四 春~恋心~後編
「先生のお話には、必ず目を通すようにしておりますけれども、この絵本は少し趣向が違いますわね」
令嬢・フランセルは本を抱き締めながらうっとりと目を閉じた。
彼女の手にはロトが装丁してくれた絵本。
雪が解け始め、小川が雪解け水の流れに歌う頃、その絵本は出来あがった。ケセはルービック家に向かう事に嫌悪感を覚えながらも、フランセルの為だと、これは仕事なのだと割り切って村長の邸宅に入っていった。
そして今、その令嬢の部屋で、二人きりで会話をしている。
フランセルは火のように激しく、水のように掴み所がなく、風のように悪戯気だと思ったら大地のように確固たる信念を持っていた。
最初、絵本の主人公たる姫君はフランセルがモデルになっていた。
だが、ヒトカと出会い、少し物語が優しくなった気がする。最初予定していたよりは。
「フランセル嬢、そのお話、お気に召しませんでしたか?」
恐る恐る、ケセはフランセルに問う。
金色の巻き毛を揺らし令嬢は慌てて首を左右に振る。
「今までのお話で一番好きですわ。先生は恋をなさっていらっしゃるのではなくて?」
「恋!?」
思わず、ケセは大きな声を出してしまった。
フランセルはくすくすと笑っている。
「だって、今までの童話や絵本にはないのですもの。言い寄られる男というものは。でも、リアリティがありますわ。きっと先生の事を好きになった方を見て書かれたのでしょうけれども、相思相愛のこの物語は、何だか今までと……違ったのですわ」
痛いところを衝かれ、ケセは大急ぎで口元に笑みを刷いた。
「今回のお話は、違ったと?」
「ええ」
フランセルが即答する。
「騎士も姫君もお互いを想いあっているという事が伝わってきます。それも、口に出せないからより一層良いのですわ。騎士も姫君も、ただの一言も好きだの愛しているだのといった言葉を使ってはいないのに、伝わってくる情熱がありますわ」
「……それは……」
ケセは口ごもる。何故だろう? 恋? この僕が?
「精霊を物語に織り込む事が多い先生。もしや、恋したお方も人ではないのでは?」
フランセルが言った。口元は笑っているが、その目は貪欲に真実を求める輝きがあった。
「先生は精霊に恋をしていらっしゃるよう。秘密の話を聞いたよう」
歌うようなフランセルの言葉に、ケセはヒトカを思った。ヒトカ? あれは同居人だ。ケセを決して辱めない精霊だ。だが、胸の動悸は静まる事を知らない。
顔が熱く火照る。
「もしかして、先生は、ご自分の恋に気付いていらっしゃらなかったの?」
自分とヒトカは恋などしていない。
精霊と人間の、全く違う種族の生き物と、どうして恋に落ちる事が叶おうか?
「フランセル嬢、私は恋など……」
「恋など?」
していないとは、言えなかった。
どうしても、言えなかった。
「先生、わたくし、この夏に結婚致しますの」
唐突な令嬢の言葉に、ケセは瞠目した。
結婚? こんな年端も行かない娘が?
「聞いて下さる? 父が目をかけていたこの村の村長に、私が預けられた真実の理由」
表向きは、転地療養。だが。
「わたくし、恋をしましたの」
フランセルは菫の瞳を伏せた。
「わたくしの家より余程裕福な、商人の息子でしたわ。わたくし達、お互いに夢中になりましたの。でも、わたくしには婚約者が」
フランセルのか細い肩が、震えていた。
「わたくしの家は名門といえど、お金がないのですわ。ですから、わたくしは身売りさせられるのです。同じ位の家格の。そして裕福な貴族の長男に。家の名前がなんなのでしょうね? わたくしの家より家格の低い家柄の人間は、わたくしの両親にとって人間ではありえないのですわ。わたくし、好きになった人に駆け落ちをせがんだのです。ですが、その夜、待ち合わせ場所に現れたのはわたくしの父でした。初めてぶたれましたわ。そしてわたくしが華燭の典を挙げるまで、この村に預けられる事になったのです」
「……フランセル嬢……」
かけるべき言葉を持たないケセに、フランセルは笑った。艶やかに。
「わたくしは恋に破れました。ですが、先生、先生はどんな事をしても恋をまっとうなさって下さい。そして素敵な物語を沢山書いて。わたくしが己の子に読み聞かせられるよう。幸せとはこのようなものであると」
フランセルは笑顔だった。菫の瞳は潤んでいたが、涙は零れ落ちる事がなく。
ケセはそんなフランセルを美しいと思った。
今まで絵本の依頼人である令嬢、ただそれだけだったフランセルが美しいかどうかなど考えたこともなかったけれど、凛として姿勢を正す彼女はとても気高く、冒しがたい存在に見えた。
