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涙の後を辿りて  作者: 古都里
ケセの章
6/6

六 夏~心重ね~後編

 朝、起きてシーツをまさぐると、微かな温もりさえなく、ケセは驚愕した。


 一人でシンシンリーに帰ったのか!? 


 慌てて裸足のまま、ケセは靴をはくのも忘れて部屋から飛び出した。

 台所から、良い匂いと歌と、物音がする。

 その扉を開け放つと、腕まくりしたヒトカが食事を作っている最中だった。


「ヘセ!」


 ヒトカが嬉しそうに扉に視線をやり、そしてすぐに自分の手許に視線を移す。

 バターの匂いと玉子のじゅっという音。

 オムレツだろうか?


「ヘセ、お腹すク。ヒトカ、お弁当作ル。ヘセ、お腹すカナイ」


 言うなり、ヒトカは手首の返しでオムレツをひっくり返した。器用なものである。ちなみにケセにはそれが出来ない。だからケセはちょっと羨ましく、妬ましい。


 けれど、そんなことは今はどうでも良い。愛しい精霊がそこに存在する。それが全て。


 ほっと、ケセは安堵の溜息を吐いた。


「ヒトカ? お弁当って言っても僕しか食べないんだぞ?」


「ソウ、だけど、朝ご飯モいる、デシょウ?」


 言い返せなくて、ケセは台所のテーブルに着いた。そこにおいてある重箱には色とりどりの目にも楽しいお弁当。

 その隣に皿があった。綺麗なドーム上に盛り付けたチキンライスからは湯気が立ち上っていた。

 ヒトカがフライパンからオムレツをチキンライスの上に乗せる。そして、フライ返しでオムレツを割ってチキンライスを覆わせた。


「朝ご飯、出来タ」


「有難う」


 朝からオムライスとは、胃が心配だとケセは思った。だが、無邪気な笑みを見せるヒトカにそんな事は言えないし、オムレツを使ったオムライスは白身がプルプルとして美味しそうだった。食欲が急激に刺激される。


 その日はそんな始まり方だった。


 食後、後片付けをするヒトカを見やりつつ、ケセは出かける準備をした。


 ケセは模写がしたかった。

 美しい初夏のシンシンリー。

 毎年、何処か面影が変わるシンシンリーを、この目で見て、耳で聞いて、肌で感じたかった。作家としての血が騒ぐ。童話も書きたい。絵本も書きたい。


 昨日や今朝の物思いは何処へやら、今は『表現者』としてのケセがそこにいた。


「よし、準備出来たっと」


 ケセがそう言うとヒトカも手を拭く。


「ヒトカ、洗い物、出来タ、ヘセ」


「じゃあ、行くか? 早いうちのほうがいい」


 こくりとヒトカは頷いた。


 ヒトカは、ケセに内緒にしていた事がある。

 浮かれた風を装って、必死で隠し続けてきた秘密がある。

 だが、それはついに口にされる事は無かったのであった。




◆◆◆

「ヒトカ!? ヒトカ!! ヒートーカー!!」

 ケセは初夏のシンシンリーを彷徨う。

 ただ一人の名を呼びながら。


 さっきまで夢中で模写していた。今年のシンシンリーはいつにもまして美しく思えるのは気の所為であろうか?

 何枚の画用紙に描いた事であろう。


 ケセはいつの間にか差し出された食事を、機械的に食べながらも、全身でシンシンリーを感じる事に夢中になっていた。食後、ヒトカが重箱を片付けた。その時までは確かにヒトカがいた。


 今はいない。何処を探してもいないのだ。


 涼しい位のシンシンリー中腹。


 ケセはヒトカの名前を大声で呼び、右へ左へ東へ西へと、走りまわる。リュックサックは何処に置いたのであろう? そんな事は忘れてしまった。

 誠心誠意込めて描いた資料、シンシンリーよりもケセにはヒトカが大切で。

 だが、何処にもいない。いないのだ。


「シンシンリー、助けてくれ! ヒトカを返してくれ!!」


 だが、ヒトカが自らシンシンリーに戻ったのであれば?


 それはありえない話ではない。何故ならヒトカは精霊なのだから。

 ああ、来るのではなかった! もしくは一人で来るべきであった!!


 不意に木の根に足を取られ、ケセは転倒した。山の斜面をごろごろと滑り落ちて行く。

 途中の木の根で腹を強かに打ち、滑り落ちるのはやっと止まった。


 ヒトカ……。


 腹を打った所為で口から漏れるのは言葉にならない呼吸音。

 ヒトカ、君は何処だ?




