――3――*
僕は、走っていた。目的地があるわけはなく、必死に息を切らして、肺を苦しめて、腹を痛めてでも足を止めず、僕は走っていた。否、僕は逃げていた。
大声で怒鳴り散らしながら追いかけてくるソイツ。何を言ってるのかなんて聞き取る余裕はない。とにかく逃げなければいけないと分かっている。捕まったら一生の終わり。ソイツは、そこそこ有名な殺人鬼だった。
連続殺人鬼としてニュースになっていた。僕は知っているのだ。数ヶ月前から、県内で殺人が多発していること。指名手配として顔写真が出回っていること。出身校や年齢など、事細かな個人情報が公に晒され、昔のクラスメイト等に取材がいったこと。
だから、とにかく僕は逃げなくてはいけない。走って走って、足を止めてはならない。捕まったらきっと僕も殺されてしまう。そんなのは嫌だ。絶対に捕まりたくない。平凡な日常にこんな刺激なんかいらない。ようやく手に入れた日常を壊されたくなんてない。
「止まりなさい!」
叫び声が、初めてはっきり聞こえた。でも、誰が止まってなんかやるもんか。殺人鬼なんかの言うことを素直に聞く馬鹿なんて、どこにいるというのか。ソイツは右手に鋭いナイフを持っていた。捕まったら、体中、穴だらけにされてしまう。
公園を通り抜けて、学校の前を通過して、街中を駆け抜ける。どこまでも着いてくる殺人鬼。いい加減諦めたら良い。どうして、そんなに僕を殺そうと執着するんだ。殺せる人間なんて、そこら中に沢山いる。僕だけを執拗に狙う理由なんか無いのに。
あぁでも、いい加減に疲れてきた。足も腹も肺も心臓も驚いている。急にこんなに走って、酷使して、体が気持ちに着いて来られてないのを実感している。こんな目に合うのなら、日頃からちゃんと運動しておけば良かった。毎日体力作りだとか、筋トレだとかしておけば、今こんなに苦しんでいなかっただろう。
そもそも、僕が殺人鬼に狙われる理由が分からない。中の下くらいの顔に普通の体型、教室の隅でスマホ弄ってそうな暗めの雰囲気で、更に男だ。これのどこに狙われる理由がある?
早く解放してほしい。狙いを変えてほしい。そこらへんにいる通行人でも、小学生でもいい。とにかく僕を逃がせてくれ。もう走りたくない。足を止めたい。
一片の希望を持って後ろを振り向いた。相変わらずソイツはナイフを片手に、真っ直ぐに僕だけを見て追いかけてきていた。しかし最初よりも距離が圧倒的に縮まっている。捕まってしまうのも時間の問題だろう。どうにかして巻かなければ――
――ドン、と重い衝撃が全身に響いた。車のクラクションが遅れて響き渡る。ゆっくりとソイツの姿がぐらりと歪んだと思うと、目まぐるしく世界が回転した。頭と肩と腕と腰と足と、あちこちが強く打ち付けられた。最後は腕から鈍い音が聞こえて、動きが止まった。
何が起こったのか、よく分からない。ゆらゆらと揺れている視界の中、目を凝らす。灰色の世界。
「大丈夫ですか!!」
知らない人の声。肩が叩かれているのは分かるけど、反応する力は出てこない。殺人鬼に、捕まってしまう。動かなきゃ。動いて、逃げなきゃ。殺されてしまう。死んでしまう。
青い服と青い帽子を身にまとった、如何にも警察官、な姿がぼんやりと目に映る。手には、何だろう。鎖のような物を持っているけど、よく見えない。視界に、どんどんと霧がかかっていく。息を吸っている筈なのに、息ができない。体のどこにも力は入らない。
そういえば、今、殺人鬼はどこにいるかと、目だけを動かして探す。しかしその姿は見当たらない。目の前に転がっている銀の物は、確かに殺人鬼が持っていたものだった。つまり、殺人鬼は近くにいる。でも、もう逃げられない。諦めるしかない。
心臓が脈を打つ速度に合わせて、赤い水溜りが自分から広がっていくのが確認できた。
あぁ、そうだ。これは現実だったんだ。そしてきっと、殺人鬼に追いかけられたりなんかしていなかった。
僕は静かに、閉じていく意識に身を任せた。
――あーあ。俺のおかげで、やっと望んだ日常を手に入れたくせに。