「フランセル嬢。お子様が出来たらお教え下さい。絵本を届けましょう。貴方の好きなコンテで描いた絵本を」
「有難う……」
「では、失礼します」
ケセは立ち上がると、本を渡した時に渡された紫の絹地の袋を手にした。絵本の代金である。それを持ち、部屋の外に出て扉を閉めた。その音にかき消されはしたが、ケセにはフランセルの涙が見えるようだった。
涙は嫌いだ。あまりに美しく、心を縛ってしまうから。
もうケセはフランセルを忘れる事など出来はしないだろう。自分の前では毅然と背筋を伸ばし、前を見つめていた少女。十四の幼さとは思えない。彼女は運命を甘受しようとしている。それはケセには出来ない事。
ルービック邸の玄関にある靴箱の上に、ケセはフランセルからもらった報酬である金子の三分の一を起き、下男に帰る事を伝えた。
下男は曖昧に頷くだけだった。
ケセは邸を出るとぼんやりとクーセル村を歩いた。
誰もが、ケセを異邦人のような目で見る。
七歳の頃から十六歳までこの村に滞在していたというのに、ケセは結局ここの村人になる事が出来なかった。
この村の誰も、ケセを愛してはくれなかった。そう思うと自嘲めいた笑いがケセの口元に浮かぶ。
だが。
今の僕には家がある。
それは雨や風を防ぐ為の家という意味ではなく、ケセが幼い頃から憧れていた温もりのある家だった。
ケセは走り出したい気分になった。
家に帰ったら、自分を待っている存在がいるのだ。
◆◆◆
ケセは、画材を机に叩きつけると苛々と部屋を歩き回った。
ヒトカは怖いと思う。クーセル村に行った日からだ。ケセは荒れている。人の心に敏感な精霊であるヒトカには痛い位、ケセの苛立ちが伝わってくる。肌がぴりぴりする。ケセは一体、どうしたというのであろう?
「くそ! 畜生!!」
ケセは喚きながら二階を歩き回る。ヒトカはパッチワークの手を止めてケセを見ていたが、怖くてもケセから離れられなかった。
目を離すと何をするか解らない。そんな怖さがあった。
ケセは絨毯が擦り減りそうな勢いで歩く。そしてまた作品に戻るのだ。
もう、一週間ずっとこんな調子だった。ヒトカのパッチワークは殆ど終わっていた。赤と黄色の鮮やかなベッドカバー。
ケセは獣の様に呻くと、頭をかきむしった。
書けない。
こんな事は初めてだった。
『恋』。
その言葉がケセの頭を占めるのだ。物語の構想など、浮かぶ余裕も無い程に。
恋などした事が無かった。
憧れた事が無かったとはいわない。
だけれども、今までケセは自分が描く恋物語でその欲求を消化していた。
笑うルービックを思い出す。
彼の肩越しに見える天井を見つめながら、いつ終わるのだろうかと思った事。
物語の恋の成就は接吻で済むが、現実は。
そこまで考える程に、ケセはヒトカにのめりこんでいるという事実に気付かなかった。
何故なら、ケセの頭は物語用に出来ていたからだ。
曰く、恋に落ちるにはすべからく理由が要る。
王子様もお姫様も魔法使いも騎士も乙女も、何か困難を克服して恋を手に入れる。
理由無く突然、恋に落ちることなどケセの頭では考え付きもしなかった。
不意の出来事に弱いケセの頭、否、心。
ケセはついに考える事を放棄した。再び椅子に座り、ほぼ出来上がっている物語を広げる。
今、請け負っている作品は四本。総て童話である。そのうちの三本までは推敲、校正の段階にまで来ているので問題ない。だが一本は白紙に限りなく近かった。
締め切り迄に書き上げるのも原稿料のうちだと、アイゼックは言っていた。
なのに、何の言葉も浮かばない。
そんなケセに、ヒトカはそっと近づいた。
「ヘセ、コレ、ヘセの」
ばさりとヒトカはパッチワークを広げた。それはベッドカバーだ。ついさっき、最後の一針が刺されたばかりの。
だが。
「だからなんだって言うんだ!? 仕事の邪魔をしないでくれ!」
ケセはばさりとそのベッドカバーを払いのけた。床の上に広がる鮮やかな色彩。
その布の向こうに、ヒトカの今にも泣き出しそうな顔。
ヒトカはヒトカなりに考えたのだ。ケセが仕事に行き詰っている事しかヒトカには解らなかったが、少しでも気を逸らせるようにと。
だが、それはお節介でしかなかったらしい。
ヒトカは跪くと、床の上に落ちたベッドカバーを引き寄せるように腕に抱いた。
「ゴメン」
ヒトカの言葉に、ケセは立ち上がった。
ヒトカが何をしたというのだろう?
今にも泣き出しそうなくせに、唇に笑みを刷いた、美しい精霊。
「ヒトカ」
ケセが何か言い出そうとするのを、ヒトカは首を振って制した。
ケセは言葉をなくす。言葉を扱う仕事をしているのに何故、こんな時には上手い言葉の一つも浮かばない?
