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涙の後を辿りて  作者: 古都里
ケセの章
1/6

一 邂逅~彼女が告げる始まり~前編

 クーセル村から徒歩で一時間程離れた距離の場所に、ケセの家はあった。しかし、その一時間というのは天気の良い、今のような冬以外の季節の事である。


 霊山シンシンリー。


 その山は、高く、険しく、美しく、神秘的である故に、神住まりの山、霊山として讃えられ、麓に広がる大地に扇状の村を形成した。それがクーセル村である。

 そこから少し行った所から樹海が広がる。ケセの家は樹海の入り口にあった。

 クーセル村の人間は、決して立ち入らない。豊かな森であるというのに。

 

 その森は『精霊の樹海』と呼ばれていた。

 一度迷い込んだら、二度とは出て来られないのだよ。

 人々が口伝えで伝える神秘。


 だがケセは恐れない。ケセに恐れるものがあるとすればそれは人間であり精霊ではない。

 ケセは『精霊の樹海』にもシンシンリーにも平気で足を向ける。そして、自然の豊かな恵みに感謝して、果物や、時には鳥、兎などの肉を持ち帰る。

 精霊に感謝の言葉を忘れずに。


 クーセル村の人間はその事を知っているのか知らないのか、ケセには窺いしれなかった。

 時折、日用品を買いに行く以外、ケセはクーセル村には足を向けなかったからである。


 ケセの生い立ちを知る者達は彼を『恩知らず!』と罵る。

 だが、ケセはケセなりに恩を返しているつもりだった。そんなケセに、人々は何処までも強欲だった。


 ケセの手は骨ばっていた。爪は短く切りそろえられ、普段であれば清潔であったがコンテの粉が悪戯をしている今、不潔というよりかは鮮やかに見えた。

 ケセはその日、溜息を吐きながら雪名残草ゆきなごりそうの模写をしていた。

 楽しいような楽しくないような複雑な気分。

 美しい花を見ても、いつものようには心が浮き立たない。

 それでもその手が止まることはなかった。琥珀の瞳は愛する人を見つめるように真剣に見開かれ、瞬くことすら忘れたよう。その瞳を縁取る長い金のまつ毛は微かに震えていた。

 風が、ケセの邪魔をしない程度に吹く。金茶色の髪を愛撫する。


 彼は一冊の絵本を作る事になっていた。

 村長のルービックの家に身を寄せている地方貴族の令嬢の為に。

 正直、気の乗らない仕事であった。

 ルービックが絡んでいるが故に憂鬱だった。

 だが、断る事の出来ない仕事だった。

 ルービックの言葉に、ケセは逆らう事が出来ない。未だに。


 ケセは新進気鋭の絵本作家であり、童話作家であった。それはその道の大家アイゼックの認めるところでもある。なぜならケセの才能を発掘したのは他ならぬアイゼックその人であったから。

 アイゼックがいなかったらどうなっていただろう? そう思うとケセの背中を生暖かい汗が伝う。

 自分で稼ぐ道も見つけられず、永遠に奴隷であったに違いない


 雪の下で、雪を持ち上げるようにして咲く花。雪名残草。それをケセのようだといったのはアイゼックだった。


 雪名残草は美しい。

 別名、口づけ草。

 真っ白な花弁に赤が散る故だ。その赤を口紅だと想像したこの国の人間はロマンチストだとケセは思う。そうして、ケセは苦笑する。

 自分もそのロマンチストなのだ。

 雪名残草の赤を血の赤だと捉える国もあるそうだが、ケセにはこんな綺麗な血は想像できない。


 血はもっと、残酷なものだ。

 そして醜悪なものだ。


 ケセがそう思うのには理由がある。

 昔、酷く鞭打たれ長靴での蹴りをくらい、血を流す夜が続いたからだ。ケセに血を流させた者達は、その血の後始末もケセに命じた。

 今、ケセを鞭打つものは誰もいない。

 だが、傷は傷として残る。

 決して消えないもの。


 ふわふわと、雪が舞い始めた。


「帰ろうか」


 誰に聞かせる訳でもなく、ケセは呟いた。

 だが、シンシンリーは聴いている。

 山の天候は変わりやすい。ケセはしっかりとスケッチブックとコンテを入れたリュックサックを背負った。


「有難う、シンシンリー。帰ります」


 深々と、ケセは頭を下げる。シンシンリーとシンシンリーの総ての精霊達に。


 ケセは歩き始める。

 硬い根雪と今降り始めたばかりの雪の音がケセの耳を楽しませる。

 本当は怖いと思わなくてはならないのだろう。そう、『普通の人間』なら。だが、ケセはシンシンリーが自分を傷つけることなど無いと信じていた。慢心していた訳ではない。侮っていた訳でもない。ただ、解るのだ。


