オルゴールとコーヒー
かび臭い、でも心地よい。
日頃の急いた感じに疲れた私にはちょうど良い。
そんな風に感じさせてくれた。
路地の奥にひっそりと佇む。
上品でで落ち着いていながら、ちょっと遊び心のある。
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ちょっとしたことで妻とけんかになり、その険悪なムードのまま三日が過ぎた。
久しぶりに定時で上がれたが嬉しくはない。
家には帰りたくないが行き場所なんてどこにもない。
飲み屋に入ったところでうまい酒が飲めるはずもなく。
そんな私はどこのなくぶらついていた。
六時になってもまだ明るい。
ふらりと路地に入ったのはなぜだろうか、なんとなく引き寄せられるように入っていった。
この歳にもなって珍しく遊び心が芽生えるとはな。
そう苦笑すると、すっと私は入っていった。
短いものの一歩入ってしまえば表の喧騒とは無縁だ。
突き当りには一軒の小さな店。
『アンティーク、取り扱ってます』
と、黒板に書かれていた。
毎日書き換えているのか、丁寧に磨かれた黒板にはきれいな文字で書かれている。
「お邪魔します」
カラン。とドアを開けるとベルが鳴った。
静かな店内。
かび臭さと心地よさ。
誰もいないようで、勝手に展示物を手に取る。
夕日に照らされた幾多の宝物。
どことなく少年時代の気分を思い出した。
思いがけない出会いに、胸の鼓動が高鳴る。
誰が誰を描いたかわからない女性の絵画や像。
ほんのりと温かみを感じる小さな彫像。
戸棚の中には何に使うのかもわからない小さな器具や鉱石の数々。
その中に一つ、心を惹かれるものがあった。
小さなオルゴール。
小さいながらも丁寧な装飾が施されている。
手に取って眺めると夕日に煌めいてきれいだ。
「気に入られましたかな?」
ハッと振り返ると、そこには白いひげの老紳士が立っていた。
「失礼、あまりに素敵なもので」
「そうでしたか、申し遅れました。私がこの店の店主です。アンティークと、それからカフェを営んでおります」
私は、のどの渇きを覚えた。
「そうでしたか、……まだ、カフェのほうも空いていますか?」
そう聞くと彼はにこやかに答えてくれた。
「ええ、まだ開いております。どうぞこちらへ」
案内されたのはアンティークショップの奥、庭の見える大きな窓のあるお店だった。
「何になさいますかな?」
「そうですね、アメリカンを」
「かしこまりました」
彼は静かにコーヒーを入れてくれた。
二人しかいない店内にコポコポと淹れる音だけが響く。
そんな感じがなんだかとても安心でき、少々居眠りしてしまった。
「お客様、入りましたよ」
その一言で眠りから起こされた。
「すみません、少し寝てしまいました」
「お疲れのようですね、眠気覚ましに珈琲をどうぞ」
彼から淹れたてを受け取ると、一口すする。
すっきりとする香りと、心地よい苦みが少しだるい体をすっきりとさせてくれた。
「美味い……」
その言葉が出たのはいつぶりだろうか。
毎日の忙しさの中で、美味いものに出会う機会なんてなかった。
いや、毎日の手料理でさえも味を感じようとしてなかったのかもしれない。
とにかく、おいしいと感じることのない日々を送っていたことに気づいた。
「どうぞごゆっくり」
彼はそういうと表のアンティーク店のほうへ戻っていった。
私は一人で庭を見ながら物思いにふける。
なんとも贅沢なひと時だと思った。
温かい室内に芳醇な香りのする珈琲。
ゆったりと流れる時間に、いつしか都会の喧騒を忘れてしまった。
ふと、気が付くとあたりはすでに夜の闇に覆われていた。
カップに入っていた珈琲もすでになくなっている。
一抹の寂しさを感じながら私は席を立った。
ドアを抜けてアンティークショップのほうに行くと、彼は品物を磨いている。
「お帰りですか?」
「ええ、珈琲ごちそうさまでした」
彼はニコリとほほ笑むと、ありがとうございます。とだけ話した。
――このまま帰りたくない。
私は名残惜しさから店内をぶらつく。
様々なものを目で追いながら、心はどこか遠くにあるようだ。
そして、ふと目に入った。
先ほども惹かれたあのオルゴールだ。
どうしてだか、私はそれを手に取ってしまう。
中年の私には似つかわしくない。小ぶりで華奢な感じのするオルゴールだ。
「気に入られましたかな?」
彼は、先ほどと同じセリフをつぶやく。
「……ええ、その。気に入りました」
「では、失礼」
彼はオルゴールのねじを巻き始めた。
ジーコ、ジーコと小気味よい音が鳴る。
そして、ふたを開くと……。
「この曲はご存じでしょうか」
「知っています、懐かしいな……。連れ合いと付き合った時に初めてのデートでコンサートに行きましてね、その時演奏された一曲です」
「そうでしたか、縁のある曲でしたのですね」
「ええ、連れ合いが大層この曲を気に入って……包んでいただけますか?」
私はこのオルゴールを買うことに決めた。
オルゴールから曲が流れだしたとき、懐かしさとともに胸のもやもやも晴れた、何より運命を感じてしまったのだ。
店主は丁寧に包装すると、私に渡してくれた。
小さいながらもしっかりした重さを感じながら、私は軽い足取りで家へと向かう。
「ただいま」
「おかえりなさい。あら?何か買ってきたの」
私は包みをほどくと、ねじを巻いてふたを開けた。
「懐かしい曲ね」
「覚えてるのかい?」
「初デートの時よね、忘れてなんてないわよ」
妻は懐かしむように奏でられる音を楽しんでいる。
なんだか、若いころに戻ったようにドキッとしてしまった。
「あなた、ありがとうね」
そっと、妻の唇が私の頬に触れた。