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涙の後を辿りて  作者: 古都里
ケセの章
3/6

三 春~恋心~前編

 ケセの日常は、甘く、愛おしいものへと変化していた。蜜月のような日々。

 かつての無味乾燥な日々とは違う。


 その原因はヒトカだった。

 ヒトカといるだけで、ケセの日常は色鮮やかなものになる。


 日常がこんなに豊かなものだと、ケセは知らなかった。いや、ケセの描き出す物語の中には彩があったが、それはケセにとって今まで夢でしかなかったのである。

 それが唐突に現実のものとなる。

 夢でしかないと感じた幸せを、ケセは啜る。恐怖に駆られながら。



 ヒトカがいなくなってしまったら?



 精霊であるヒトカを、拘束は出来ない。

 突然いなくなってしまったとしても、ケセにはどうしようも出来ないのである。


 そのヒトカは、鼻歌を歌いながら台所のテーブルでパッチワークをしていた。ベッドカバーを作るつもりらしい。

 らしいというのは、ヒトカの言語能力の発達が遅い所為でケセにもヒトカの言わんとしている事がぼんやりとしか理解できないからである。

 書斎の隅に放り投げてあったパッチワークの一部分と、その為にある大量の布の切れ端を見つけたヒトカが興奮して言った言葉はこうだった。


「ヘセ、コレ、ヒトカ?」


 ヒトカ、という一言しか喋る事の出来なかったヒトカではあるが、必死に人の言語を覚えようと努力している。上手くケセと発音できずにヘせとなるが、初めてヒトカに名前を呼ばれた時の身体中に沸き上がる歓喜をケセは覚えている。


 そんな喜びを与えてくれたヒトカは、どうもパッチワークがとても気になる様子。


 ケセは裁縫が得意だ。布の絵本を作ってクーセル村の領主の娘に献上し、その褒美に大量の金子を与えられたのはそう昔の話ではない。今年三歳になるその娘はケセの絵本を今でも大切にしているという話だ。創作者としては何とも嬉しい話である。


 ところが、パッチワークは面白くない。

 作業が単調すぎて絵本を作るような面白さの欠片もなかったのである。

 かくして、中途半端な継ぎ細工と布はヒトカに見出されるまで放置されていたのである。


 ケセはヒトカにパッチワークを教え、ヒトカはそれに夢中になった。

 ケセには何がそこまで面白いのやら解らないのだが、幸せそうに鼻歌を歌う精霊を見ているのは良い気分だったので深く追求しない事にした。

 ヒトカは器用に菱形の布を次々繋いで行く。


 その姿を、ケセはスケッチブックに収めた。ヒトカの長い髪は腰まである。その髪の描写が難しかった。南向きの窓から入ってくる光が、ヒトカの髪を明るい色合いに見せる。ヒトカの髪を透かして見る太陽の光は木漏れ日のようだと、ケセは思った。

 ヒトカが髪をかき上げ、その度に木漏れ日に似た光は揺れ、ケセの瞳を釘付けにする。


 ただのパッチワークだ。

 なのにどうしてこんなにも目を奪われる?


 ヒトカは、性別がどうでも良くなるくらい、容赦なく完璧に可愛い。

 気を抜くと、魂を抜かれそうだ。


 ケセはスケッチブックをしまうと、二階の作業室に行くからとヒトカに声をかけた。するとヒトカもついてくるという。


「ヒトカ、イヤ?」


 ケセは内心溜息を吐いた。この深緑の瞳。この瞳に見つめられてどうしてイヤと言えようか? 否、言えるはずがない。


 作業室は、二階を丸ごと一部屋としてそのまま使っていた。

 南向きの窓と東向きの窓が大きくくられ、昼間は明るい事この上ない。

 南向きの窓に面して大きな机がある。その机はアイゼックからの贈り物だった。ケセは机の椅子に腰掛ける。

 その右手には大きな棚があった。

 そこには、およそ紙と名のつくものなら考えられる限り総ての紙が揃っていた。画用紙から羊皮紙、透かし紙まで。そして、絵の具やインク、コンテ、ペン、筆なども。


 総て、ケセの仕事に必要不可欠なものばかりであった。

 特に絵本を描く時には。


 王侯貴族愛用の専門職の装丁屋に頼むと、革や天鵞絨張りの表紙に金箔や銀箔などで表題が入れられる。そして、本の所々に宝石が埋め込まれ、本は本としての意味を成さなくなり、重くて豪華なそれは、やはり豪奢な屋敷にある図書室の、装飾品に成り下がる。


