第十二章 白と赤の薔薇
星の槍は、まだ黒い扉を縫い止めていた。
地下保管庫の奥で、光と闇がきしんでいる。光はまっすぐに降り注ぎ、禁書の頁と黒い薔薇の根を貫いていた。けれど、闇はそれを引き抜こうとするように蠢き、頁の奥から底のない水音を響かせている。
セイは膝をついたまま、息をすることも忘れていた。
腕が痛い。喉が焼ける。胸の奥に、知らない熱と冷たさが同時に残っている。さっき自分が放った言葉が、まだ身体の中を震わせているようだった。
〈光槍のライラ〉。
スターランス。
それは確かにハナンを縫い止めた。聖堂を、町を、消えかけた人々の名を、完全な混沌へ落ちる寸前で押さえた。
だが、セシルは戻ってこなかった。
彼は黒い頁の中に沈みかけていた。胸から上だけがかろうじて外へ残り、白い司教服は輪郭を失い、黒い霧とほどけた文字の間で揺れている。閉じられた瞳の端から流れていた黒い涙は消え、代わりに、ほんのわずかな光がその頬を照らしていた。
「セシルさん……」
セイは手を伸ばした。
指先は、もう届かない。
届きそうなのに、触れられない。セシルの輪郭はそこにあるのに、近づくほど遠くなる。手を伸ばせば伸ばすほど、水面に映った月を掬おうとしているみたいに、彼の姿は揺らいだ。
アリアが、弟の前に這い寄った。
片腕には黒い蔓の痕が残り、肩で息をしている。それでも彼女は倒れず、血の滲む手で床をつかみ、セシルの方へ身を乗り出した。
「セシル、聞こえるか」
「……はい」
セシルの声は、遠かった。
けれど、さっきまでとは違った。
混沌の奥から響く声ではない。薄く、弱く、消えかけているのに、確かにセシル自身の声だった。
「姉さん」
アリアの顔が歪んだ。
「戻れ。まだ間に合う。私が引っ張る。そこの少年も、猫耳も、みんなで引っ張れば――」
「いいえ」
セシルはゆっくり首を振った。
その動きだけで、彼の輪郭が少しほどける。
アリアは息をのんだ。
「やめろ。動くな。しゃべるな。何もしなくていいから、そこにいろ」
「難しいお願いですね」
セシルは、ほんの少し笑った。
それは、礼拝堂で子どもに声をかけていたときの笑みに似ていた。穏やかで、相手を安心させようとする笑み。けれど今は、その笑みを見ることが苦しかった。
「わたくしは、ようやく分かりました」
セシルは言った。
「町を救いたかった。誰も苦しまない場所を作りたかった。花人もノエルも、奪った者も奪われた者も、残された者も消えた者も、隔たりのない場所へ連れていきたかった」
黒い頁が、かすかに揺れる。
セシルの声は、その揺れに飲まれそうになりながらも続いた。
「けれど、わたくしがしていたことは、町を救うことではありませんでした。町を、消そうとしていました」
その言葉に、アリアが唇を噛んだ。
ファティマはセイの隣で、両手を胸の前で握りしめている。何か言いたそうだった。けれど言えない。彼女もまた、震えていた。
セシルはセイへ顔を向けた。
閉じられた瞳は、もう形も薄れている。だが、不思議とセイには、彼がこちらを見ている気がした。
「セイさん」
「はい」
返事をした声が、ひどく掠れていた。
「あなたの光は、消すためのものではありませんでしたね」
「違います。僕は……止めたかっただけです」
「ええ」
セシルは頷いた。
「留めるための光でした。失われる名を、ほんの少しでもここに残すための」
「でも、僕はセシルさんを――」
言葉が続かなかった。
殺した。
そう言いかけて、喉が詰まった。
違うと誰かに言ってほしかった。けれど、自分では違うと言えない。自分が魔本を開いた。自分が星の槍を降らせた。禁書の吸引は弱まったが、その反動でセシルは混沌へ沈んでいった。
もし、自分が何もしなければ。
もし、別の魔法を選べていたら。
もし、もっと早くセシルを止められていたら。
そんな思いが、黒い蔓のように胸へ絡みつく。
セシルは、セイの沈黙を読み取ったように、静かに言った。
