第一章 花の都ハナン
丘の上から見たハナンは、まるで花でできた夢のようだった。
だが、近づくにつれて、セイはそれが夢ではなく、本当に大地の上に立つ町なのだと思い知らされた。
道の両脇には背の低い石柱が等間隔に並び、その一本一本に蔓植物が巻きついている。蔓には小さな白い花が無数に咲き、風が吹くたびに花弁がこぼれ、草の道へ雪のように散った。遠くから見えていた水路は町の外側をゆるやかに巡り、透明な水の上には赤、黄、青、紫の花びらが浮かんでいる。水はただ流れているだけではなく、まるで町の呼吸に合わせているように、石橋の下で静かに音を立てていた。
セイは思わず足を止めた。
草原の風とは違う。ここには、花の香りが層になって満ちていた。甘い香り。少し青い香り。蜜の香り。土の湿り気を含んだ香り。強いものもあれば、近づかなければ分からないほど淡いものもある。それらが混ざり合っているのに、不思議とくどくない。息を吸うたび、胸の奥まで色づいていくようだった。
「すごい……」
言葉は、それしか出てこなかった。
ファティマは隣で得意げに鼻を鳴らした。
「でしょ? だから言ったじゃん。花の都ハナンはすごいんだよ」
「うん。本当に、町全体が庭みたいだ」
「庭みたい、じゃなくて、庭でもあるの。花人にとって町は住む場所で、育てる場所で、祈る場所でもあるからね」
「育てる場所?」
「そう。花人は植物由来の種族だから。家も道も、ただ作って終わりじゃなくて、伸びたり、絡んだり、咲いたりしながら町になるんだよ」
ファティマはそう言って、門の向こうを指差した。
ハナンの入口には、城門のような重々しさはなかった。大きな門扉も、鉄の柵もない。代わりに、二本の巨木が左右から枝を伸ばし、自然に編まれたアーチを作っている。枝には淡い桃色の花が咲き、幹には古い文字のような模様が刻まれていた。門番らしき者はいるが、甲冑を着て槍を構えているのではなく、花冠をつけた長衣姿の男女が、通りゆく者たちへ静かに目を向けていた。
そのうちのひとりが、セイを見る。
セイは反射的に肩をすくめた。
視線はすぐに逸らされた。呼び止められたわけではない。何かを言われたわけでもない。けれど、その一瞬の目には、花の町にふさわしくない硬さがあった。
セイは腕の中の〈ファティマの書〉を抱え直した。
重い。
草原では頼もしく感じたその重さが、町の入口では少しだけ目立つものに変わった気がした。
「入っていいのかな」
「大丈夫だよ。旅人も商人もたくさん来る町だもん。ほら、行こ!」
ファティマは軽くセイの袖を引っ張った。
セイは一度だけ門番を見てから、花のアーチをくぐった。
その瞬間、世界が一段明るくなったように感じた。
通りは白い石で舗装されている。石と石の隙間からは小さな草花が顔を出し、踏まれないように道の端へ自然と寄って咲いていた。両側の建物は、セイの知っている家とはまるで違う。壁は淡いクリーム色や薄緑色で、窓枠には蔓が絡み、軒先には花束のようなランプが吊るされている。屋根の上に小さな庭がある家もあれば、壁そのものから白い花が咲いている家もあった。
人々の姿も、セイにはすべてが珍しかった。
髪の間に小さな花を咲かせた少女が、籠いっぱいの果物を抱えて歩いている。腕に蔓のような模様を持つ青年が、露店の布を風に広げている。背中から若葉のような薄い羽を生やした子どもが、水路のそばで花びらをすくって遊んでいる。ある老婦人は、髪全体が白い綿毛のようで、歩くたびにふわりと甘い香りが漂った。
セイは、どこを見ればいいのか分からなかった。
水路の向こうには、鳥の翼を持つ人がいた。人の身体に近いが、腕の下に羽があり、髪には鮮やかな羽根飾りを挿している。別の場所では、嘴のある鳥人らしき者が器用に羽の先で小袋をつかみ、露店の店主と何かを話していた。猫の耳を持つ小柄な女性が、ファティマを見て軽く手を振る。ファティマは「やっほー」と何のためらいもなく振り返した。
「今の人、知り合い?」
「知らない人!」
「知らないのに挨拶したの?」
「猫耳同士のよしみだよ」
「そういうものなの?」
「たぶん!」
セイは苦笑した。
まだ分からないことだらけだった。けれど、目の前を行き交う人々の姿を見るだけで、胸が熱くなる。
異世界の町に来た。
その実感が、ようやく全身に広がっていった。
草原も、ドラゴンも、エムも、すべて現実離れしていた。けれど町は違う。ここには暮らしがあった。物を売る声があり、子どもの笑い声があり、水路を渡る小舟があり、焼き菓子の匂いがあり、荷物を運ぶ人々の足音がある。