 想いと想いは通い合う。


 シンシンリーはケセを愛していたし、ケセもシンシンリーを愛していた。


 だが、その日。

 それは全く、唐突な出来事だった。

 何が起きたのか、一瞬理解出来なかった。

 それ程突然な事。踵を返したところだった。

 歩き始めていたケセの身体がびくんと跳ね、大地に膝を着き、そしてそのまま倒れた。リュックサックが派手な音を立てたのも、ケセの耳には聞こえない。


 割れそうに頭が痛かった。

 頭の中で都の大聖堂の鐘が、一斉に鳴り響いているような錯覚。


 思わず閉じてしまった瞼の裏は血の色。

 目を開けなければならない。

 何が起きたのか、把握しなくては!!


 パニックに陥らないのは、ケセが物書きだからだ。この経験でさえ、何かのシーンに使えるのではないかと思ってしまうケセの物書き根性だった。


 何が起きた? 僕の身に何が起きた?

 頭の中の鐘楼はまだ響き続けており、ケセは気が遠くなりそうなのを精一杯堪える。涙が滲みそうだった。


「流石」


 突然、右上から少女の声が降ってきた。宙に浮いているのだろう。だが、人間が宙に浮かぶことなど出来る筈が無い。幻覚幻聴の類か?

 それに、『少女』?

 本当にそう呼んでも良いのだろうか?


 しゃらり。


 衣擦れの音がする。

 少女が、痙攣しながらも状況を見極めようとするケセに触れた。。

 その瞬間、消えた頭痛。

 自覚の無いまま、いつの間にか痙攣を起こしていたケセの身体はだらりと地面に投げ出された。


 ケセは必死で目を開ける。両腕で地面を押すようにして半身を起こし、そして瞬きする事を忘れた。

 白の雪嵐の中に君臨していた少女を漸く見る事叶ったのであるが、だが、しかし!

 少女は笑った。

 淫靡とも清楚とも取れる笑顔。

 それをケセは見た事があると思った。



 美しすぎる異形。



 純白の雪の髪は緩やかにうねり雪の上を引きずる。銀の睫毛は色がないのに鮮やかであった。雪の結晶をちりばめてあったからかも知れぬ。その睫毛が守るは緑の瞳。シンシンリーの雪解けの季節の色だ。その耳朶に青の宝玉を飾り、それ以外の装飾品は一切身につけず、白い姫袖のドレスを着ている。幼い、少女。

 しかしケセは本能的に悟る。この少女の見た目に騙されてはならない。


 赤い唇がにぃっと笑った。


「ほう、妾の面影、覚えておったか。流石は妾がめぐ。愛い奴。そなたに聞いてみたくての、妾は少し、そなたの痛覚神経を弄ったのじゃ。許せ。しかし妾は、嘘や強がり、詭弁を聞きとうない。妾は、ただそなたに尋ねたい。十四年前の言葉、そなたが覚えておる筈も無いが、あえて聞こう。妾の申し出を断って、人の世に生き、そなた、幸せか?」


「し…あわ、せ?」


 ケセは思わず問い返す。

 少女が頷く。ケセのおとがいに指をかけ、持ち上げながら。


 白い雪が、はらはらはぁらり。自分と少女との間で踊る。

 ケセはその花弁のような雪を見て、笑った。


 見よ、世界はこんなにも美しい。


 そしてこの美しい世界で生きる事が出来て幸せだとケセは思った。


 琥珀の瞳で少女の瞳を見つめ返す。

 もう死んだ方が良いと思った幾つもの夜。

 嗚呼、そんな夜も確かにあった。

 それもまごう事なきケセの真実であったけれども。

 

 それでも僕は……!


「幸せ…だッ!!」


「その言葉に偽り無し」


 少女はケセの顎を解放する。その瞬間、雪の大地と接吻する羽目に陥ったケセを見やり、少女はからからと笑った。


「今度こそ、と、思ったのにのぅ。ならば妾は愛し児をふたり、共に失う事になるのか。口惜しや。ああ、そなたはもう何も考えるな。考えたところで思い出せはすまい。頭が痛くなるだけであろう。それより、眠るが良い。白の揺籃はそなたを傷つける事はない。総ては夢ぞ。そなたはシンシンリーで二度目の夢の始まりにたどり着いたのじゃ」



 そう、二度目の夢。

 シンシンリーの女王が贈る二度目の夢。

 だが、行き着く先は愛し児たちが決める事。


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