「あなたが、わたくしをここへ沈めたのではありません」
「でも」
「わたくしが、自分で歩いてきたのです」
その声は穏やかだった。
けれど、責任から逃げる声ではなかった。
「〈薔薇の黙示〉を読んだのも、〈混沌〉を救いだと思い込んだのも、〈ドゥローの禁書〉へ祈りを捧げたのも、わたくしです。あなたは、止めてくださいました」
「止められてないです」
セイは首を振った。
「セシルさんを戻せなかった」
「それでも、町を残してくださいました」
セシルの声が、さらに薄くなる。
星槍の光が一度、大きく脈打った。黒い扉の奥で禁書の頁が裂ける音がする。
「救いとは、難しいものですね」
セシルは、ぽつりと言った。
その言葉は、聖職者の教えではなかった。
間違えた人の、最後のため息のようだった。
「手を伸ばせば届くと思っていました。祈れば誰かの痛みを軽くできると思っていました。けれど、手を伸ばすことが誰かを傷つけることもある。祈りが、災厄の扉を開くこともある」
「セシル」
アリアが弟の名を呼んだ。
声が震えていた。
「もういい。もうしゃべるな。私は、あんたが間違えたことなんて忘れない。あんたが馬鹿だったことも、優しすぎたことも、勝手に消えようとしたことも、全部覚えてる。だから、あんたが言わなくてもいい」
「ありがとうございます、姉さん」
「礼なんて言うな」
「それでも」
セシルは、消えかけた手を少しだけ伸ばした。
アリアがそれに手を重ねる。触れたのか、触れられなかったのか、セイには分からなかった。けれど、アリアはその手を必死に握ろうとしていた。
「置いていったことを、もう少し恨めばよかったのかもしれません」
「今からでも恨めよ」
「そうですね」
セシルは小さく笑った。
「姉さんは、昔から少し乱暴でした」
「それは恨みじゃなくて感想だろ」
「では、感想から始めます」
アリアの目から涙がこぼれた。
彼女は声を殺して笑い、それから泣いた。
セイは、その姿を見て胸が痛くなった。怪盗ジャックとして軽やかに屋根を駆け、警備を翻弄し、仮面の奥で笑っていた人が、今はただ弟の手を離したくない姉になっている。
ファティマが小さく鼻をすすった。
「ファティマ」
セイが呼ぶと、彼女は慌てて顔を拭いた。
「泣いてない」
「まだ何も言ってないよ」
「言われる前に言ったの」
そのやり取りは、いつもなら少し笑えたかもしれない。
けれど、今は笑えなかった。
セシルは最後に、もう一度セイへ向き直った。
「どうか、覚えていてください」
声が薄れていく。
それでも、その言葉だけははっきりしていた。
「わたくしが間違えたことを。わたくしが、それでも救いたかったことを」
セイは唇を震わせた。
「覚えます」
「ありがとうございます」
「でも、僕は……」
セイは目を伏せた。
「僕は、まだ自分を許せません」
「許さなくても、よいのです」
セシルは言った。
「すぐに許せる痛みばかりではありません。けれど、忘れないでください。許せないまま、持っていくこともできます」
その言葉は、セイの胸に静かに落ちた。
軽くはならない。
救われたとも思えない。
ただ、重いものを重いまま持つことを、許されたような気がした。
黒い頁が、大きく揺れた。
星槍の光が裂け、地下保管庫に白い風が吹き抜ける。
セシルの輪郭が、急速にほどけていく。髪が文字になり、司教服の白が光の粉になり、閉じられた瞳が薄い薔薇の影へ変わる。
「セシル!」
アリアが叫んだ。
セシルは姉へ微笑んだ。
「姉さん」
「嫌だ。やめろ。まだ話してないことがある。私、まだ謝ってない。あんたの翼のことも、目のことも、置いていったことも――」
「聞いています」
「聞けてないだろ!」
「聞こえています」
セシルの声は、もうほとんど風だった。
「あなたが、わたくしを忘れたくないと言ってくれたこと。それだけで、十分です」
「十分じゃない!」
アリアが手を伸ばす。
