村への誘い
霜が降りている朝。
草花の表面が薄らと凍てつく白ずむ世界に響く、朝を知らせる鳥の鳴き声。それは歓喜の咆哮。
あの夜を、生命すら凍りつく極寒の夜を乗り越えたんだと言う鳥達の高らかなる歓喜。
寄合わさり、暖を取り、互いに命の脈動を感じながら過ごした長い夜の終わりは犠牲を伴い訪れた。地に落ちている、昨日までは元気だった鳥。 もう、生命の気配はない。弱き者は自然に淘汰された。
やがて朝日が木々の隙間に差し込み、霜が溶けゆく頃に、鳥達は活力の源の食料を求めて木々の隙間を縫うように飛び去っていった。
残された死骸には、いつしか虫が群がっていた。
虫達も、生きる為に糧を得る。
そうして、この森は循環している。
ミシミシミシ
風に煽られる枝葉の音とは別の、何か別の音。
少なくともこの森由来の音ではない事は確か。
ミシミシミシ
ミシミシミシ
ミシミシミシ
地に据え付けられた二本の台木が森の奥にある。
垂直に立てられた二本の台木は先端が二股に分かれていて、長い丸木が五メートルに渡り掛けられていた。
ミシミシミシ
そう音が鳴る度に地面に液体が落ちる。それは体液だった。
掛けられた五メートルの木に結ばれた複数の縄、その下部にて吊るされる土木工事用の作業服を着た人間達から滴る体液。
音の正体は、吊るされた人間達が風に煽られ動く音だった。
だらしなく、無気力に揺れる人間達。
ふらふらと、人形のように力なく。
たくさんの人間が、森の奥に吊るされていた。
やがて、飛来する黒い鳥が一つの死体の頭に止まった。 黒い鳥は忙しなく首を動かすと、位置を変える為に、人間の顔に鋭い爪を立てた。そして、一番柔らかい目玉を啄み、グチュグチュと貪り、満足した黒い鳥は飛び去った。
これもまた、循環の形。命が別の命の助けとなる、始原の時代からの理。
その様子を遠くから見ていた幼い姉妹は、その場にて力なくへたり込む。気付くと、下腹部が濡れている。そんな事も気にせずに、姉妹は青ざめて吐瀉物を吐き散らした。
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壬生姫千尋が眠りについてから三時間が経過した。その間も移動を続けていた車は現在、首都高を超えて280キロ先にある北東の山間部を走っていた。
錆びれた標識、朽ちて無人化した古民家、海のように深く先の見えない樹海。まるで日本から遠ざかっているような道はやがて狭く険しくなり、舗装路は途絶えて砂利道が現れる。 誰も知らないような道、だが車は依然として明確な目的地を目指していた。
やがて、月の白光すら差し込まぬ樹海の中に到着した車は、役目を終えたかのようにちょうどガソリンが切れその場で停止した。しばらくの沈黙。
夏だというのにセミの鳴き声すら、それどころか生物の気配すらない樹海は、あまりにも良くない空気が漂っていた。 そんな降りることが憚られるような、重く淀んだ空気が蟠る地に、男が無遠慮に足を踏み入れる。 男の名は櫻井智治。 千尋の彼氏である櫻井智治は、まるで幽鬼のような足取りでふらふらと、深淵の彼方へと歩いていった。まるで、何かに憑かれているように危うげな足取りで。
智治の姿が消えて二十分後。あまりの寒さに目が覚めた千尋は身を震わせていた。
クールビズを採用した社服は肌の露出が多く、夏は涼しい事で定評なのだが、この場所に限って言えばその服装はあまりにも寒すぎた。
故に千尋は震えている──のではなかった。
一重に恐怖、それだけの理由。
千尋はこの閉塞的な空気に懐かしさと恐怖を感じていた。 しかし、もしかしたら勘違いかもしれない。この広い世界、似たような場所だっていくつもある筈、などと自分に言い聞かせて恐怖に打ち克とうとする千尋は身震いする手で車のドアを開けると、引けた腰で周囲の散策を始めた。智治がいないことも気がかりな千尋は、震える声音で智治の名を呼びながら少しづつ、少しづつ樹海の先へと歩みを進める。 時折スマホのライトが点いたり消えたりして不安を煽るが、不思議と歩みは進むべき道筋を知っているように、迷うことなくある場所へと千尋を誘った。
そこは樹海の中にある小さな広場だった。
その昔、まだカニバリズムが盛んだった頃に、人間を吊るして天日干しにする為の大きな二本の台木と、横に据え付けられた丸木は健在だった。
吊るされた複数の糸は風に煽られクルクルと回っていた。 糸の足元を見ると白骨化した人間の骨が散乱しておりカニバリズムの存在を、そして事実を千尋に突きつける。
「…ぃ、ャ」
カラスのおどろおどろしい鳴き声が響く。昼行性だというのにけたたましく鳴く大量のカラス。木々はざわめき枯れ葉がカラカラと舞い上がる。
まるで千尋を樹海が出迎えているような、歓喜のオーケストラを踏みにじる、千尋の恐怖の叫びが、廃村となって久しい夜也神村に響き渡った。