虐殺食堂
「でも、あんたも変わりもんだねえ。こんなところで商売を始めたいなんて」
不動産屋の男は南京錠を外して、ドアノブに巻かれた鎖を外した。
「ネットで心霊スポットって言われてから、ろくでもない連中が来るんだよ。YouTuberっていうの? ああいう連中が勝手に忍び込んだりするから、こうやって厳重に立ち入り禁止にしてるんだよ」
店の周りは工事現場のように黒と黄色の防災フェンスで囲われている。それでも何度が屋内に侵入されたという。
「初見のときにお聞きしました。こういう物件は取り壊すのかと」
悠太が言うと、男が両開きの扉のノブを引いた。もわっとした生ぬるい空気が外に流れ出す。
「相続で揉めてるんだよ。解体も金がかかるし、あんな事件があった場所だから更地にしたって売れないだろ。あんたが買ってくれるってんで大喜びさ」
チリが宙を舞っていた。カウンターとテーブルが三つあるこじんまりした店内が薄明かりに浮かぶ。
「聞いてると思うけど、換気扇とか、コンロとか、ぜんぶ使えると思うよ。居抜きってやつかな」
青年はカウンターの中に入って調理器具を確認した。3口のコンロは業務用だった。火力もかなり出るだろう。
「どんな料理を出すんだい?」
窓のカーテンを引きながら男が訊ねた。
「前はイタリアンの店で働いていたので、まあ、そういったものをやろうかと……」
「ここは田舎だから、オシャレな飯を出しても、地元の連中はあんまり食べてくれないよ」
「メニューは工夫します」
苦笑しながら悠太は答えた。
最初にこの物件に案内してくれた若い社員は、ここが魅力的な立地だと力説していた。売買契約を結び、引き渡しの段になった途端、本音が洩れてきた。
「まあ、がんばんなよ。俺もたまに食べに来てやるからさ。じゃ鍵はこれ」
差し出された二本の鍵を悠太は受け取った。「換気をした方がいいよ」と男はアドバイスし、店を出て行った。窓越しに車が走り去っていくのが見えた。
(さてと……)
悠太が店内を見渡した。水道は使えたが、店にはまだ電気とガスが通っていない。だが、悠太はさっそく今日からここで寝泊まりするつもりだった。
(たしかに空気がよどんでるな……換気でもするか……)
他の窓もすべて開け放つと、カウンターを回り込んで厨房に入り、靴を脱いで奥の住居スペースに向かう。
脱衣場に入り、小窓に隙間を作り、少しためらった後、浴室の引き戸をガラッと開けた。
タイル張りの床に古い浴槽が置かれていた。この狭い空間に鳥肌が立つようなおどろしい雰囲気を感じるのは自分の錯覚だろうか。
悠太の目が浴槽の内壁でとまる。赤黒い染みのような痕があった。
(!…………)
一瞬、脳裏にバラバラの人体のパーツが浮かび、青年の顔がギョッとなる。
十三年前、この食堂で殺人事件が起きた。
犯人は閉店間際に店を訪れ、店長と妻、その娘を殺害。よほどの怨恨があったのか、運び込んだ電気ノコギリで家族を切り刻み、バラバラにした人体のパーツをこの浴槽に放り込み、現場から逃走した。
被害者は誰からも慕われる家族で、怨恨の線で犯人は浮上しなかった。店の周辺には監視カメラもなく、深夜の犯行で目撃者もなかったため、犯人はいまだに捕まっていない。
(虐殺食堂か……)
週刊誌などではそう報じられたらしい。事件当時、自分は9歳だったので、詳細はよく知らない。すべて不動産屋から聞いた話だ。
レストランを開業するため、安くて良い物件を探しているときに不動産屋から紹介された。
事故物件が気にならないかといえば嘘になるが、自分のような若造が格安で物件を購入できたのはそのおかげだった。
その日は店の二階で寝ることにした。電気はまだ通っていないので、懐中電灯で階段を上がり、六畳の和室に持参した寝袋を置いた。
薄闇の中でスマホを見ていると、やがてまぶたが重く垂れ、いつしか悠太は眠りに落ちていた。
息苦しさで目を覚ました。ゴホゴホと咳き込みながら身体を起こす。
(なんだ?……息が苦しい……)
寝袋から這い出し、立ち上がって窓辺に向かう。錠に伸ばした手が止まる。
(目張り?……)
