五 夏~心重ね~ 前編
二度目の口づけを与え合った後は、唇を交わさぬ夜はなかった。そして、疲れる迄抱き合い、夜が明けていく様を見ながら眠りに着いた。
交わすのは口づけだけ。
それ以上に進むのにはケセの方に恐怖があった。幼い頃のトラウマ。傷口は、些細な出来事にぱっくりと開く。
ケセは、それに口づけだけで満足だった。
そしてやがて初夏が来た。
その日、ケセはフランセルの見送りに行った。フランセルの背筋には物差しでも入っているのではないかと思われる程、毅然としている。見据えるのはただ前方。
望まぬ婚姻を強いられた悲劇のヒロインはいなかった。そんな目でフランセルを見る事は失礼だと思った。
皆で見送る前に、ケセはフランセルからエメラルドの櫛を渡された。
「先生に差し上げるのではありませんわ。先生の特別の方に、差し上げるのです」
そう言ってにっこり笑ったフランセルの、その表情を、ケセはきっと忘れないだろう。
ほんの偶然だが、ヒトカの深緑の瞳とあの不可思議な髪色にエメラルドはきっと似合うと思う。
「有難うございます、フランセル嬢」
そして、ケセは気付く。
自分がヒトカに何一つ贈り物をしていない事に。
服は共有だった。ケセは二十一歳という年齢の割に小柄だ。だからヒトカも少しだぶっとしているがケセの服が着られなくもない。
僕とした事が。
思えばケセは、童話の主人公達には沢山、素敵なプレゼントを考えさせたものだった。
例えばと上げればきりがない程に。
なのにヒトカに何も贈っていなかったとは大失態ではないか!?
ケセは、しかし、贈るものが見つからずに困った。宝飾品も衣服も、そんなありきたりなものでは満足出来ないのが童話作家の悲しいところだ。
何がある?
花屋の前で一旦立ち止まる。
花屋の主人はケセを嫌っているので、ケセを眼中に無いものとした。
しかし、ケセが持っている金貨などはその目に映るのだから呆れた根性とでも言う他はない。
駄目だ……と、ケセは頭を抱えながら再び歩き出した。花屋の主人がした舌打ちの音がケセの背中に爪を立てる
一体、何があるんだ。僕に。ヒトカにあげられる何が。
そんな事を考えていた矢先、ふと思いついた。
シンシンリーに行こう!
ケセは冬の終わり……ヒトカと出会ってからは一回もシンシンリーに足を運ばなかった。
家と、クーセル村の村長宅と、郵便局を兼ねたパブにしか足を運んでいなかった……!
きっと。
シンシンリーはケセの事を呆れているだろう。恋に狂って随分ご無沙汰していた自分に。
ヒトカも喜ぶかもしれない。
足取りが、自然軽くなる。
もう、さっき投げかかられた舌打ちなどは忘れてしまった。
ケセは急ぐ。我が家へ。
此処にはケセの居場所はない。
ヒトカが待つ、我が家が今のケセの居場所だった。
◆◆◆
「しんしんりー? ヒトカ、行く!!」
ヒトカは大きな目を見開いて後ろを振り向き、そして顔をしかめた。
夕食後、ケセはヒトカの髪をフランセルからもらった櫛で梳いてやっていたのだが、ヒトカがいきなり振り向くから、長い髪が引っ張られてしまったのである。
「イタイッ!」
「自業自得。前を向いて。髪にこの櫛を挿してやるから」
器用に、ケセはヒトカの髪の毛をまとめた。見よう見真似であるが、それでもそれらしくなった。長い髪が結い上げられる。髪に挿された櫛のエメラルドがヒトカの瞳に合った。
ケセの胸がどくんと高鳴る。
ヒトカのうなじのあまりの細さに驚いたのだ。それは白くて滑らかで、……。
──興奮した。
「ヒトカ、キレイ?」
鏡に自分の姿を映していた精霊は、今度はゆっくり振り返る。
その瞳に、エメラルドはよく映える。
「綺麗だ、ヒトカ」
ケセは溜息をついた。ほっとしたのである。
あのままうなじを見つめていたら自分はヒトカに、ルービックがケセに強いたのと同じ事を強いたであろう。
それは恐ろしい事であった。
ヒトカを好きだからこそ、覚えてはならない激情だった。
違うだろう? 好きと言うのは相手を傷つける事ではないだろう?
そう思うケセはまだ幼い。肉体の伴わない『好き』に翻弄されている。
だが、何と細く折れそうな首であろう。
「ヒトカ、キレイ。ヒトカ、ウレシイ」
微笑むヒトカを見て、ケセはぎゅっとヒトカの頭を自分の胸に押し付けた。唇を奪いそうになったのを理性が制したのだ。
今、キスしたらやばい……!
それは直感。
しかし、そんなケセの気持ちなど知る由も無いヒトカは無邪気にこう言った。
「ヘセ、どきどき。ヒトカに、どきどき?」
心臓の音を聞かれていた事に気付き、更に心拍数が跳ね上がった。
「ヒトカ! 離れろ!!」
「イーヤ。ココ、ヒトカの居場所」
両腕でヒトカの肩を押すがヒトカはケセの腰にいつの間にか抱きついていて離れない。この細い腕の何処にそんな力があるのか。
「ヒトカも、どきどき。ヘセ、一緒」
そう言って、ヒトカは顔を上げた。
そこで上目遣いは犯罪だろうが!!
思った瞬間、ケセはヒトカの唇を『奪わされた』。
『奪った』のではない。『奪わされた』。
ヒトカは純情で天然に見えるが、実は好きな男に唇を『奪わせる』事が得意だった。
漏れる吐息は快楽と共に、こんなに貴方が欲しかったのだと伝えるキィでもある。ヒトカは子供の姿をしていたが、何も知らない子供ではなかった。
ケセの事は、ケセ以上に良く知っていた。
だってヒトカ、ずっと見守ってきた。精霊の女王の水鏡から。
甘い舌を味わいながらヒトカは思う。
この舌はヒトカのもの。
この甘さを知っていいのはヒトカだけ。
ヒトカはしがみつく腕に力を込めた。
本当に、愛しい人。
漸く、唇が離れた。唾液が糸を引く。それがひどく、淫靡に見える。
好き。
好き以上に好き。
だから、穢したくない。
その想いをこの精霊は知っているのだろうか? 理性と欲望の葛藤の狭間で少しばかり愚かになりつつある自分が恐ろしかった。