二 邂逅~彼女が告げる始まり~後編
体が重い。酷い倦怠感が身体を包む。痛みも何も無いのに起きられないというのはどういう事だ? ああ、またルービックに殴られる。
それがあの男の楽しみなのだ。
怠けていると言われるだろう。だが、ルービックはケセが何をしていても難癖をつける。
今日はどんな風に殴られるのだろう? 腹か、背中か、太腿かもしれなかった。とにかく顔だけは殴られない。村長のルービックは外面が良い。ケセが毎朝毎晩殴られている事を知っているのはルービックの家族だけだ。
ケセはルービック夫人からも疎まれている。
村で最も優しい女性と噂される女性からも。
それはルービックがケセを殴る時、彼が性的興奮を覚えているからだ。そしてそのまま、その欲望をケセの身体で発散する。ケセはだから、牛乳が嫌いだ。
起きても起きなくとも殴られるなら、眠ってしまえ、と、ケセは思った。
だが、その時、不意に唇に何かが触れたのである。
ケセは驚いた。
一気に現実に引き戻される。
何故、あんな錯覚を?
僕はもうあんな幼い子供ではない。
二十一になって、一人で暮らしていて、打たれる事も辱められる事もない。
ルービック村長と共に暮らしていたのは自分が七歳から十六歳の時までだ。
あんな昔話。もう、今では忘れようとしているのに。
唇に触れる感触。
もう、何年も知らなかった感触だった。
熱く。
乾いて。
柔らかく。
だけれどもどうだろう?
ケセの記憶の中では嫌悪する感触であったのに、今のこれはとても心地良かった。
無粋な舌がケセの唇を割って入ってくる事はない。
ケセはやがてゆっくりと目を開けた。
その途端、口づけをケセに与えていたモノは慌てて顔を上げようとしケセはそのま、そのモノのの頭を咄嗟に両腕で押さえつけていた。
絡み合う視線。
琥珀と深緑。
さっきまでだるくて起き上がれなかった人間とは思えない早さで反応したケセだったが、自分に口付けを与えていたモノを見ると、すっきりと目が覚めた。
その子はまだ人間的外貌で言うなら十四、十五の華奢な子供だった。
だが、ケセが両腕で押さえている頭に生えている髪の毛の色は不可思議としか言いようがない。
黒に限りなく近い、深緑と焦げ茶色。
人にあらざる色彩の意味をケセは正しく理解していた。
男でも女でもない、シンシンリーの奇蹟。
「あなたは、精霊なんだね」
精霊は笑った。優しい笑顔だった。
「ヒトカ」
精霊は言う。
「ヒトカ?」
ケセは困ってしまう。精霊は、人の言葉を喋らないのだろうか?
精霊の言葉などケセにわかる筈もなく。
「ヒトカ」
その精霊は自分の胸に手を置いて、もう一度言い、ケセの顔を覗き込む。
「それが……あなたの名前?」
その存在は満面の笑みで頷く。精霊、ヒトカと、再び唇が触れ合いそうになる。
だが、すぐにヒトカは頭を上げた。不可思議な色の髪の毛がさらさらと揺れる。
「助けてくれたんだよね? 有難う、……ヒトカ」
ケセは迷った挙句、敬語も尊称も使わずに、ヒトカに喋りかけた。それが『正しい』事のような気がしたのだ。
ヒトカはまた笑った。
その笑みを、木漏れ日が鮮やかに彩る。
ああ、綺麗だ。
ケセは溜息を吐いた。
なんて綺麗な子なのだろう!
精霊とは、何と美しいものなのだろう!!