誰かが毎朝店を開け、誰かが花に水をやり、誰かが夕方には家へ帰る。
この世界は、ただセイを驚かせるためにあるのではない。
そこに暮らす人々にとっては、ここが当たり前の現実なのだ。
そう思った瞬間、セイは少しだけ背筋を伸ばした。
ファティマは、通りの中央を堂々と歩きながら説明を続ける。
「花人はね、ぱっと見はノエルに近いの」
「ノエル?」
「セイみたいな姿の種族のこと。耳も普通で、翼もなくて、花も咲いてなくて、獣の尻尾もない。見た目だけなら、花人の中にもかなりノエルに近い人はいるよ」
「じゃあ、僕はノエルに見えるってこと?」
「うん。服はちょっと変だけどね」
ファティマは悪気なく言った。
セイは自分の服を見る。現代日本から来たときのままのパーカーとズボン。ノースの風にさらされ、草原を走り、ドラゴンから逃げたせいで、裾には草の汁がついている。町を歩く人々の華やかな服装に比べると、確かに浮いていた。
「変か……」
「変だけど、セイだからいいよ」
「慰めになってるのかな、それ」
「なってるなってる」
ファティマは軽く笑った。
セイもつられて笑いかけたが、その途中で視線に気づいた。
道端の露店で香油の小瓶を並べていた女性が、こちらを見ている。髪の右側に紫の花が咲いた、細い指を持つ花人だった。彼女はセイと目が合うと、すぐに視線を落とした。だが手元の小瓶を並べる動きは、明らかにぎこちなくなっていた。
隣の露店では、二人の若い花人が小声で何かを囁いている。
言葉は分からない。いや、〈ファティマの書〉を抱えているから意味は拾えるはずなのに、声が小さすぎて聞き取れなかった。ただ、その中に「ノエル」という音が混じった気がした。
セイは足を止めそうになった。
ファティマが気づいて、少しだけ歩調を緩める。
「どうしたの?」
「いや……見られてる気がして」
「見られてるよ」
「そんなにはっきり言わなくても」
「だって見られてるもん。セイは見慣れない服で、魔本を抱えてて、ボクみたいなかわいい猫耳少女を連れてるからね。注目される要素しかない!」
「最後のは自分で言うんだ」
「大事な要素だよ」
ファティマは胸を張ったが、すぐに耳を少し伏せた。
「でも、まあ……それだけじゃないかな」
その声が、少しだけ小さくなった。
セイはファティマを見た。
彼女はいつものように笑おうとしている。けれど、目は通りの人々をさりげなく追っていた。セイよりもずっと、周囲の空気に敏感なのだと分かる。
通りの先には、花蜜菓子を売る屋台があった。丸く焼いた小さな菓子に、透明な蜜をかけている。香ばしくて甘い匂いに、セイの空腹が反応した。考えてみれば、ノースに来てから何も食べていない。ドラゴンから逃げ回ったせいもあって、急に身体が重くなった。
ファティマも同じ匂いに気づいたらしく、尻尾がぴんと立つ。
「セイ、あれ見て! 花蜜焼きだよ。外はかりっとして、中はふわっとして、蜜がじゅわってなるやつ!」
「おいしそうだね」
「食べよう!」
「お金は?」
ファティマは足を止めた。
「……お金」
「うん」
「ノースにも、お金はあります」
「それは分かる」
「ボクたちは、持ってません」
「だよね」
二人は屋台の前で、しばらく無言になった。
店主の花人が、こちらを見た。中年の男性で、顎のあたりに細かな葉のような髭が生えている。彼は最初、ファティマを見て少し笑いかけた。だがセイと、その腕に抱えられた〈ファティマの書〉を見た途端、表情が硬くなった。
「買うのかい」
言葉は丁寧だった。
だが、その声には距離があった。
セイは慌てて首を振る。
「あ、すみません。見ていただけです」
店主は「そうか」とだけ言った。
怒鳴られたわけではない。追い払われたわけでもない。それなのに、セイは胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
現実の町でも、こういう視線を感じることはあった。平日の昼間、同年代が学校にいる時間に外を歩いているとき。コンビニで制服姿の中学生を見かけたとき。誰も何も言わなくても、自分だけが場違いだと思い知らされるような感覚。
ここでも同じなのか。
自分は、また外側なのか。
セイは思わず、〈ファティマの書〉を抱える腕に力を込めた。
ファティマがそっと袖を引く。
「セイ、こっち」
二人は屋台から少し離れ、水路沿いの石段に腰を下ろした。水面には花びらが流れ、細い魚のようなものがその間をすり抜けていく。水路の向こうでは、花冠を編む子どもたちが笑っていた。だが、そのうちのひとりがセイを見つけると、そばにいた母親らしき女性がそっと子どもの肩を抱き寄せた。