◆◆◆

 少女がいる。

 それはそれは美しい少女。

 白い処女雪の髪は波打ち、少女の背丈よりも長い。その髪に負けぬ白さの肌は、肌理細かく、陶器のようであった。

 瞳は、新緑の緑。白銀の長い睫毛が縁取る春の色。


 その少女は玉座に在り、嫣然と微笑む。

 その笑いは少女のものとは思えなかった。もっと妖艶にして淫靡。どんな娼婦よりも艶かしい。


《ヒトカ》


 少女が名を呼んだ。玉座の下で跪く者の名を。

 誰がその声に逆らえるであろう?

 春の香気、夏の情熱、秋の豊穣、冬の清涼。それら総てを含んだ、その、声音。

 それら総てが、『人間』ではない証明。


《我が女王、永遠を駆ける御方》


 ヒトカは跪いて胸の前で両腕を交差させた。

 武器など持っていない、徒手空拳の身でその姿を拝するという女王に対してのみ取られる礼だ。


《愛い奴。そんなにケセが愛しいか。おお、言わずとも解るぞ。妾を見くびるでない。そなたの幸せは間違いなく妾の許まで届いておった。じゃが、時間切れじゃ》


 女王は笑う。その笑いに苦いものが隠されている事に、ヒトカは気付かない。


《お待ち下さい! 我が女王!!》


 ヒトカの静止に、女王は片眉を上げる。


《そなたにとっての蜜月は終わりじゃ。妾はこう約したはず。『ケセがそなたをシンシンリーに連れてくるまでの間、その一瞬の合間に起こる事柄には目を瞑ろう』と。じゃが愛し児はそなたを連れてきた》


 ヒトカは交差させていた腕で己の胸を押さえた。


 誘われたなら決して断わってはならぬと言ったのは女王だった。

 女王の言葉は甘い蜜。精霊にとっては一分でも一秒でも長く聞いていたいもの。

 だが、告げられた言葉はヒトカにとっては残酷だった。


《そなたが如何にケセを愛おしんでおるか、知らぬ妾ではない。じゃが、ヒトカ、そなたが一番解っておるであろう? もう『限界』であるとな》


《……それでも、それでももし『このまま』を望むのであれば?》


 ヒトカは必死に言葉を搾り出した。


 このまま。ふたり。ずっと。


《解っておる筈であろう? 今のままの生活が続けばそなたは精霊でおることも叶わず、さりとて人間にもなれぬ。神々の定め給うた輪廻から外れたそなたは、何物でもないものへと変わるであろう。それでも、後悔は無いのかえ? 我が愛し児よ、そなたはまだ百十九年しか生きておらぬのだぞ?》


《後悔はありません》


 ヒトカは言い切った。そして笑う。

 それは凄絶な笑み。


 女王は、困った顔をする。

 ケセもヒトカも、ともに『愛し児』。

 ふたり、共に幸せになってもらいたい。だがそれにはどうしたら良いのか。


《そなた、何故ケセを精霊化せなんだ?》


《ありのままのケセを愛しているからです。彼が人間だという事も含めて》


 その時、天啓のように女王の頭に妙案が浮かんだ。

 その思いつきに女王は声立てて笑う。


《……女王? 私の決意が信じられぬと?》


 思いっきり馬鹿にされたように感じて、ヒトカは問う。

 女王はひらひらと手を振った。


《違う、違うのじゃ。そなたの本気、確かに。妾がそなたの言葉、疑った事あったかえ?》


《ならば……》


《ヒトカ、次の雪名残草ゆきなごりそうの盛りにもう一度、会おう。それが妾とそなたの『さいご』じゃ。今はケセの許に戻る事、許す》




◆◆◆

 シンシンリーを散々に彷徨い、いつの間にか意識を失っていたケセは、目覚めて、驚く。


 そこは自分の寝室だった。

 ちゃんと、自分の脇の下にはヒトカが頭を乗せて眠りこけている。

 身体を起こそうと、そっと腕をヒトカの頭の下から引き抜こうとしたケセだったが、ヒトカは目を覚まし、ケセにしがみついた。


「ヘセ、イヤ。行かなイデ」

 

 涙を一杯に湛えた瞳で、ヒトカはひしとケセの腕を捕まえて放さない。


「何処にも行かないよ、ヒトカ」


「ヒトカ。怖い」


 ヒトカは深緑の瞳から、ぽろぽろと涙を流す。それがケセの心の柔らかい部分に甘く爪を立てた。

 つきん、と、痛む心。

 ケセはそっと指でヒトカの涙を拭う。


 どうやって此処に戻ってきたのであろう。だがヒトカがいるのが夢でないのならそんなことは瑣末事だ。


 ケセは上半身を起こし、半身を起こした体勢から腰を捻るとヒトカの涙に口づけた。


 ヒトカがいてくれて良かった……!

