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第七章 蒼翼の皇女ナディール

 中央調律局の白い石段を下りたところで、風が止まった。

 正確には、止まったように感じた。ゼフィ=ラウの風は、どこかしらで必ず流れている。空中都市そのものを支える風、回廊を渡る風、神殿の歌に合わせて整えられた風、下層の排風路から吹き上がる油と金属の匂いを含んだ風。そのすべてが、一瞬だけ息を潜めたように静まった。

 クラウディアが足を止めた。

 ウィンディも、いつもの調子で何か言いかけて口を閉じる。

 セイは遅れて気づいた。

 空中回廊の向こうから、白と蒼の衣をまとった一団が来る。

 先頭を歩くのは、蒼銀の羽を持つ少女だった。

 年はセイより少し上に見える。背は高くない。けれど、彼女が歩くと、周囲の空気が自然に道を空けた。薄い白銀の髪は風に乱れず、頭には蒼風石をあしらった細い冠が載っている。衣は白を基調に、裾や袖に淡い蒼の刺繍が施されていた。背の羽は大きく、光を受けるたびに銀と青のあいだを揺れる。

 美しい。

 その言葉が最初に浮かんだ。

 だが、ただの美しさではなかった。

 ゼフィ=ラウそのものが形を取って歩いているようだった。雲海、風車塔、蒼風石、風歌の神殿。空中都市が自分たちの正しさを誰か一人に背負わせるなら、きっと彼女のような姿になる。

 周囲のセイレーンたちが頭を下げる。

 役人たちも、神官も、通りがかった上層の人々も。さっきまでクラウディアを「黒羽の魔導師」と呼んでいた調律局の役人でさえ、慌てて背筋を伸ばした。

「ナディール殿下」

 誰かがそう呼んだ。

 蒼翼の皇女。

 空中都市ゼフィ=ラウの継承者。

 彼女は一団を伴って近づき、セイたちの前で足を止めた。

 その瞳は、澄んだ銀青色をしていた。

「騒ぎがあったと聞きました」

 声はやわらかく、よく通った。

 怒鳴っているわけではない。けれど、その一言で周囲が静まる。

 役人が一歩前へ出た。

「殿下。黒羽の魔導師が、蒼風石中枢の異常を理由に下層排風路の調査を求めています。すでに正式手続きに沿うようお伝えしましたが」

 黒羽の魔導師。

 また、その呼び方だった。

 クラウディアの表情は動かない。

 だが、セイはもう、その静けさが傷ついていない証ではないことを知っている。

 ナディールの視線が、役人からクラウディアへ移った。

 ほんの一瞬、彼女の表情が揺れた。

 公の場に立つ皇女の顔から、妹の顔が覗きかけたように見えた。

 だが、それはすぐに消えた。

「クラウディア」

 ナディールは名前で呼んだ。

 それだけで、役人たちの間に小さな緊張が走る。

「あなたが異常を観測したのですね」

「はい、殿下」

 クラウディアは深く礼をした。

 その姿は完璧だった。

 礼儀正しく、距離があり、皇女に対する魔導師の礼。

 ナディールはそれを見て、わずかに唇を引き結んだ。

「数値を見せてください」

「こちらに」

 クラウディアは硝子盤を差し出した。

 役人が何か言いかけたが、ナディールが手で制した。

 硝子盤に、ゼフィ=ラウの風構文図が浮かぶ。蒼い線が都市の基盤を巡り、中央の蒼風塔から下層の排風路へ流れている。問題の箇所は、先ほど工房で見た時よりもわずかに乱れていた。線が細く震え、下層側へ負荷が落ちている。