ヒトカを見ていると、ケセの胸がうずく。
それは初めて精霊をその目にした喜び故であると思った。
だが、何故かケセはヒトカを懐かしく思う。
「ヒトカ……」
ヒトカが自分の頭を押さえつけるケセの手に触れながら言った。
「ああ、ご免!」
ケセは慌ててヒトカの頭を解放する。
「これでいい?」
「ヒトカ」
ヒトカは頷く。今度は、唇がそう接近する事もなかった。
髪が揺れる。ヒトカの濃い睫毛が、その整った顔に扇の陰を落とす。
ヒトカの手が伸びて、ケセの髪を撫でた。
短く、癖のない金茶の髪の毛が、白い指と遊ぶ。
ケセはそれを心地良く感じた。そしてなぜかそれは温かく、懐かしかった。懐かしいのは何故だろう? 記憶の中の何処にもいない家族と言うものの温もりを想像したことがあるが、その想像に限りなく近い温もりだ。
ヒトカに膝枕されているケセは周囲を見回す。どうやら『精霊の樹海』のようだ。
自分はどうやってシンシンリーを降りてきたのだろう?
ヒトカが、ここまで連れてきてくれたのであろうか? この華奢な精霊が? 自分はいつ、どうして気を失ったのだろう?
考える事が多すぎて、ケセの頭は混乱する。
その時、ケセの髪を弄んでいたヒトカの指が唐突に止まった。
「ヒトカ?」
ケセが呼ぶと、ヒトカの華奢な身体は、前のめりにケセに向かって倒れこんだ。
「ヒトカ!?」
ケセはヒトカの膝の上から自分の頭をどける。前かがみになった身体が、正面に回ったケセから見て左手に倒れた。
ケセは慌ててヒトカの身体を起こす。
顔についた雪と土を払ってやると、奇妙な既視間がケセの胸に生まれた。
ヒトカの肌。処女雪の白。その肌理細かい肌は、世の女性の嫉妬をかきたてるだろう。
赤い唇は、紅でも刷いたかのごとく。
本当に綺麗な精霊だ。
ケセはヒトカを抱き締めた。
自分から誰かを抱き締める事など、もう何年もケセにはなかったような気がする。
だが、ヒトカにはそうしたかった。
どうしてだろう?
それが『自然』であるような感じがした。
温かさが伝わってくる。
その温もりを、かつて自分は知っていたような気がする。
いつ?
自分には七歳以前の記憶が無いのに?
それとも、そのなくした記憶の中には、思わず涙が零れる様な温もりがあったのか?
それは最初両親の温もりだと思ったのだが。
ケセは捨て子だ。捨てるくらいなら温もりを与えたりしなかっただろう。温もりなど。
アイゼックと過ごした短い時間が唯一、幸せと言えようか。あっという間の、本当に僅かな時間だった。その間にケセは嫌われたくない失望されたくない、認められらたいというその思いで良い成績を収めた。
その時間があるから今がある。だが、その時間は刹那の夢。
もう傷つくのは嫌だ。だが、だがしかし。
それでも、例え万の傷を負ってもいいとケセはヒトカと名乗った性別不明の美しい精霊に語りかけた。
「ヒトカ?」
その途端、美しい精霊は眼を見開いたかと思うと何も言わず自らの膝の方に、つまりはケセの頭に倒れかかった。
今度こそ、ヒトカは完全に意識を失った。
何故気を失ったのか、ケセには解らなかった。だがこのまま放置しておくわけにはいかない。ヒトカの隣に、自分のリュックサックを見つけたケセはそれを担ぐと、ヒトカの華奢な体を抱き上げた。
次は、ケセがヒトカを助ける番だった。
もう一度名前を呼んでみるが返事はなかった。それでも心臓は動き、弱いながらも脈拍があった。
助けなければ。
ヒトカは助けてくれたのだ。自分がおびえていてどうする。
◆◆◆
両腕にヒトカを抱いて、ケセは自分の家に戻ってくると、自分の寝室のベッドにヒトカを横たわらせた。
腕が鉛のように重い。精霊は風のように重みがないものだと考えていたケセであったが、考えを改めなくてはならないようだ。
とりあえず、寝室の暖炉に火をおこす。
寒かった。ケセの服はしっとりと濡れており、着替えないと風邪を引きそうだったので、とりあえず着替える。肌着まで換えてすっきりしたところで、ケセは再びヒトカを見やった。ヒトカも肌着を取り換えてやった方がいいだろう。
だが相手は精霊だ、肌を暴く事は途轍もない無礼に当たらないだろうか。
精霊に無礼を働く、その罪を贖う方法は死。
ヒトカの蒼白な顔の中、唇だけが不自然に赤い。
ケセはその唇に、そっと己の人差し指を置いた。柔らかな弾力。
ヒトカとのキスは穢れてはいない。ルービックに強いられたキスとは全く意味が違う。
何故だか衝動的に口づけしたくなった。
だが駄目だ、ヒトカは精霊何だぞ? 神聖なるもの。そう思っていても口づけの欲求は止まることを知らず。
ただ一度、そっと唇を重ねた。
まるで儀式のような。
だけれども、何かが頭から離れない。
精霊の口づけには何か意味があったような気がするのだ。恐らく、気の所為だろうとケセは思う。何故なら精霊の口づけの意味を知っている者が、ただ、精霊を畏怖する人間達の中にいる筈がない。自分が知りようもない知識だ。
しかし、ケセは段々不安になる。
何故、ヒトカは目を覚まさないのだろう?