だが、その手は空を掴んだ。
セシルの身体は、〈ドゥローの禁書〉の頁とともに、黒い光の奥へ沈んでいった。
最後に、白い薔薇の花弁が一枚、彼のいた場所に残った。
けれど、その花弁もすぐに赤く染まり、半分だけ白を残したまま、静かに床へ落ちた。
禁書は閉じた。
黒い扉も、音を立てて沈黙した。
星槍の光が、天へ戻るように細くなっていく。黒い雲が薄れ、地下保管庫に残っていた黒い蔓が灰になった。
セシルの身体は、どこにもなかった。
残っていたのは、割れた司教杖の破片と、小さな薔薇の聖印だけだった。
聖印は、白薔薇と赤薔薇が寄り添う形をしていた。けれど、真ん中にひびが入り、片側の白薔薇は少し灰色になっている。
アリアはそれを拾い上げた。
何も言わなかった。
ただ、握りしめた。
その瞬間、上の方で大きな崩落音がした。
聖堂が崩れはじめていた。
「出るよ!」
ファティマが叫んだ。
神官たちがセイたちを促し、地下保管庫から走り出す。アリアは杖の破片と聖印を抱え、最後に黒い扉を一度振り返った。だが、立ち止まらなかった。
螺旋階段を上がる間、石壁は何度も揺れた。薔薇の根が灰となって落ち、魔導灯がひとつずつ消えていく。
礼拝堂へ出ると、そこはもう別の場所になっていた。
白薔薇に覆われていた壁は焼けたように黒ずみ、赤薔薇は雨に打たれた血のように床へ張りついている。ステンドグラスの一部は砕け、月明かりが割れた色のまま床に散っていた。祭壇は半分崩れ、祈りの席のいくつかは灰になっている。
それでも、聖堂は完全には消えていなかった。
外へ出ると、夜明け前の空が見えた。
黒い雲は薄れ、東の端に青白い光が滲んでいる。ハナンの町は、無事とは言えなかった。通りの一部は大きく抉れ、花壇は色を失い、家々のいくつかは傾き、水路は泥で濁っていた。聖堂の周囲は特にひどく、白と赤の薔薇が咲き誇っていた庭は、荒地のようになっている。
だが、町は残っていた。
人々も残っていた。
泣いている者。座り込んでいる者。誰かの名を呼ぶ者。抱き合って震えている親子。怪我人を運ぶ神官。崩れた壁の下から花鉢を拾い上げるシスター。
完全には戻らない。
でも、完全には滅びなかった。
セイはその光景を見て、安堵するべきなのか、泣くべきなのか分からなかった。
「司教様は?」
誰かが言った。
若い神官だった。顔は煤で汚れ、腕から血を流している。
「セシル司教は、どちらに」
別のシスターが彼を見た。
「セシル……司教?」
その声に、セイは振り返った。
シスターは本気で戸惑っているようだった。
「司教様は……ええと、ハナン聖堂の司教様は……」
言葉が続かない。
彼女は何かを思い出そうとしている。けれど、その何かに手が届かない。
「白い服の……杖を持った……」
隣の神官も、額を押さえた。
「名前が、出てこない」
「いや、いた。確かにいたはずだ。いつも礼拝堂に立って、子どもに花茶を……いや、花茶を出していたのは誰だった?」
「司教様は、おられたはずです。確かに」
「でも、どんな声だった?」
「目は……見えていたか?」
人々の声が、少しずつ不安に変わっていく。
セイの身体が冷えた。
セシルは死んだだけではない。
記録からも消えかけている。
彼がいたこと。司教だったこと。人々の名を呼んだこと。泣く子どもの手を取ったこと。怒れる信徒をなだめたこと。地下牢からセイたちを出してくれたこと。
それらが、町の記憶から薄れている。
「そんな……」
セイは声を漏らした。
ファティマが隣で唇を噛む。
「禁書に沈んだから。肉体だけじゃなくて、記録も引っ張られてる」
「止められないの?」
「分からない」
ファティマは首を振った。
いつもの「たぶん」すら出てこなかった。
「ボク、分からないよ」
その声は、ひどく小さかった。
アリアが近づいてきた。
黒い外套は破れ、仮面もなく、腕には血が滲んでいる。怪盗ジャックとしての軽やかさは、今はほとんど残っていなかった。
