりも早く現れた助勢に、招待客は顔を見合わせるばかりである。王太子と人の子の英雄。どちらにおもねるかを天秤に掛けているのだろう。
意に沿わない結果となり、殿下は憎らしげに歯ぎしりをした。
そこへ抑揚の効いた声がするりと耳に入る。
「あの~ひとつ宜しいですか?」
塗り固めたような笑みの男が、低い物腰で聴衆の中から現れ出た。
「わたくしはランケスター帝国の大使、ヘイローと申します。歴史の浅い我が国は、当然、人の子の英雄へ爵位を与える機会には恵まれる筈もなく。伝説上、かの英雄が不老不死と知るのみでございます。まさか、大使の一存で、いち警備兵が真に人の子の英雄だと認めてもよいものか………500年前より存命の大使が存在する訳もありませんし」
それは海蝕国への牽制ともとれる険のある言い方だった。
なおも帝国の大使の話は続く。
「ええ、それで人の子の英雄は、確か始祖冥儀王と魂を分けて不老不死になられたと………。ならば、皆々様を納得させる方法は簡単なことではないかと」
そして、帝国の大使は自らの名案をひけらかす。
「彼に不死であることを証明していただくだけでしょう」
……なんて馬鹿げた提案だ。それは彼に自殺してみせろと言っているようなものだ。
流石の殿下も、この提案には尻込みをした様子だった。一文字に結ばれた口で、殿下の二の句は阻まれていた。
「いいぜ、お安い御用だ」
けれど警備兵の彼はそう言って、握ったままだった私の手を離した。
彼は装備していた支給品の短剣を鞘から抜いて、躊躇せず自らの首筋を切り裂いた。
悲鳴が上がった。固まる者も、近づく者も、遠ざかる者もいた。
その間にも、首筋から流れ出た鮮血が床に倒れた重厚な大扉の模様の溝から溢れ、大広間の中央を走る深紅のカーペットへ滴り落ちていく……。
切った瞬間からガクンと警備兵の彼の顔は伏せられていた。
しかしながら、よろめく気配もなく、十秒間、彼は仁王立ちの状態だった。
「種も仕掛けも、魔法もない。これが伝説に記された不死だ」
口上と共に、彼は顔を上げた。
衆目は致命傷であるはずの彼の傷口へと集まる。
が、この時ばかりは皆、言葉を失い、固まった。
鋭利な一閃で切り裂かれた頸動脈はみるみる塞がった。綺麗な断裂面を見せていた筋肉の繊維は植物のように生長し、血管を覆ってゆく。最後に、切り口と同じだけの長さであった一本の線が皮膚の上から消えると、大広間にいた人々の目に確信が宿る。
私は、そんなことを確信するよりも先に、警備兵の彼が選んだ手段が許せなかった。
私は彼から短剣を奪い取り、鞘に納めた。
「どうして……なんてことをしたのですか……!」
「お、怒るなって。別に死にやしないんだからさ」
飄々と言ってのける彼の態度に、反省の色は見えない。
「死なないからといって自傷をして良い道理はありません! それも私を助けた手で行うなんて………! 私は誰かを傷つけるぐらいなら――」
「『自分が傷ついた方が良い思う人間』、『私一人が納得すれば、多くの人が幸せになるのなら尚更』――俺も同じ考えだよ。誰かの中でも特に、お前が傷付く結果になるのなら、たとえ死んでも俺が傷付いた方がいい」
彼は優しく微笑んで、私の手から短剣を取り上げる。
「だけどな? 多くの人が幸せになることと、傷付きながら自分の幸せまでも天秤にかけるのは話が違う。それは幸せの数でケンカを売られているだけだ」
「………誰かが傷付かない代わりに私が傷付くことと、多くの人が幸せになる代わりに私が傷付くことは訳が違うと?」
「そんな感じだ。……さて、俺の不死は証明されたぞ。不老はどうする? 人間界にいた頃の肖像画か彫像を探しに諸国を荒らし回ってもいいんじゃねーか?」
警備兵の彼が平然と息をし、会話をしている様子を見て、呆然としていた帝国の大使は慌てて返答した。
「ぅ……えぇ、異論はございません。我がランケスター帝国も、貴殿を伝説上の人の子の英雄であることを認めましょう」
警備兵の彼は不遜な表情をし、殿下を見遣った。
「これで俺に何の権限がないって?」
「では……では、この婚約破棄がどう不当なのか申してみよ!」
殿下は焦りを声音にのぞかせて、問いただした。