窓の隙間がガムテープで塞がれていた。むしるように剥ぎ取り、窓を開けた。澄んだ空気が流れ込み、ようやく息をつき、部屋に顔を戻す。
(?…………)
寝袋の周りに布団が敷かれ、三人の人間が横たわっていた。父と母、それに妹の茜だった。そばに五つの練炭が置いてある。
「母さん、父さん! 起きて!」
叫びながら悠太はがばっと上半身を起こした。
そこは食堂の二階にある部屋だった。背中が汗でびっしょりと濡れていた。
(夢か……)
寝袋からのろのろと這い出て、今度は本当に窓を開けた。空がすでに白み、冷たい朝の空気が青年の頬を撫でる。鳥のさえずりが聞こえた。
(久々に見たな……)
悠太の家族は幼い頃、父が事業に失敗し、多額の借金を背負った。自宅で練炭を炊いて一家心中をし、悠太だけが生き残った。
なぜ自分だけを残して逝ってしまったのか。どこか生きていることに罪悪感を覚えながら今日まで日々を過ごしてきた。
事件後、叔母夫婦の家に引き取られた。早く自立したかったので高校を卒業後、家を出てイタリアンレストランで働き出した。
遊びはいっさいせず、働きづめの毎日で開業資金を貯めた。この店が格安で売りに出されていることを知って買い取った。
過去の事情はどうあれ、公園に隣接して緑に囲まれた立地は希望に叶ったし、何より夢だった自分の店を持つことができた。
過去を忘れ、この土地で新しい人生を始めよう。青年はそう誓った。
◇
「今日のリゾット、とっても美味しかったわ。チーズのコクとキノコの香りが絶品。他のお店で食べたリゾットより全然いいわね」
レジで会計をしながら中年の女性が言った。
「ありがとうございます。いいポルチーニが手に入ったので」
悠太がお釣りとレシートを渡すと、中年の婦人は「また来るわね」と笑顔で告げ、店を出て行った。
「ありがとうございましたー」
悠太は頭を下げて見送りをする。
緑に囲まれた立地、三角帽子を思わせる白い切妻屋根の建物。店の入り口には「Cappello a punta(とんがり帽子)」という看板がかかっていた。
開店して一ヶ月が経っていた。最初は客もほとんど来なかった。あんないわくつきの店でレストランを始めるなんて、地元の人たちはよほどの変わり者だと思ったらしい。
やがて味が評判を呼び、徐々に客が入り始めた。今では常連もいて、週末は満席になることもある。
悠太は壁の時計を見上げた。14時30分、もうすぐランチタイムが終わる。
(そろそろ〝彼女〟が来るな……)
店のドアが開き、カランコロンとドアベルが鳴り、三十代後半ぐらいの落ち着いた雰囲気の女性が店に入ってきた。
いつもの窓際のテーブルに座ると、悠太はお冷やを持っていく。レモン風味の水のグラスを女性の前に置く。
「今日は何にいたしましょうか?」
「おすすめはある?」
「ボロネーゼのパスタはどうでしょう? ひき肉のパスタなんですが、トマトベースのさっぱりしたソースなので食べやすいと思います」
「じゃあ、それをお願いしようかしら」
「かしこまりました」
女性は食後にコーヒーとデザートのティラミスも注文した。
悠太は厨房に戻ると、鍋でパスタを茹でた。フライパンにオイルをひき、ひき肉を炒め、トマトベースで煮込んだソースをからめる。パスタをザルにあげ、フライパンでソースと和え、唐辛子を散らした。
「ひき肉のボロネーゼです」
テーブルに料理を出すと、女性はうわあ、と声を上げた。
「ボロネーゼは私も家でよく作るけど、やっぱりプロが作るのは違うわね。おいしそう」
悠太は微笑み、ごゆっくりお召し上がりください、と言い、厨房に戻った。洗い物をしながら、カウンター越しに女性を見つめる。
彼女はいつもランチタイムの終わりに現われ、お気に入りの窓辺のテーブルに座り、ランチのコースを食べて帰っていく。
(何をしている人なんだろう……この近くで働いてるのかな……)
主婦という感じはしない。なぜか気になった。どこかで以前、会ったような気がする。
食事を終えるのを待ち、コーヒーとデザートのティラミスを持っていく。
「今日のパスタ、とてもおいしかったわ。今までのベスト3に入るわね」