医者を連れてくる訳にもいかなかった。
ヒトカは人ではないのだから。
額に手を載せると、氷のように冷たい。
ケセは暖炉に向かって呟く。
「もう少しこの部屋を温めて欲しい。お願いだから」
そうケセが口にしたのは気休めだった。
だが、暖炉に踊る火の精霊は、ぱちりと片目を瞑って応える。ケセに見えない事は承知の上で。
だってケセ様は、『あのお方の愛し児』なのですもの。
火の精霊が苦笑する。
人間ごときの言う事など、本来精霊は気紛れにしかきいてやる事はない。
だが、ケセは『特別』なのだ。
子供のように純粋で、人を憎む事が出来ない美しい心の持ち主という、精霊が好む美徳を持ち合わせているだけではなく、『あのお方の愛し児』。
だが、ケセの興味は既に暖炉にはなかった。
ケセの関心の総てはすぐにヒトカに戻る。
ケセはヒトカの口づけで目覚めた。
ならばヒトカは……?
考えて、ケセは苦笑した。
物語のお姫様でもあるまいに。
物語のお姫様ならさっきの口づけで目覚めている筈だ。
ケセの寝室のベッドは大きかった。部屋の面積の殆どをこの寝台と、寝台の横のソファが占めている。
そのソファに座り込み、ケセはヒトカの目覚めを待った。
不思議と空腹は感じない。
自然、意識がヒトカに集中する。
既視感。
昔、この子の目覚めを待った事があるような気がする。何も知らない子の事なのに。
昔の事を考えるとケセの頭痛は止まらなくなる。幼い頃からだ。
七歳の頃からしかない曖昧模糊とした記憶。
「こんな子、わたくしの子供じゃないわ!」
そう叫んだ女の人と。
「取替えっ子が! 呪われるがいい!!」
そう叫んだ男の人。
それからまた記憶は途切れて。
気付いたらルービック家にいた。
ケセが覚えている昔の記憶は、これだけ。
「ヒトカ……どうしたら目覚める?」
『昔』を振り払い、ケセは呟いた。
ケセはヒトカに、認めたくはないが渇望していた温もりをくれた。
その身体が、今は冷たくて。
もし、このままヒトカが死んでしまったならば?
ケセは泣きたい気分だった。
何故、口づけを交わしたとはいえ、出会って間もない精霊に自分はここまで執着するのだろう?
ケセは精霊に逢ってみたいとずっと願っていた。まるで焦がれる様に。
その精霊が今そこにいる。人の持たぬ色彩と清らかな魂。
ずっと逢ってみたかった精霊。ケセの夢。
本物の精霊と出会い、そして……。
本当はそれだけではないのだけれども──それ以上は考えた事がなかったなとケセは苦笑する。
これは奇蹟だ。
只人が精霊に触れること叶うなど、奇跡としか言いようがない。
この精霊の事をもっと知りたい。その声をもう一度聴きたい。そして? そして、そして!?