 ケセの絵本や童話は、庶民から王侯貴族まで幅広くの人が読むものであった。

 だから装丁を頼むのは二箇所。隣町の職人ロトと、王都の職人セルローと。


 だが、今回の絵本はロトに頼んで一冊だけ装丁してもらう。

 その絵本は殆ど出来上がっていた。


 令嬢の年が十四だと聞いて作った、雪名残草、否、口づけ草の話だ。自分に命を捧げて果てた騎士に、姫君が授けた花。姫君が接吻をしたその白い花には口紅の赤が散っていた。

 ただそれだけの話なのだがコンテで書かれた作品は優しく温かなものであった。

 印刷の必要がない、表紙をつけ、糸で閉じるだけの絵本には画材の制限がない。たった一つの絵本。


 仕上げの段階にあるその本に、ケセは没頭した。ヒトカの鼻歌も、最早ケセの耳には入ってこない。


 太陽が部屋を金色に染める頃、ヒトカは階下へ降りていった。

 ケセはその事にも気付かない。部屋が薄暗くなる中、何もせずに燭台の蝋燭に火がついた事にも気付かない。

 それは、ヒトカがケセの為に下級精霊に頼んだものであった。邪魔をしないで、驚かせないで、そっと火を点してと。


 やがて、ケセは立ち上がった。


「出来た! ヒトカ!?」


 声を上げたものの、ヒトカの姿が目に付かない。

 ケセは夢中で書きあげた絵本の用紙を乱暴に机に放り投げた。そして階下へと急ぐ。

 一階は、暖かく暖炉に火が入り、そして美味しそうな食事の匂いが充満していた。


「ヒトカ!?」


「ヘセ?」


 ヒトカは何が起こったのか理解できないような声を上げる。

 テーブルの上には、美味しそうな料理が並んでいた。決して豪華ではない、だが、食欲をそそる料理。


 それを見て、ケセはそっと溜息を吐いた。

 ヒトカは此処にいる。

 確かに、此処にいるのだ。


 ケセは後ろからヒトカを抱き締めた。


「何処かに行ってしまったかと思った……」


「ヘセ?」


 ヒトカは食卓にソテーしたジャガイモを置き、腕を上に伸ばした。ケセの頭を捕まえる。


「ヒトカ、ココ」


「何でヒトカは僕のそばにいてくれる? 僕は何も出来ないのに」


「ヒトカ、ヘセ、ココ」


 ヒトカはにっこりと笑った。


 何て愛らしい奴だとケセは思う。

 首輪でもつけてしまいたい。自分だけが所有出来る様に。

 精霊を『所有』したいと言うのは罰当たりな考え方なのだろうけれども。


 堪らなくキスしたかった。

 でも、ケセにはその理由が解らなかった。


「何処にも行かないで。ずっと僕といて」


 ケセの哀願に、ヒトカはこくりと頷いた。


 そう、ヒトカはずっとケセと一緒にいるつもりだった。それこそがヒトカの唯一にして絶対の望みであることをケセは知らない。

 ヒトカが命をかけている事も、ケセは知らない。ただ此処に在ること、その為だけにヒトカが総てをかけている事もケセは知らない。


 『あの御方』さえヒトカの身勝手さを許して下さるのならば。


 十四年前、ヒトカの胸に生まれた想いを大切に育む事を許してくださった『あの御方』。

 勿論、代償は払わねばならないだろうが。


 例えば今回。

 精霊としての魔力を一時的にだが失った事もヒトカがケセを助ける為に払った代償だった。もう殆ど力は戻りつつあるが。


 精霊の接吻は命のやり取り。


 ヒトカは食べ物を口にする必要はない。唇から、世界に溢れる『気』を取り込んでいるのだ。その反対の事をヒトカはケセにした。その後にケセが何気なく送った接吻がヒトカの目覚めを早くしたのであるがそうでなければ三日は眠っていたに違いない。


 『あの御方』の与えた頭痛で倒れたケセに命の息吹を与える為に口づけた。


 本来なら許されざる事。

 だが、ケセは愛し児であった。


 シンシンリーの女王の愛し児であるという事はあらゆる精霊達にとっての愛し児でもあった。

 シンシンリーの女王は精霊の女王。

 そしてあの頭痛は女王の気紛れ。


「この食事、僕の為に?」


 ケセの質問に、ヒトカは物思いから現に返り、誇らしげに頷く。


「絵本、デキル。ヘセ、お疲れサマ」


「有難う……ヒトカ」


 ケセは涙が出そうだった。


 ヒトカは何処にも行かなかった!


 そして、ケセの為に料理を作ってくれた。自分の為だけに。絵本が出来上がると信じて。

 それはどれ程のご馳走であろう!!


「美味しそうだ。冷めないうちに食べたいな」


 ケセは目の淵まで盛り上がった涙を何とか零さないように勤め、食卓に着いた。

 ヒトカが甲斐甲斐しくケセの世話を焼く。


 その日の食事は、ケセが食べた事のあるどの食事よりも美味だった。

 誰かが、自分の為に、自分の為だけに作ってくれる料理は、幸せの味がした。

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