「いつもありがとうございます」
開店当初、客がほとんどいないときも、彼女が通って来てくれたおかげで気持ちが切れずに済んだ。
「このお近くにお住まいなんですか?」
女性にプライベートのことを訊くのは失礼かと思い、これまであまり訊ねたことがなかった。
「ええ……職場もこの近くだから、職住近接ってやつね。そうそう、今度の土曜日の夜に予約をできないかしら? 同僚の人の送別会をしたいの」
「わかりました。席をご用意しておきます」
予約に必要なので初めて名前を訊ねた。女性は「中条一菜」と名乗った。
会計を済ませ、一菜を店の外まで見送る。一回り以上も年齢が違うのに、彼女とはなぜか自然に話せる。
◇
薄暗い店舗の中を悠太は寝間着のスウェット姿で歩いていた。客席に行くと、幼い少女がテーブルに突っ伏していた。
「お客さん、そんなところで寝たら――」
少女の肩に手をかけた瞬間、胴体がズルッと椅子から落ち、テーブルに首だけが残った。
目を見開いて絶命している幼い娘の顔に見覚えがあった。
(茜?……)
なぜ妹がここにいるのか、戸惑う青年の耳に厨房からチンと音がする。カウンターを回り込み、オーブンの前に行った。
ガラスの窓越しに見えたのは、焼けただれた父と母の生首だった。
「うげええええええ」
床に吐瀉物をぶちまけ、口の汚れを拭おうとして、手に何かを握っているのに気づいた。それは血まみれのチェーンソーだった。
悠太のまぶたが開き、夢から目覚めた。店舗の二階にある部屋で、布団の上に横たわっていた。
(またあの夢か……)
この店で寝起きするようになって見るようになった。以前は一家心中のことを夢で思い出したが、最近ではこちらの夢が増えていた。
(なんであんな夢を……)
不意に思った。この店で一家を惨殺した犯人は、家族に深い怨恨があったと言われているが、実は違うのではないか。
(この食堂そのものが人の理性を狂わせるのでは?)
普通の人間を虐殺に走らせる呪われた食堂なのでは? 狂気に囚われ、いつしか悠太自身も殺人鬼になってしまうのでは?
青年は自分が自分でなくなっていくような不安に襲われていた。
◇
(テーブルセッティングはこれでよし、と……)
白いクロスの上に並んだグラスやラトラリーを悠太は確認する。
土曜日の夜、中条一菜が予約した時間が近づいていた。彼女の同僚の送別会で、四人で予約を受けていた。
(そろそろかな……)
カランコロンとドアベルが鳴り、一菜が姿を現わした。後に続いて三人の男性が入ってくる。
二人は三十歳ぐらいでスーツ姿。背が高く、がっしりした体型だ。もう一人の男は上司だろうか? 目が暗く落ちくぼみ、生気のなさそうな五十年配の男である。
「お待ちしていました。こちらのテーブルへどうぞ」
四人を窓辺のいちばんいい席へ案内する。
「今日はありがとう。わざわざ貸し切りにしてもらって……なんだか申し訳ないわ」
一菜が恐縮するようにお礼を言ってきた。
「いいんですよ」
小さい店とはいえ、他の客がいてはワンオペで充分なサービスができない。客が少ない頃から店に通ってくれた彼女へのほんのお礼だ。
「アペリティーヴォ(食前酒)のロッシーニです」
四人の前に赤紫色のカクテルのグラスを置き、厨房に戻った。
事前にコースで注文を受けていたので準備はできていた。白い丸皿にトマト、モッツァレラチーズ、バジリコが色鮮やかに盛り、カウンターを出る。
「アンティパスト(前菜)のカプレーゼです」
最初に五十年配の初老の男性の前に給仕をする。年齢的に彼が上役だろうと思ったからだ。
テーブルに置こうとしたとき、手から皿がすべり落ち、ガチャンと音が鳴った。料理の形が崩れ、悠太の顔が強張る。
「す、すいません……すぐ新しいのをお持ちします」
落とした皿を厨房に持ち帰り、前菜を作り直し、改めて持っていく。
「申し訳ありません」
平謝りして厨房に引っ込む。カウンター越しにテーブルの様子を見た。四人は特に気にした様子もなく、料理を食べはじめた。
(はー、やっちまったな……給仕で失敗するなんて……疲れているのかな……)