 ナディールはそれを真剣に見つめた。

 ただ眺めるのではない。意味を読み取ろうとしている。

「……第三排風路だけではありませんね。第二支線にも乱れがあります」

 クラウディアの目が少しだけ動いた。

「お気づきですか」

「王家の風歌は、正しい風を読むためのものです。乱れを読むことは、あなたほど得意ではありませんが」

 その言葉に、周囲の何人かが小さくざわついた。

 皇女が、黒い羽の魔導師の能力を認めた。

 だが、そのざわめきには称賛よりも戸惑いが多かった。

 ナディールは硝子盤から顔を上げる。

「調査は必要です」

 役人が慌てて口を開いた。

「殿下、しかし、正式な手続きを経ずに下層排風路へ黒羽の――」

「クラウディアです」

 ナディールの声は静かだった。

 だが、その一言で役人は黙った。

「彼女の名はクラウディア。調律局が報告者を記録するなら、名前で記してください」

 セイは、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。

 ナディールはクラウディアの名を呼んだ。

 役人に訂正した。

 それは、確かに正しいことに見えた。

 だが、隣のクラウディアの表情は変わらなかった。

 ナディールは続ける。

「私の名で、下層排風路の臨時調査を許可します。同行者は、クラウディア、ウィンディ、そして――」

 彼女の視線が、セイたちへ移った。

 初めて真正面から見られ、セイは少し身構えた。

 ナディールは丁寧に頭を下げる。

「あなた方が、ウィンディが地上からお連れした旅人ですね。ご挨拶が遅れました。私はナディール・リュフト=ゼフィリア。蒼風都市ゼフィ=ラウの継承者です」

 皇女が、旅人に頭を下げた。

 周囲がまたざわつく。

 セイは慌てた。

「あ、えっと、僕はセイです」

「ボクはファティマ」

 ファティマは胸を張りかけて、ナディールの蒼銀の羽を見て、少しだけ姿勢を直した。

「魔本のファティマ。でも、危険物扱いはほどほどにお願いします」

 ナディールは少し驚いたように瞬きし、それから柔らかく微笑んだ。

「分かりました。あなたを物として扱わないよう、気をつけます」

 ファティマは、予想外の返事に耳を動かした。

「……丁寧な人だ」

 アズィーザが横から軽く手を上げる。

「しがない旅人で、ちょっとばかり手癖の悪い女、アズィーザだよ。殿下の前では、まだ何も盗ってない」

 役人たちが一斉に警戒した。

 ナディールは一瞬だけ言葉を失ったが、すぐに微笑みを整える。

「正直な自己紹介に感謝します。できれば、今後も何も盗らないでいただけると助かります」

「努力するよ」

「約束ではないのですね」

「怪盗に約束を求めると、だいたい話が長くなる」

「では、短く済むよう見張りをつけましょう」

 ナディールは穏やかに言った。

 アズィーザが少しだけ目を丸くし、それから愉快そうに笑う。

「いいねえ。上品なのに油断がない」

「皇女ですので」

「皇女って便利な答えだね」

「便利である分、重い答えでもあります」

 その返しに、セイは少し驚いた。

 ナディールはただ柔らかいだけではない。自分の立場が何を意味するか、少なくとも考えようとしている。

 ウィンディが手を上げた。

「殿下、俺の発明も見ましたか。三十八号改二、無事に地上から旅人を連れてきました」

「見ました」

 ナディールはウィンディへ向き直った。

 表情は丁寧なままだが、少しだけ厳しくなる。

「着空場の誘導灯に接触しかけたことも、報告を受けています」

「倒してはいません」

「倒さなければよい、というものではありません。都市へ未登録の飛行機械で進入することは危険です。あなたの夢は理解しています。ですが、夢のために都市の安全を軽く扱うことは許されません」

 ウィンディは頭をかいた。

「耳が痛いな」

「痛いだけで済むうちに聞いてください」

「でも、完全に否定はしないんですね」

 セイが思わず言うと、ナディールは彼を見た。

「否定すべきではないと思っています」

 彼女の声は、少しだけ柔らかくなった。

「地上と空を行き来できる道を作ること。その願いは、この都市に必要です。けれど、願いが正しいからといって、手段が危険でよいわけではありません」

 セイの胸に、その言葉が残った。

 願いが正しいからといって、手段が危険でよいわけではない。

 ハナンのことを思い出す。

 救いたいという願いが、禁書に触れて町を呑みかけた。

 ウィンディの発明は、セシルの祈りとは違う。道を作るものだ。けれど、未完成の道が誰かを落とすこともある。

 ナディールの言葉は、善意を否定するものではなかった。

 だからこそ、まっすぐ届いた。

「殿下」

 クラウディアが静かに言った。

「排風路の調査を許可してくださるなら、早く向かうべきです」

「分かっています」

 ナディールは頷いた。

「私も同行します」

 今度はクラウディアが止まった。

「殿下が下層排風路へ降りる必要はありません」

「必要があります。都市の異常です。継承者として確認します」

「危険です」

「危険だからこそ、あなた方だけに任せるわけにはいきません」

 ナディールの言葉は正しいように聞こえた。

 だが、クラウディアの肩布の下で、黒い羽がわずかに動いた。

「私たちは調査のために向かいます。殿下が同行されれば、調査ではなく皇女視察になります」

「それは……」

 ナディールは一瞬言葉に詰まった。

 クラウディアは礼儀正しく、けれどはっきり続ける。

「役人は殿下の前では、本来見せないものを隠します。下層の者は殿下の前では、言いたいことを飲み込みます。私の観測値も、殿下が保証したから通った、という扱いになります」

