3
彼女の部屋には私物と呼べる物がひとつもなかった。
掃除が行き届いた部屋にあるのは、備え付けである年代物のクローゼットやベッド、ドレッサーだけ。そもそも、彼女の部屋へ歓談しに訪れる者などいないのだから、来客用のテーブルやソファなど洒落た家具があるわけもなかった。
そして、クローゼットの扉を、ドレッサーの引き出しを、開け放って隅から隅まで探してみても、王太子の婚約者らしい高価な衣装や宝飾品はなかった。
どれもが既製服、既製品……。
この世にひとつの贈り物など何ひとつない。
贈り物の代わりに、書影の文字が擦り切れた数冊の本が部屋にあった。
それは花嫁修業で王太子妃教育の為に講師から彼女に与えられた教本で、『所有する』ということが誰の許可も得ずに対象を扱える意味であるならば、彼女の唯一の所有物だった。
したがって、教本の傍らに置かれている分刻みの予定表は彼女の所有物ではない。予定表は侍女長や講師に決められたものだった。時間さえも、彼女は所有していなかった。
不意に、窓がひとりでに開いた。
初夏の風が鼻をくすぐるような緑の匂いを部屋に呼び込むと同時に、ベッドに広げられた教本のページがパラパラと捲られていく。
『神々の住処である天界はゼウス、生命の根源である海洋はポセイドン、死者の魂が辿り着く冥界はハデス。三柱の主神がそれぞれの世界を統べ、地上は人間が国を興し暮らしていました。』
教本に記された歴史の合間に、彼女の注釈がいくつも書き込まれていた。
“三柱が統べる世界に人間は行くことができない、という制約は無く、留まり続ける方法や世界を渡る方法が特殊なだけで、私のように地上から移り住んだ人間も大勢いる。”
“冥儀国は冥界に移住してきた人間達の受け皿となっている側面もあるが、元々は冥界の奥深くにある死者を裁く地を守る為の国というのが本来の役割だった。”
ピタリと、教本は風に身を任せるのを止めた。
そして癖の付いた髪の分け目が勝手に直るように、最初に広げられていたページに戻る。
座学中のわずかな休息のタイミングで、必ずと言っていいほど、しかし無意識的に、彼女はそのページで教本を広げたままにしていた。だから、戻ったのだ。
元はと言えば、そのページに伝説という毛色の違う娯楽が載せられていたからだった。
『冥界で三日三晩戦った人の子の英雄』
『人間の魂は死後、冥府へ行くことが決まっていました。冥界の最奥に存在する、冥府の審判の間で、神ハデスの審判を受けるだろうと、人間界の人々の間では伝えられていました。』
『ある時、冥府を滅ぼせば、死を克服できると考えた人間界の国々は数十年に及ぶ戦争の末、人の子の英雄と呼ばれる人間を冥界に送りました。』
『しかし、人の子の英雄は国の王たちの浅理を一蹴したのでした。』
『国の王たちの意思とは反対に、彼は神ハデスに友好的に接し、人間界へと招待しました。ですが、神ハデスは人の子の英雄の花嫁に一目惚れをしてしまい、冥界へと攫っていきました。』
『連れ去られた花嫁に会うべく、人の子の英雄は軍を引き連れて、人間界から冥界に攻め入りました。しかしながら、人の子の英雄と神ハデスが三日三晩戦うも決着はつきませんでした。』
『彼らの戦いを終わらせたのは、花嫁の説得でした。人の子の英雄は勿論、神ハデスも花嫁の懇願を聞き入れて、これ以上の戦争を止めることにしました。』
『また、神ハデスは人の子の英雄の健闘を称え、自らの魂を分け与えることにしました。人間でありながら不老不死となった人の子の英雄は、人間界と冥界の友好の象徴となりました。』
『冥界に冥儀国が樹立されると、神ハデスは始祖冥儀王を名乗り、子孫は冥儀国の王位を継承するようになりました。』
『一方、人の子の英雄は、冥界で二度と戦争が起こらないよう、冥儀国の守護者になりました。』
伝説の終わり方は投げやりで、所々行が抜け落ちているようだった。
彼女も、伝説の記述には違和感を覚えたようで、内容を補完する書き込みも多い。
その中には、一度は鉛筆で書かれ、消された文字があった。
“出版は人間界の平原国。冥儀国の建国元年の編纂書と異なる記述あり。要調査。”




