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ロールキャベツを作ろうと思ったのは、女子力を見せつけたかったからではない。いかにも家庭的なところを見せたかったわけでもないし、それが彼の好物だったわけでもない。
横に置いてあったビニール袋にはおさまらず、上の皮を何枚かむくこともせずそのまま買い物袋の一番下に入れた春キャベツを取り出すと、そっと逆さの状態でまな板に置いた。以前一人暮らしをしていたこともあって料理はそれなりにできる。しかし私は毎回スマ
ートフォンで事細かに調べる。野菜の選び方や洗い方、部位に合った調理法。画面が暗くならないよう点灯時間を長めに設定して、常に見える場所に置く。
調べた通り、キャベツの芯に斜めから切り込みをいれてくり抜くと、蛇口をひねって水をそこへ流し込んだ。水力に任せながら一枚一枚そっと芯から葉をめくってゆく。親指に力を入れて根本をぐっと開けると、ゆっくりかぱっと従順にそれははがれる。
もう一つ、私がロールキャベツを作ろうと思ったのは、決して、彼の奥さんにとってかわろうとか打ち勝とうとか、そういったことでもない。
離れればいずれ忘れる。人との出会いなんてどこへいったっていくらでもある。日々の生活の中に姿形のないものの存在は、どうしても在るものには勝てず薄れていく。まして、若いころの一時的な感情によるものなど誰も信用しない。
でも私は違った。
大きな鍋にたっぷりと水を入れ沸かすと、一枚一枚丁寧に素早く茹でてゆく。それまではわからなかった、その新鮮な緑色が一瞬にして浮かび上がり、それを失わぬ様ボールに用意した冷水にそれを沈める。
それは本当に、美しい。
彼と四年ぶりに再会したのは私が一時的に帰郷した時だった。全ての講義が終わり、卒業論文の提出と口頭試問を済ませた私は卒業前に一度先に実家へ帰ることがあった。県外の生活で増えた家具や洋服を以前住んでいた部屋に取り入れる前に、その部屋の片付けと
掃除が必要だったのだ。
私がいない間そこは家族の物置と化していて、兄が一冬だけはまったカラフルなスノーボードや妹の高校か中学かわからない時の教科書やプリント類が散らばっていた。クローゼットには何も考えずにただ着ていたのかと疑いたくなる程趣味の悪いもこもこしたニットがぶら下がっていたし、高校の制服も夏冬合わせてそのままかけてあった。
その部屋の大掃除を考えると気も体も重くなったが、それよりも嫌だったのは、地元の駅に降り立つことだった。大阪にいたときもそうだったが、帰郷で重いキャリーバッグをおろしながら、毎度深いため息がこぼれる。
「あぁ、ここに戻ってきてしまったか」
ついそんな風に思ってしまう。確認することもなく捨てるように切符を駅員さんに渡すとすぐに人波に紛れる。学生、サラリーマン、同じように帰ってきたもの、同じように旅立つもの、それを迎えるもの、送りだすもの、立場や目的は違えど皆ここの者だった。パ
ッポーパッポーと鳴って「ええい」と奇妙に呼ぶ歩行者信号もそのままで、ぎゅうぎゅうに一列駅に寄せて並ぶ車も同じ、勿論坂の上に見える夕日も同じだ。いつもいつも同じそれらに囲まれて、昔と何ら変わらないかのように私がその空間に溶け込んでしまうのが嫌だった。