 ナディールの表情が揺れた。

「私は、あなたの観測を信じています」

「存じています」

「あなたを守りたいのです」

 その言葉が出た瞬間、クラウディアの顔から、ほんの少し温度が消えた。

 セイはそれに気づいた。

 ナディールは善意で言った。

 心からクラウディアを大切に思っている。役人の無礼から庇い、名前を呼び、調査許可を出した。

 それでも今の言葉は、クラウディアを「守られる側」に置いた。

 皇女に守られる黒羽。

 制度の中で、ナディールの名によって通される者。

 そう固定してしまう言葉だった。

 クラウディアは深く礼をした。

 完璧な礼だった。

「お気持ちは感謝いたします、殿下」

 ナディールの手がわずかに動いた。

 まるで、クラウディアの肩に触れようとして、触れられなかったように。

 クラウディアは、その距離を崩さなかった。

「ですが、私は殿下の庇護を受けるために報告したのではありません。都市に異常があるから報告しました」

「クラウディア、私は――」

「殿下」

 その呼び方が、二人の間に線を引いた。

 ナディールは言葉を止めた。

 クラウディアは続ける。

「公の場です」

 短い一言だった。

 だが、その言葉の裏に、どれだけ長い沈黙があるのか、セイには少しだけ分かる気がした。

 ナディールはクラウディアを姉と呼びたいのだろう。

 クラウディアも、それを知らないわけではないのだろう。

 でも、公の場では呼べない。

 呼べないまま、皇女と黒羽の魔導師として話すしかない。

 その事実が、ナディールを傷つけていた。

 けれど、クラウディアが傷ついてきた時間の長さには、まだ届いていない。

 ナディールは目を伏せた。

「……分かりました」

 声は静かだったが、わずかに硬かった。

「では、私は上層から正式な調査許可を出します。排風路への立ち入りを妨げる者がいれば、私の名を使ってください」

「ありがとうございます」

 クラウディアは礼をした。

 その礼は、先ほどよりさらに丁寧だった。

 ナディールは、それに傷ついた顔をした。

 丁寧さが、距離になることがある。

 セイは、そのことを見てしまった。

 ファティマが小さく袖を引く。

「セイ」

「うん」

「ナディール、悪い人じゃないね」

「うん」

「でも、クラウディア、つらそう」

「うん」

「どうしてだろう」

 セイはすぐには答えられなかった。

 ナディールは悪人ではない。

 むしろ善人だ。都市を守りたいと思っている。地上との争いも望んでいない。ウィンディの夢も危険だと分かったうえで否定しなかった。クラウディアを大切に思っている。

 けれど、彼女は制度の内側にいる。

 彼女の言葉は、ただの言葉ではない。許可になる。保証になる。庇護になる。

 彼女が「守る」と言うだけで、クラウディアは守られる者にされる。

 その痛みを、ナディールはまだ理解しきれていないのだろう。

 セイは、少し前の自分を思い出した。

 クラウディアの痛みを、自分の痛みに重ねて「分かる気がする」と言ってしまった。善意だった。慰めたかった。けれど、それは相手の痛みを自分の形に押し込めることだった。

 ナディールの善意も、もしかしたら似ている。

 守りたい。認めたい。庇いたい。

 でも、その言葉が相手をどこへ置くのかまでは、まだ見えていない。

 役人が控えめに咳払いをした。

「殿下、調査許可の件ですが、正式な書式を――」

「私が口頭で許可しました。書式は後で整えます」

 ナディールは振り向いた。

 さきほどより、声に皇女としての力が戻っている。

「ただし、記録にはこう残してください。クラウディアの観測に基づき、蒼翼の継承者ナディールが下層排風路の緊急調査を許可した、と」

 役人は深く頭を下げた。

「承知いたしました」

 クラウディアの表情は変わらない。

 だが、セイは少しだけ引っかかった。

 それでは、記録の中心に残るのはナディールの許可だ。

 クラウディアの観測は、ナディールが認めたから動いたことになる。

 セイはクラウディアの横顔を見た。

