――1――*
布が擦れる音も、人の足音も、更には呼吸音でさえも、まるで暗闇の中に置いていかれたような静寂だった。自分の意識が、どこか遠くからそんな黒い箱の世界を、見つめているように感じる。
僕は、誰かを探していた。繰り返し、繰り返し、諦めずに誰かの名前を呼んでいるが、応える声は無い。 更に、僕自身が発している言葉の筈なのに、名前はどうしてかボヤけて上手く聞き取れなかった。
心臓がバクバクと騒ぎ立てる音だけが、はっきりと感じられる。全身が大きく脈打つようだ。手足は小刻みに震え、吸い込んでる酸素は極めて薄く思えた。吸っても吸っても、酸素が足りない。息苦しくて、涙が浮かんできた。それと同時に、言い表せない巨大な不安が僕を支配する。
どうにかしなければ、と。早くしなければ、と。何かに対して焦っていた。
一度、気持ちを落ち着けようとして深呼吸をした。膝をついて、右手を胸にあてて、僕は大丈夫だと呟いてみて。でも流れ出る涙は、意思と反して頰を伝っていくだけだ。
「お願いだ……もう、返してくれ……」
不意に僕の口をついたのは、力無いそんな言葉だった。何故こんなことを言ったのか、僕自身分からなかった。でもそう呟くことで、ほんの僅かに体が軽くなった気がした。
不安も少し治ったが、今度は諦めの感情が出てきた。どうでもいいや、と家族との関わりを投げ出した、学生の頃の気持ちに近い。僕一人がどれだけ頑張っても何も変わらない。そのことに気付いてしまったときのような。
そうだ。僕は何を焦って、不安に思っていたのだろうか。僕だけじゃ、何も出来ないくせに。ゆっくりと静かに、重力に引かれるように暗い床へ横になった。涙はまだ乾ききっていないけど、この状況に、さっきまでの焦りと不安に、疲れてしまった。
浅く息を吐き出すと共に目を瞑る。
その瞬間、突然地面が消えた。
内臓だけが上に取り残されたみたいに、ズンとした重い感覚を全身に感じながら、僕は一瞬にして急降下を始める。折角落ち着きだした僕は、悲鳴を喉に構えたまま目を開けた。*
……視界に映ったのは、見慣れた白い天井だった。落下している感覚も、黒い箱の世界も、もう存在していない。心臓だけが余韻に浸って、煩く動いていた。一拍置いて、ほっとする。
あぁ、良かった。あれは夢だったんだ。