プリモピアット(メイン前の料理)のアラビアータの調理に移る。ブロック形のベーコンをまな板に置き、洋包丁を手に取る。
(え?……)
手がブルブルと震えていた。小刻みな腕の揺れを抑えるように、包丁を握る右手を左手で押さえつける。
(どうしたんだ?……)
なんとか料理を作り終え、テーブルに運んでいく。
「プリモピアットの茄子とベーコンのアラビアータです」
皿をテーブルに置いた瞬間、脳裏に自分が包丁を振り上げ、一菜に襲いかける光景が浮かんだ。壁に飛び散る赤い血しぶき、床に転がる身体のパーツ……。
「どうかしたの?……」
一菜が心配そうに訊ねてきた。
「い、いえ……」
額に汗がびっしょりと浮かび、身体が緊張でガチガチだった。
視線を感じた。五十年配の男が不思議そうに悠太を見つめている。目が合った瞬間、悠太の手から皿が滑り、床にガシャンと落ちた。
「うわわあああああああ」
顔をかきむしるように悠太は叫んだ。ふらふらと後ずさり、店の壁に背中が当たる。
「悠太君!」
一菜が椅子から立ち上がり、青年のそばに駆け寄った。肘に添えられた手を振り払い、おびえた目をテーブルに向ける。
「おまえだ……おまえがやったんだ……」
血走った目でつぶやく青年に、一菜が真剣な顔で問いかける。
「悠太君、あなたは何を見たの? 教えて」
「あ、あいつが――」
腕を持ち上げ、震える指で初老の男を指さした。
「母さんと父さんと茜を殺したんだ!」
「家族が殺されるのを見たのね? どこで見ていたの?」
「僕は……厨房の中に隠れていて……あいつが母さんと父さんと茜をナイフで刺した後……黄色いチェーンソーで身体をバラバラに……」
一菜がテーブルにいるスーツ姿の二人の男にうなずくと、男たちが椅子から立ち上がり、初老の男に告げた。
「19時48分、殺人の容疑で逮捕します」
若い男がスーツのポケットから手錠を出し、初老の男の手首にはめた。それを見ながら悠太はズルズルと壁を背に崩れ落ち、意識を失った。
◇
そこは白い壁に囲まれた個室の病室だった。水色の病院衣を着た悠太は、リクライニングで起こしたベッドに背を預け、窓の外の青空をぼんやり見ていた。
コンコンとドアをノックする音がして白衣を着た女性――中条一菜が部屋に入ってきた。
「体調はどう?」
「普通です」
「今、話をしてもいい?」
「どうぞ――」
青年の許可を得て、一菜がベッドのそばの丸椅子に腰を落とす。
「十三年前、食堂を営んでいたあなたの家族は何者かによって殺されたの」
特に驚きはない。薄々そうではないかと気づいていた。
「厨房に隠れていた9歳のあなたは一人だけ生き残ったの。ただ、家族が殺される現場を目撃したショックで、心因性の視覚障害と失語症になってしまった」
聴覚以外の感覚を失い、まるで生きた人形のようだったという。
「精神科医であなたの主治医だった私は、催眠療法を使って、あなたの記憶を時間をかけて書き換えていった」
「僕の家族は殺されたのではなく、一家心中をしたことにしたんですね?」
「ええ……家族を失った事実そのものをなくすと矛盾が出てしまうので、それしか方法がなかったの……」
目の前で両親と妹が殺人鬼に電気ノコギリでバラバラにされた事件を、練炭での一家心中にすり替え、精神的な傷を少しでも和らげようとしたのだという。
それで自分が中条一菜に親近感を抱いた理由がわかった。子供だった悠太は主治医だった彼女と長い時間、接していたのだ。
「〝治療〟の後、あなたは視覚と発声を取り戻したわ」
その後は悠太にもわかった。病院を退院し、叔母夫婦に養子として引き取られ、姓も変え、普通の生活を送るようになった。
「七ヶ月ほど前、別の殺人容疑で逮捕された男のDNAが、一家殺害事件の現場に残されていたDNAと合致したわ」
恐らくあの日、店に連れてこられた初老の男だ。残りの二人の男は、体つきや眼光の鋭さから刑事だろう。
「……今になって僕の目撃証言が必要になったんですね?」
「ええ……一度、書き換えたあなたの記憶を取り戻してもらう必要があったの」