 彼女は何も言わない。

 言っても、ここでは届かないのだろう。

 ナディールはそれに気づいていない。少なくとも、今は。

「クラウディア」

 ナディールは改めて彼女へ向いた。

「どうか、無理はしないでください」

「必要なことをします」

「それは、無理をしないという意味ではありません」

「殿下も同じでしょう」

 ナディールは少しだけ目を見開いた。

 クラウディアは静かに続ける。

「都市を守ることが役目だと、あなたは仰いました。なら、私にも私の役目があります」

「あなたの役目は、あなたが傷つくことではありません」

「私の傷を、殿下が定義なさらないでください」

 今度こそ、ナディールは言葉を失った。

 クラウディアは礼をし、背を向ける。

 黒い羽は肩布の下に隠れている。それでも、その輪郭ははっきり見えた。

 ウィンディが気まずそうに頭をかいた。

「えっと……殿下、俺たちは下層へ行く。三十八号改二の件は、戻ったら報告する」

「必ず報告してください。あなたの発明については、まだ話があります」

「だよなあ」

「ただし」

 ナディールは少しだけ表情を和らげた。

「地上と空をつなぐ道を、私は諦めてほしいとは思っていません」

 ウィンディは目を丸くした。

 それから、いつもの笑顔に戻る。

「それ、正式な応援として受け取っていい?」

「正式ではありません。個人としての言葉です」

「皇女の個人って、なかなか難しいな」

「ええ」

 ナディールは小さく笑った。

「私も、そう思います」

 その笑みには、疲れがあった。

 彼女もまた、自分の立場の中で息苦しさを感じている。

 セイはそれを感じた。

 だが、その息苦しさと、クラウディアの羽が背負うものは同じではない。

 同じではないものを、同じにしない。

 その上で、どちらも見る。

 それは難しかった。

 難しいけれど、見なければいけない。

 クラウディアはすでに歩き出していた。

 ウィンディが慌てて追う。ファティマもセイの袖を引いた。

「行こう、セイ」

「うん」

 アズィーザはナディールの前で立ち止まり、軽く会釈した。

「殿下。ひとつだけ忠告しておくよ」

 役人たちが警戒する。

 ナディールは静かに彼女を見た。

「何でしょう」

「守りたい相手ほど、たまに守られるのを嫌がる。あたしも昔、それで弟に噛みつかれた」

 ナディールの瞳が揺れた。

 アズィーザは笑う。

「まあ、盗人の戯言だ。値段はつけないでおく」

「……覚えておきます」

 ナディールは小さく答えた。

 アズィーザは満足そうに手を振り、セイたちの後を追った。

 セイは最後に一度だけ振り返った。

 ナディールは白い石段の上に立っていた。蒼銀の羽が光を受け、風冠が澄んだ音を立てている。周囲には役人と護衛と神官が控え、彼女の言葉を待っている。

 美しい皇女。

 善意ある継承者。

 制度に守られ、制度を背負い、制度の内側から誰かを救おうとしている少女。

 その姿は、空中都市と同じように美しかった。

 そして、空中都市と同じように、どこか危うかった。

 下層へ向かう階段へ入ると、風の音が変わった。

 蒼い光は少し暗くなり、金属と油の匂いが戻ってくる。

 クラウディアは先頭を歩いていた。

 その背中の黒い羽は、肩布に隠れている。けれど、セイにはもう、その羽をただ「隠されたもの」としてだけ見ることはできなかった。

 守られるものでも、認められるのを待つものでもない。

 彼女が飛ぶための翼だ。

 そう思った瞬間、足元の風がかすかに震えた。

 都市のどこかで、また低い軋みが鳴る。

 クラウディアが足を速めた。

「急ぎます」

 その声に、ウィンディが頷く。

「下層排風路へ」

 ファティマが鞄を押さえ、アズィーザが短剣の柄に触れ、セイもまた歩き出した。

 蒼翼の皇女が与えた許可の下で。

 黒い羽の魔導師が見つけた異常を追って。

 美しい都市の腹の底へ、一行は降りていった。

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