やがて、ゆっくりとヒトカは目を開けた。
ケセは膝を抱え、その間に顔を埋めていつの間にか転寝をしていた。
ケセもまた疲れ切っていたのだから仕方がない。
しかしケセの姿が死角で見えないでいるヒトカは困惑する。
ケセはどうしたのだろう?
ケセ? ケセは何処?
ヒトカはケセの為に此処に来た。沢山の物を捨ててここに来たというのに、ケセがいない?
ヒトカ様、ケセ様はベッドの横のソファで子供のように転寝なさっていらしてよ。
そう、風の精霊がヒトカに囁き、やっとヒトカは安堵する。
ヒトカは力ない腕を差し伸べた。寝返りを打ち、寝台の端にもぞもぞと移動し、やっとヒトカの手はケセの膝に触れる事が出来た。
びくん、と身を震わせケセが顔を上げる。
「ヒト、カ……? 目覚め、たの……?」
ケセは途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「ヒトカ」
ヒトカはただ一言だけ、唇に乗せる。
そして極上の笑顔。
その笑顔に、ケセの頭からややこしい出来事は総てなくなってしまう。
ケセが手を伸ばすと、ヒトカはその腕を引っ張った。ケセがソファから立ち上がり、寝台に倒れこむ。
そのケセを、ヒトカは抱き締める。
ヒトカの身体はまだ冷たかった。
だが、しがみついている腕の力強さに、ケセは何故か『幸せだ』と思ったのだ。
そして、ケセはヒトカからは緑の匂いがすると思った。森の匂いだ。
そう思った瞬間、ケセはヒトカを抱き締め返していた。
だがその肉体は凍えきっている。やはり着替えさせえるしかないようだった。
ケセはヒトカから離れてクローゼットを開けた。なかなか適当な服が見つからない。
「これに着替えて」
そう言っても首をかしげる精霊の服を仕方なくケセは脱がせていく。
無礼でも、こんなに冷えた身体をしているのにそのままにしておけるわけがない。
罰が当たるというならそれでもいいとケセは思った。
自殺だけはするものかと思う反面、命に執着がない。
ヒトカは一切抵抗しない。そして乾いたバスローブに着替えさせようとして、ケセは息をのむ。
ヒトカはやはり精霊なのだと思い知る。
その幼い身体は女性でもなく、男性でもなく。
人の色彩をしていない時点で精霊であることに間違いはないのだが、やはりこう改めてその神秘を突き付けられると呼吸を忘れる。
腕の中の幼い精霊を稚い、守ってやらなくてはならないもののように感じられる。
身体が冷えているのなら、この体温を分けてやろう。そして、他に出来る事は……?
バスローブを、ケセは少し乱暴にヒトカの華奢な身体に着せかけた。
ヒトカの裸体は美しすぎる。綺麗でいつまでも見ていたい反面、何故か眩暈がした。
「ヒトカ、何か食べるか? 喉は渇いていないか? 精霊はどんなものを食べるんだ?」
「ヒトカ……」
ヒトカはケセから伝わってくる昔と変わらぬひたむきな優しさに返事をしたいと切実に願った。人の世界の言語がこんなに難しいのが口惜しい。
食事は必要ないのだと伝えたい。ケセが御飯を用意してくれても食べられないのだ。
心配してくれて有難うと伝えたい。自分の身を案じてくれて有難うと伝えたい。
だが、ヒトカは己の名前しか言えないのだ。
だからせめて笑顔を作る。ケセに感謝を伝えたくて。
「ヒトカ、笑ってくれるのは嬉しいけれど」
どうすればいいのだ? そうケセは思った。
おまけに、その無防備な微笑みは反則だと思うのだ。
自分と違って悪い人間にヒトカが捕まったら……こんな無防備な精霊、汚い心の持ち主なら目茶苦茶にしてしまうのではなかろうか。
「少しは警戒心を持てよ」
ケセはそう言いながら、ヒトカに手を伸ばすと、ヒトカはその腕の中に飛び込んだ。
そしてその日から、二人の生活が始まったのである。