あからさまではない。
けれど、確かに距離を取られている。
セイは水面を見つめた。
「僕、何か悪いことしたかな」
自分でも、子どもっぽい言い方だと思った。
ファティマはすぐには答えなかった。石段の上で膝を抱え、尾の先を水面に近づけたり離したりしている。
「セイは、何もしてないよ」
「じゃあ、なんで」
「ノエルに見えるから」
ファティマは静かに言った。
セイは顔を上げる。
「ノエルって、さっき言ってた……僕に似た種族?」
「うん。花人とノエルには、あんまりいい歴史がないの」
ファティマの声から、いつもの勢いが少し消えた。
「昔、花人がノエルに支配されていた時代があったんだって。働かされて、土地を奪われて、花の香りや薬草の知識を利用されて、ひどい扱いを受けた花人もたくさんいたって記録されてる」
「僕は……」
セイは言いかけて、言葉に詰まった。
僕は関係ない。
そう言いたかった。
実際、関係はない。セイはノエルではない。花人を支配したこともないし、奴隷にしたこともない。そもそも、この世界へ来たばかりで、歴史のことだって今初めて聞いた。
それなのに、町の人々はセイを見る。
見慣れない服を着た、ノエルに似た少年。魔本を抱え、猫人らしき少女を連れた外部者。
ただそれだけで、警戒される。
「でも、僕は何もしてない」
声が、思ったより弱くなった。
ファティマはセイを見た。
紅と金の瞳が、いつになく真面目だった。
「うん。セイは何もしてない」
「だったら……」
「でも、傷って本人がつけたものじゃなくても残るんだよ」
水路の音が、少しだけ大きく聞こえた。
セイは返事ができなかった。
ファティマは、言葉を探すように視線を水面へ落とす。
「たとえばさ、誰かにすごく強く踏まれた花があったとして、次に近づいてきた足が別の人のものでも、その花は怖いかもしれないでしょ。踏んだ人じゃなくても、足っていうだけで」
「僕は、足なの?」
「たとえ話だよ」
「分かってるけど」
セイは膝の上に置いた〈ファティマの書〉を見下ろした。
分からなくはない。
傷が残るということは、少しだけ分かる。自分だって、学校そのものに何かされたわけではない。同級生全員に傷つけられたわけでもない。けれど、制服や教室やチャイムを思い出すだけで、胸が重くなる。関係のない人まで怖くなることがある。
だから、花人たちの警戒をまったく理解できないわけではなかった。
けれど、納得はできなかった。
自分は何もしていない。
それなのに疑われるのは、やっぱり苦しい。
「難しいね」
セイは呟いた。
「うん。難しいよ」
ファティマは少しだけ笑った。
「ボクも、全部分かってるわけじゃないし。書いてあることは知ってても、気持ちまでは本の通りに読めないこともある」
「ファティマでも?」
「ボクでも」
彼女は自分の胸を軽く叩いた。
「だから、歩きながら見るしかないんじゃないかな。セイも、花人も、この町も」
その言い方は、いつものファティマにしてはずいぶん静かだった。
セイは水路の向こうを見る。
花冠を編んでいた子どもたちは、もう別の遊びに夢中になっていた。母親らしき女性も、こちらを見てはいない。けれど、一度距離を取られた感覚は、まだ胸に残っている。
町は美しい。
香りも、色も、音も、何もかもが本で読んだ幻想の町そのものだった。
でも、美しいからといって、優しいとは限らない。
セイは、そのことを少しだけ知った。
「ねえ、セイ」
ファティマが明るさを取り戻したように立ち上がった。
「落ち込むのはあとにしよ。まずは宿を探そう。お金はないけど!」
「そこが一番問題なんだけど」
「だいじょうぶ。困ったときは、困ってますって顔をして歩くと、誰かが助けてくれるかもしれない」
「それ、すごく不確実じゃない?」
「冒険は不確実なものなのです」
ファティマは胸を張った。
セイは呆れながらも、少しだけ笑った。
彼女の明るさに救われている自分がいる。
それもまた、確かなことだった。
二人は水路沿いの石段を離れ、再び通りへ戻った。
花の香りが、またセイを包む。露店の声、行き交う異種族の足音、遠くから響く鐘の音。町の中心に見える白い聖堂は、陽の光を受けてまぶしいほど輝いていた。その尖塔には白薔薇と赤薔薇が絡みつき、風が吹くたびに花弁が空へ舞っている。
セイは、その美しさにもう一度息をのんだ。
やっぱり、すごい町だと思った。
同時に、自分がまだこの町に迎えられていないことも分かった。
ハナンは花に満ちていた。
けれど、その花々の根は、セイの知らない古い傷の中へ深く伸びていた。




