5.まるで女神
「それにしても急なご訪問で、驚きましたわ。私たちはみな、皇女殿下がいらっしゃった理由が気になっておりますの」
ラモット公爵のひとり娘であるカリーナが言った。
ラーラと同じように、王太子妃になるべく努力を重ねている令嬢だ。瞳に不満げな光をきらめかせている。彼女はエリシアを上から下までじろじろ見た。
護衛としてうしろに控えていたシャレドとローリックが、エリシアを守ろうとするかのようにカリーナの前に立ちはだかる。
「詮索するとは無礼だろう。いくら公爵家の令嬢とはいえ、ふとどきな行為だ」
ローリックがカリーナを鋭く睨んだ。シャレドは静かに身構えている。
「し、失礼いたしました。皇女様、どうかお気を悪くなさらないでください」
口ではエリシアに謝りつつも、カリーナはせつない眼差しをアラスターに向ける。彼は思いっきり無視した。
(うん。なんかもういいかな)
すべての人から見下されていたエリシアが、すべての人を見下している。楽しくないわけではないが、なんだかもう、お腹がいっぱいになってきた。
永遠に皇女のふりをするなんて不可能だ。だったら現実に戻るその日まで、意趣返しを満喫してもいいのかもしれない。
(でも。そんな私を見て、天国のお父様とお母様が喜ぶわけがないし)
エリシアは周囲の人々を見回した。
それからすっと前に出て、カリーナの目を見つめる。先ほどの無礼などまったく気にしていないそぶりで。
「先ほどの質問にお答えします。本来ならば縁のない場所で、滅多に出来ない経験をするためです。友人を作ることもそのひとつ」
「皇女様……」
「カリーナさん。あなたとお知り合いになれて、とても嬉しいです。普段の私は自由な立場にありませんから。このありがたき出会いに感謝を」
もしも『恥知らずなアージェント家』の末裔でなかったら。普通の伯爵令嬢だったら。カリーナとも仲良くなれたかもしれない。
「なんてお優しい……」
誰かが小さく言った。
そのときお仕着せの制服を着たメイドが、銀のトレーにグラスを乗せて近づいてきた。彼女が向かってくる先がエリシアであることは明らかだ。
たいていの貴族は、使用人には目もくれない。必要があれば呼びつけるし、そうでなければ手を振って追い払うだけだ。
(グラスがいっぱい載ったトレーを、水平に持ちながら歩くのって難しいのよね)
エリシアは付添人としてこき使われていたので、使用人の仕事が見た目よりもはるかに難しいことを知っている。
ラーラと同じテーブルで食事をすることは禁じられていたので、いつも使用人部屋の端っこで残り物を食べていた。使用人たちの愚痴も、ずいぶんと耳にしたものだ。
メイドは泳ぐように人ごみの間を進んだ。皇女エリーに群がる人々を避けるために、右に左に方向転換している。中々の身体能力だ。
「エリー、ワインがほしいかい?」
アラスターが耳元でささやく。エリシアは「ええ」と答えた。
これでアラスターがワイングラスを取り、エリシアに手渡せば、あのメイドの仕事は終わる。
「一杯飲んだら退散するとしよう。君の兄である皇太子からも、無理をさせないように釘を刺されているから」
アラスターの言葉に、大勢の若い紳士が「皇女様と踊る栄誉を与えてほしい」と懇願した。
「駄目だ。エリーは人並み以上に乗り物酔いしやすいんだ。くるくると回るワルツなどもってのほかだ」
男性陣の顔に、落胆の色が鮮明に浮かんだ。
次の瞬間、ちょっとした事故が起こった。大げさに残念がった若き伯爵がよろめき、トレイを運んでいるメイドにぶつかったのだ。
トレイがメイドの手から離れ、宙を飛ぶ。
不運だったのはエリシアだった。アラスターが「エリー!」と鋭く叫んだときには、頭からワインをひっかぶっていた。
貴族たちは極限まで目を見開き、驚きに口をぽかんと開けている。
「あ……ああ……」
メイドは床に倒れ込み、小さくうめいた。顔は気の毒なほど真っ青だ。叱りつけられるか、即刻解雇されるか、もしかしたら牢獄に繋がれるかもしれない。
エリシアはメイドを不憫に思った。悪いのは彼女にぶつかった伯爵なのに。
「気にすることはありません。わざとやったのではないことはわかりますから」
前髪からワインを滴らせながら、メイドを励ますように微笑みかける。
「失敗をしない人など滅多にいません。大切なのは反省する心です」
エリシアはちらりと若い伯爵を見た。彼は身を縮こまらせ、顔を真っ赤にした。
どっこいしょと腰を折り、エリシアはメイドに手を差し伸べた。
「怪我はありませんか? さあ、お立ちなさい」
見上げてくるメイドの目には感嘆の色が溢れている。慈悲深い女神を見るような目だ。
周囲の驚きをよそに、エリシアはメイドの手を掴んで立ち上がらせた。どこからか「天使そのものだ」という声が聞こえる。
「心広き皇女様は、たいていの貴婦人とはまるで違うね」
アラスターが自分のジャケットを脱ぎ、エリシアの肩にかけてくれた。
「それでは諸君、僕たちはこれで失礼する。皇女様に風邪をひかせるわけにはいかないのでね!」
アラスターが出口へと導いてくれる。貴族たちの声がだんだんと遠くなっていく。切れ切れの会話から、皇女エリーに対する賞賛の声が飛び交っているのがわかった。
「上手くいきましたかね?」
エリシアは小声で尋ねた。
「完璧だよ。君は経験不足を補って余りあるほど優秀だ。いやはや、何人悩殺したかわからないくらいだよ。明日にでも王太子妃になれるんじゃないか?」
アラスターが上機嫌なのは明らかだった。王太子妃になる気はないし、そもそもなれないと返事をしたが、彼は無視して鼻歌を歌っていた。
<お知らせ>
オーバーラップ様の公式サイトで「婚約破棄された崖っぷち令嬢は、帝国の皇弟殿下と結ばれる」の書影が公開されました。
(画像のアップ方法などわからないことだらけなので、活動報告は後日更新します)




