1 想像と妄想と始まり
私はごく一般的な普通の家系に生まれた。父と母と祖母の四人暮らしで、まぁ少しだけ裕福だったとも言える。
父はよく私のことを小さい頃から自慢していた。そのお陰か、自分も父の誇る部分だけ威張っていた。なんでも知ったような口振りをしていたのだ。今でもその癖は抜けない。
その代わり母は、あまり私に関心がなく自分に恥をかかされなければそれでいいと言う考え。父もそうだが、我が家にはそういった点が幾つもあった。
やはり、幾ら身内だろうが恥は免れたいのだ。
それは理解出来る。だが、一番似たくない人物が一人いた。それは祖母だ。
祖母はいつも自分を自慢し、他人をこき使い、自分がどう楽を出来るかを考える名人でもあった。
それだけでも腹がたつと言うのに私はみんなのことをよく見ているんだよぅと言わんばかりに、他人を心にも篭っていない声音で褒めるのだ。
自分の思い通りに行かなければ直ぐに他人のせいにする。まさに、お嬢様。人間の負の欠けらの様な存在だと、幼いながらに認識する様になった。
そんな私は物心付く前から家にいるのが苦痛で家族と話すのが苦手だった。まず、話す話題がないのだ。
家では食事中もテレビを付けているせいか誰も喋ろうとしない。そんな我が家の裏家訓は【知らないのはしょうがない。だが、出来て当たり前】だ。
つくづく腹が立つ。
けれど、私にはまだ恐ろしいことがあったのだ。
それは、日が経つにつれ夕日が沈むの同じこととして、私はさも当たり前の様に似たくもない《彼ら》に似て来るのだ。
嫌だった。
あんな人間にはなりたくないと思っていたのに、私には自分の理想の性格と行動が未来で約束されているはずだったのに、それが粉々になったのだ。
幼いながらにそれを自覚した私は、絶望した。この世で真の絶望を味わった気分だった。もう、そのことに気付いた時には手遅れで、修復不可能だった。
けれど、そんな私にも神様は何かの希望を用意してくれていた。
当時の私の生き甲斐。それは世に言う【想像】、【妄想】だった。
これは私の最初の友、人生の友とも言える。
それからは歩いても、バスに乗っても、寝ていても、誰かと話していても、常に妄想と隣り合わせの世界に座っている様になった。本当にどんなことを考えたかは覚えていないが、どんな時間でも楽しかったことだけは確かだ。
そんな私は訳あって、私立の幼稚園に入学することとなった。
理由としては、近所のおばさま方が祖母達を超えるほどの負の塊だったからだ。
そうして私は引っ越した。3歳の時だった。
この頃の私は、かなりの頭の良い子と思われていた。はっきり言うと小さい頃からそう言う振る舞い方が上手かったのだ。また、その事と同時に頭が良く質の良い子と言う事が両親達の願いだった。
けれどどんな人であれ、失敗や後悔は生まれるものだ。
勿論、私も大いに経験した。
記憶に残っている中で最初の失敗は、想像は現実と繋がっていると思い込んでいた事だ。
当時、私は幾つかの考えで脳内を埋め尽くしていた。妄想とは変わりないが、生まれて初めて見知ったキャラクターを自分の意思で動かす楽しさを知ったのだ。
そして、私の脳内に電撃のようなきっかけを与えたのは、このくだらない人生で唯一の命の泉となる《アニメ》だった。
生まれて初めて見た作品達は、私の目と心と人生を決めた様なもの。そしてそのお陰で様々な友人達と出会う事となった。
小さい頃に良く見たアニメと言えばとにかく多い。
一つ目は《NHKのぜんまいざむらい》だろう。
年少組の時によく友人とその事について話した事が記憶に残っている。暖かく、懐かしい物だ。
二つ目は《ヤッターマン》
年中組の時に最も流行ったアニメだ。
今でももう一度見たいと思わせてくれる作品。幼い頃に話すことが苦手だった私に初めて男子と遊ぶきっかけをくれた。
三つ目は《キム・ポッシブル》
あの初めて見た時の驚きと感動は今もなお忘れていない。これが私の原点だったとも言え、主人公が華麗な運動神経で悪と対峙し、仲間たちとも共に頑張っていくという、斬新で可憐でそれまでに見たアニメーションとは全く違う発想が全身を揺さぶった。
あれからというもの『強い主人公』、『正義』が頭から離れなかった。その為か、今まで以上に想像する頻度が上がっていった。
だが、小さい頃はそれが普通だと思っていた。それが、誇りだった。
「私はのこの考えだけは誰にも真似できない」
このレッテルを掲げていた。
けれど、ある日唐突にそれは違うと理解してしまったのだ。そしてそれと同時に、ますます妄想の度合いはヒートアップし始めていった。
それはとある出会いがきっかけだった。
私の人生を変えた人物の一人目。
彼女が最初の灯火だった。
最初の灯火は、初めて見る一つの人から発せられた希望でした。
まだ女神様が出てくるのはしばらく先ですが、この後順を追って出てきますよ!