彼女は、手の中の薔薇の聖印を見つめていた。
しばらくして、それをセイへ差し出す。
「持って行きな」
セイは驚いて顔を上げた。
「でも、これはアリアさんが」
「私が持ってたら、たぶん盗品扱いになる」
アリアは冗談めかして言った。
だが、声は掠れていた。
「それに、私は覚えてる。嫌でも覚えてる。あいつが小さな翼を持ってたことも、目が見えなくなった日のことも、恨んでないなんて馬鹿なことを言った顔も、消えたくないってやっと言った声も」
彼女はセイを見る。
「でも、町の連中は忘れかけてる。聖堂の記録も、たぶんあてにならない。なら、外から来たあんたが持って行きな」
「僕が?」
「あんたが覚えてるなら、あいつは完全には消えない」
セイは、差し出された聖印を見つめた。
白薔薇と赤薔薇。真ん中に入ったひび。片側だけ灰色に染まった花弁。
それは軽いはずなのに、とても重そうに見えた。
「僕は……」
受け取る資格があるのだろうか。
自分はセシルを助けられなかった。魔本を開いた。星の槍を降らせた。その結果、町は残ったが、セシルは戻らなかった。
そんな自分が、彼を覚えている役目を持っていいのだろうか。
「僕が、セシルさんを殺したのかもしれない」
言葉は、勝手にこぼれた。
アリアが目を細める。
ファティマが、はっと息をのんだ。
「セイ、それは――」
「だって、僕が魔本を開いた。ライラを使った。禁書の吸い込みは止まったけど、反動でセシルさんは沈んだ。僕が別の方法を選べていたら、もっと上手くできていたら、戻せたかもしれない」
声が震える。
胸の奥が痛い。
涙は出ない。ただ、息がうまく吸えなかった。
ファティマが一歩近づく。
「違うよ、セイ。あれはセイだけのせいじゃ――」
そこで言葉が止まった。
ファティマ自身も傷ついているのが分かった。
彼女が教えた。
セイに魔本を使わせた。
危ないと知っていて、補助した。
セイが自分を責めているのと同じように、ファティマも自分を責めている。
「ごめん」
ファティマは小さく言った。
「ボク、うまく言えない」
「僕も、分からない」
セイは答えた。
アリアは、そんな二人をしばらく黙って見ていた。
やがて、彼女はセイの手を取り、無理やり聖印を握らせた。
「資格なんて知らないよ」
その声は乱暴だった。
けれど、乱暴なほど優しかった。
「覚えるのに、きれいな人間である必要なんかない。許されてる必要もない。あいつが間違えたことを、あいつが救いたかったことを、あんたが見た。それで十分だ」
「でも」
「でもじゃない。持って行け」
アリアはセイの手を強く握った。
「そして、忘れるな。あいつは聖人じゃない。怪物でもない。優しくて、馬鹿で、壊れてて、最後にやっと消えたくないって言った私の弟だ」
セイの手の中で、薔薇の聖印が冷たく光った。
白と赤。
救いたかった心と、間違えた祈り。
その両方を抱えた、小さな形見。
セイは震える指でそれを握りしめた。
「覚えます」
今度は、セシルにではなく、アリアに向けて言った。
「僕が覚えます。セシルさんが、間違えたことも。それでも、救いたかったことも」
アリアは何も言わなかった。
ただ、顔をそむけた。
夜明けの光が、崩れた聖堂の上へ差し始める。
白薔薇はほとんど灰になっていた。赤薔薇は黒く濡れていた。だが、聖堂の割れた石段の隙間に、小さな芽が出ているのが見えた。
それは白でも赤でもなかった。
白と赤が混じった、淡い薔薇色の芽だった。
セイはそれを見つめた。
町は残った。
人々も残った。
けれど、戻らないものがある。
消えた名がある。
忘れられかけている人がいる。
セイの手の中で、割れた薔薇の聖印が重く沈んでいる。
この重さを持っていくことが、自分にできる最初の記録なのだと、セイはまだ言葉にはできなかった。
ただ、忘れないと決めた。
許せないまま。
痛いまま。
それでも、覚えていると決めた。