 変わらず自分の傍にいてくれる精霊に、ケセは不覚にも泣きそうになる。


 それとも。いなくなったというのは夢だったのであろうか?

 あんなに彷徨ったのに足は痛くない。体中が少し気だるい気もするが。


「ヘセ、ヘセ」


 ヒトカはケセの名を呼びながら泣き続ける。


 怖いとは、どういう事であろう?

 胸が痛んだ。激しく痛んだ。


 自分も怖かった。夢なのか現なのか、ヒトカが自分の前からいなくなってしまった事が。

 もう二度と放したくない。

 その為にはどうすれば良いのだろう?


 ケセは苦悩する。苦悩しながら口づける。

 ケセの唇は、目尻から頬、首筋、鎖骨へと移動していた。

 無意識の行為。そうする事こそが今の二人には必要だったのだ。


 ヒトカが溜息を洩らす。

 その溜息で、ケセは漸く自分が罪を犯しそうになっている事に気付いた。だけれども、もう遅い。


 ケセはヒトカの身体が欲しかった。ここに確かにいるという証が欲しかったのだ。

 大事に思うなら止まれる?

 まさか!


 恋の最中には衝動が付きまとう。

 そしてヒトカは自分の鎖骨に口づけるケセの頭を抱き締めた。

 そう、もっともっと、深くまで。


 だが、ケセは一瞬ひるんだ。

 今まさに。

 自分は、ルービックが自分に強いた事と同じ事をヒトカにしようとしている。


「イイの。違うかラ」


「何が?」


「ヘセ、ヒトカ、好き。ヒトカ、ヘセ、好き、だから、イイの」


 その言葉に、ケセの理性は吹き飛んだ。

 ヒトカは何もかもわかった上で自分を受け入れようとしてくれているのだ。


 優しく。優しく。


 未成熟な身体に舌を這わせ掌で撫で、ケセは急ぐ事無くゆっくりとヒトカを昂ぶらせる。

 痛みを感じないように。いつの間にか組み敷いた身体は幼く、激しい衝動をぶつけたら壊れてしまいそうで少し怖い。

 この身体の総てを五感に叩き込みたい。

 そう思い舌を這わせる。自分が知らない所など無いように味わう。


 ヒトカは僕のものだ。


 そう、感じる為の行為が、ケセの最も恐れていた行為だという事が皮肉ではあったが。

 男でも女でもない体はとても感じやすく出来ていた。


 ケセだとて女性を抱いた事がないわけではない。修業中に時折仲間に連れられて娼館に行った事がある。

 だが欲望を発散させる行為と愛し合う行為は全然違う。



 ヒトカに自分を求めさせたい。

 それは。

 それはきっとヒトカを。

 ヒトカを。



「愛してる」



 ケセは思いの総てを込めてヒトカに告げた。

 ヒトカは涙に潤んだ目でこくりと頷く。


 ヒトカは知っていた。それでもその言葉が愛しく思う相手の唇から紡がれたという事に深く強い喜びを感じる。

 

 ヒトカはケセの体に溺れた。どんな女を抱いた時よりも。

 男でも女でもないヒトカの抱き方をケセは本能的に知っていた。 

 ヒトカは悲鳴を上げる代わりに、ケセの首に回した腕に力を込めた。


 人と人は一つにはなれない。

 体を重ねても心までは重ねること叶わず。


 だが人と精霊だとどうなのだろう?


 ケセが決めていることが一つあった。

 恋をし、愛する人と出会った時こそ自分は自分の心臓を捧げても良い程の愛を注ごうと。

 ましてや犯すなどありえない。


 そう、これはとても真剣な儀式だった。

 互いが互いをどう思っているかを知るための大切で神聖な儀式だった。

 丁寧に丁寧に、祈り捧げるように。


 ケセはヒトカの唇を貪る。息さえ絡み取るように。

 ヒトカの身体から力が抜けていく。

 ヒトカは恥ずかしげに顔をそらそうとするのだが、ケセはそれを許さない。

 その微かな喘ぎ声が、表情が、堪らなく愛おしい。


 ほら、今はきっと。

 きっと心も重なっている。


 何故なら感じる事が出来たから。

 自然に、自分に向かう気持ちが感じられたから。


「ヒトカ、ヒトカ、ヒトカ」

 

 沸き上がる想いに溺れながらケセは愛しい精霊の名を呼び続ける。


 そして、ヒトカは初めてその名をはっきりと呼んだ。


「ケセ……」


 愛してる、ヒトカの唇が紡いだその言葉は世界に溶けた。





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