俯いたまま、ヒトカは立ち上がるとパッチワークを抱いたまま、階段に向かって走り出した。
「ヒトカ!」
ケセが呼ぶも、ヒトカは立ち止まる事をしない。ぱたぱたと階段を下りる足音に続き、寝室の扉の閉まった音がした。
ケセは暫く動けなかった。
さっきまで此処にいた。
ヒトカ。
その気配が常にある事に慣れていた。
視線が床に落ちる。
床の上には、濡れた跡があった。
涙の……跡?
ケセは駆け出した。階段を一番飛ばしに下りていく。
寝室の扉を暴くとヒトカが一生懸命、自分の名を呼んでいた。涙に濡れながら。
「ヘセ……へ…ケ…ヘセ、……ヘセ!?」
ケセの視線とヒトカの視線がぶつかる。
深緑の瞳は泉のようにこんこんと涙を湧き出させる。
ケセはそっと前に進んだ。足元にパッチワークのベッドカバーが落ちている。ヒトカが大切にしていたパッチワーク。
「ヘセ、ゴメン、ヒトカ、ゴメンナサイ」
「悪かった」
ケセは心底から言った。
そして、気付いたら抱き締めていた。
「ヘセ?」
不思議そうに、ヒトカは声を出す。
唐突な温もりに混乱するヒトカの目は見開かれている。その頬を伝う涙に、ケセは唇を寄せた。
「ヘセ……!? へ……!! ん……」
頬への接吻に戸惑うヒトカの唇を、ケセは奪う。最初はただ重ねるだけ。拒まれるのを恐れて。だけれども、ヒトカが腕の中から逃げ出す気配が無い為、ケセは段々と貪欲になっていく。
吐息を零すために口を開けたヒトカはケセの舌の侵入を許してしまう。
耳まで真っ赤に染めながら、ヒトカはケセにしがみついた。
それに勇気付けられたケセはヒトカの舌を己の舌と絡ませ、強く吸った。背中にしがみつく力が、どんどんと強くなる。
拒絶するなら、胸を押す筈だ。さもなくば叩くなり足を蹴るなり、なんなりと方法があるだろう。
受け入れられた?
ヒトカはケセにしがみついて離れない。
ケセはヒトカの心を覗き見たくなる。
何故なら自分の気持ちは解ったから。解ってしまったから。
物書きのくせに言葉に不自由で、馬鹿な男はきっと恋をしている。
唐突に辿り着いた真理。
いつからかなど解らない。
ただ。
こうなる事は運命だったのだと解る。
ヒトカの何処に惹かれたのだろう?
美しさ?
優しさ?
そんなものは確かに理由の一端になるかもしれないが、美しくて優しいものなど他に幾らでもいる。だが、他の誰かでは駄目なのだ。
ケセには、ヒトカでないと、駄目なのだ。
きっと恐らく、出会ったその時に恋をした。
愚かな自分は、その事を、精霊を見た事への歓喜に置き換えたけれども。
ではヒトカは? ヒトカの気持ちは?
無理やり唇を奪った自分に対し、ヒトカはどう思っているのだろう?
ヒトカは何故拒まない?
だけれども拒まれないことはケセに小さな勇気を与えた。
そっと唇を離すと、ヒトカはケセの胸に倒れこんできた。
ヒトカはケセの執拗な口づけに、腰の力が抜けてしまったようだ。そのまま、ケセはヒトカの身体を隣のベッドに押し倒す。
ケセとヒトカは、一緒に寝た事がなかった。
ケセはいつも仕事をする二階のベッドで眠っていたから。
故に一階のこの寝室のベッドはヒトカがこの家に来て以来、ヒトカしか使った事が無い。
ヒトカの胸が早鐘を打った。
口づけの後のベッド。
そこから予想出来る展開は、しかし、決してヒトカは嫌じゃなかったのだけれど。
いや、寧ろ望んでいたのかもしれない。
ケセは子供ではなく大人の……男、で。
ヒトカは男にも女にもなれぬ精霊ではあるけれど、ヒトカはケセの傍にいたいと願い、その為にケセが知らない間に沢山の物を捨て沢山の代償を払ったのだから。
ヒトカは遠い遠い昔から、ケセの事とてもとても想っていたのだから。
だが、両手を寝台につき、ケセはヒトカから距離をとる。
抱くために押し倒した訳ではないのだ。
「僕はヒトカが好きかもしれない」
断定できないのはケセが恥じているからだ。
己の欲望に余りに忠実なキスをした為。だが。
馬鹿なケセ。やっぱり何にも覚えてなくても、辿る道は『恋』に繋がるじゃないか。
ヒトカは恥らうように微笑むと接吻を返す。とても幸せな気持ちがする。
求められることをヒトカは切実に望んでいるのだから。
強く抱き締めたなら緑の匂いがした。