事件現場の食堂に悠太を呼び戻し、客と偽って容疑者と対面させた。恐らく不動産屋も最初から事情を承知していたのだろう。
「あなたは〝黄色いチェーンソー〟で家族が殺されたと言ったわ。凶器の電動ノコギリの色が〝黄色〟であることは、まだマスコミに一度も発表されていないの」
悠太の証言が本物だと立証された。DNAの証拠とあわせ、初老の男の有罪は確定し、恐らく死刑になるだろう。
事情はだいたいわかった。だが、ひとつだけどうしても解せないことがある。
「僕は十三年前の事件のことを、過去の新聞記事やネットで目にする可能性もあったわけですよね?」
両親や妹の顔を見て、事件を思い出したりしなかったのか。一家心中ではなく、殺人犯に殺されたのだと。
「それは……ないわ」
「どうしてそう言い切れるんですか?」
「現実に新聞やネットで記事を見たことはあった?」
「いえ……ありませんでした」
事件の詳細はすべて不動産屋から聞いた。ただ、それは〝たまたま〟だ。いや――と悠太は思った。
店が事故物件であると聞き、自分でネットで調べた。だが、事件のことや被害者の情報は手に入らなかった。
「書き換えられたのは、あなたの家族の死亡原因だけじゃないの」
「……どういうことです?」
青年がけげんそうに眉根を寄せる。
「あなたが叔母さん夫婦に引き取られ、高校を卒業した後、イタリアンレストランで働いた記憶もすべて架空の記憶なの。あなたは9歳のときからずっと病院に入院しているの」
悠太の顔が困惑で揺れる。
「……視覚と発声を取り戻しても、あなたの壊れた心まで治すのは難しかった。9歳のときから、あなたは病院の敷地の外に一歩も出たことがないの。この一ヶ月の間、街に行った?」
「それは……」
食材はコショウ一つから業者が毎日、届けてくれたし、車を持っていないので遠出はできなかった。店の周りの緑道を気分転換で歩いたぐらいだ。
女医が椅子から立ち上がり、窓辺に行った。
「あそこを見て――」
指さした方向には緑の木々があり、尖った白い切妻屋根がのぞいていた。どこか見覚えのある屋根だった。まさか――悠太の顔が驚愕で歪む。
「あれがこの一ヶ月、あなたが働いていたレストランよ」
病院の敷地内に、警察が一家殺害事件が起きた食堂を再現したという。
「でも、業者やお店に来ていたお客さんは?……」
「病院と警察の人たちよ。……ごめんなさい。記憶を取り戻したとき、あなたの身に何が起こるかわからなかったから、万全の体制で見守る必要があったの」
「まさか……ネットも?」
「この病院は患者さんに刺激的な情報を見せないよう、スマホやパソコンに強いセーフサーチ機能を設定して情報にフィルタをかけているの。だから、あなたの家族の事件は検索しても表示されなかったはずよ」
悠太は頭が混乱していた。何が真実で、何が偽の記憶なのか、もうよくわからなくなっていた。
「僕の本物の記憶はないんですか? 家族との思い出とか――」
「あなたは事件のショックで9歳以前の記憶をすべて失ってしまったの。あなたが持っている本物の体験は、病院で過ごした13年間の記憶だけよ」
だが、それすらも偽の記憶に書き換えられてしまったではないか。おばさんとおじさん、高校の友達、イタリアンレストランで働いた日々……すべてが存在しなかったと?
「悠太君、あまり考えすぎないで。今はゆっくり休みましょう」
一菜が優しげに肩に手を置いた。
「あの、先生――」
自分でも意識することなく「中条さん」ではなく「先生」と呼んでいた。
「僕は料理をどこで覚えたんですか? もしかして子供のとき、父から――」
女医がさびしげに首を振った。
「この病院のレストランよ。あなたはパスタが大好物で、イタリアンが得意なシェフから教えてもらったの。ただ、その人はもう退職してしまったのだけれど……」
白衣の女医は肩から手を離し、踵を返した。出入り口で立ち止まり、ベッドの青年に顔を向けた。
「ボロネーゼ、とても美味しかった。それは本当よ」
ベッドに残された青年は疲れた笑みを作り、窓の外に目を向けた。視線の先には、木々の間からのぞく白い切妻屋根があった。
(完)