中編
沈んだリンの声に、フルラは焦ったように青い瞳をさまよわせた。
「リン……ごっ、ごめんなさい私っ……」
リンの不安を、彼女は良く知っているから。
さっきのたった一言だけで、察してしまったのだ。
「だ、だ、だ、大丈夫よ! 間違いなく愛よ! ウィルド様はリンのことを大好きよ!」
一端クッキーを皿に置いたフルラが、拳をにぎって力説してくれる。
「絶対絶対! 私が保証するわ! 大丈夫!」
「フルラ……」
普段はウィルドに対していい事を言わないのに。
リンが不安になる様子を見せると、ここぞとばかりに持ちあげてくれる。
おそらくリンを元気づけようとして。
「ほら! いつだってリンのことしか見ていらっしゃらないじゃない。だから……その、過去のことがあったって、愛は愛に違いないというかっ、そのっ……! とにかく絶対絶対大丈夫よっ」
「えぇ。有り難う」
必死になって元気付けようとしてくれる事が嬉しくて、リンは目尻をさげた。
「フルラ。その……ごめんなさい、変な空気にしてしまって。さぁ、クッキーを食べて? 美味しく出来たのよ」
「えぇ……。いただくわ」
その後、空気を切り替えるように二人で話したのは、紅茶にどのフルーツを淹れれば美味しいかの考察だったり。
最近の流行のファッションだったり。
最近出来たフルラの恋人の話だったり。
おしゃべり上手なフルラは、少しだけ沈みかけたリンの気分をあっと言う間に変えてくれる。
おかげで楽しい午後の時を過ごすことが出来た。
* * * *
夕方になり、フルラが帰ったあと。
使用人にティーセットを片付けて貰ったリンは、そのままサンルームの中にいた。
陽が落ちて温度の下がってしまった室内で、周囲に誇る花々をぼんやりとながめる。
使用人に人払いをお願いしたので、誰かが来ることもない。
静かな場所でゆったりと自分の考え事にふけることが出来た。
「…………」
―――しばらくして、彼女はおもむろに身をかがめ、スカートの裾を少し持ち上げる。
膝の上まで持ち上げて。
覗いた白い靴下を、そっと足首まで降ろした。
そうすると露わになるのは、右足の踵から脹ら脛に続く、深い大きな傷痕。
まわりの皮膚よりも少し窪み固くなった場所を、二度指先で辿り感触を確認し。
リンはわずかに、伏せた瞼を震わせた。
そして小さく呟く。
「どうしたら、あの優しさが罪悪感から来るものではなく、純粋な愛なのだと信じられるのかしら」
こうして植物に囲まれていると思い出す。
リンがこの傷を負い、歩くことが不自由になったきっかけが起こった十二年前のことを。
……子供の頃のウィルドは、今のような板についた仏頂面ではなく、明るくくったくのない笑顔を常にたずさえていた。
元気で明るく、少し悪戯好き。
ガキ大将とでも言うのだろうか。
身体が他の同年代の子よりも大きかった彼は、男の子達の先頭に立って悪戯をして、大人を困らせ、毎日のように叱られている子だった。
だから……あれも、いつも通りの小さな悪戯だったのだ。
ウィルドが十一歳、リンが七歳の歳。
親同士が友人同士で幼い頃から会う機会の多かった二人は、庭で一緒に遊んでいた。
その前にどんな会話があったかは忘れてしまったが、とにかくウィルドがリンの髪に結んでいたリボンをほどいて奪い、そのまま登った高い木の枝に引っかけてしまった。
お気に入りのリボンが手の届かないところにやられて泣きそうになっているリンに、するすると木を降りて来た彼は、悪戯めいた顔をして、胸をそらしつつ言った。
「登って取ればいいじゃないか。まぁ、のろまなお前には無理だろうけど!」……と。
そこで、大人に泣きついたり、庭師に言って取ってもらえば良かった。
もしかするとウィルド自身が、「取って」とリンがお願いするのを待っていたのかもしれない。
でもそのリボンは本当にお気に入りで、悪戯に使われたことが悔しくて。
意地を張ったリンは、人生初めての木登りをしてしまった。
結果、失敗して途中で落下。
運悪く突き出していた枝端で足を深く切ってしまった―――という経緯だ。
「っ……」
白い靴下をあげ、スカートの裾を正しながら、リンは憂いた表情で息を吐いた。
彼の悪戯が発端で、リンは足に消えない傷を負った。
加えて歩行が不自由にもなってしまった。
もちろん彼にまったく非が無いとは言えないけれど、登ると決めたのも、登ったのも、失敗して落ちたのもリンなのに。
危険も考えずに木に登ったリンを、誰も叱りはしなかった。
周囲は、ウィルドだけを責めた。
何よりウィルドが、「すべて自分のせいだ」と言ったから。
リンは否定しようとしたけれど、それよりもずっと大きな声で、ずっと強く、何度も、ウィルドは自分が悪戯をしてリンを木に登らせることになったと、証言した。
(私が、自分で登ることを選んだのに。自分のせいだって、譲ろうとしない)
リンをキズモノにした責任をとって、両家の親の話し合いのもと、彼とリンと婚約することになり、そのまま二年前に結婚したのだ。
リンは一人、囁くような声でまた呟く。
「―――分からないの。貴方の優しさが、私の足を奪ったことへの罪悪感からくるものなのか。愛からくるものなのかが」
リンは子供のころから頼もしくて人の中心にあったウィルドに憧れていた。
たまに悪戯を受けたって、好きの想いは変わらなかった。
でも、彼は?
これだけ甘やかされ大切にしてくれるのは、すべてがリンに消えない傷をつくったことへの罪悪感?
責任を取ってのことなのだろうか。
普段は甘やかされ過ぎることくらいしか不満のない穏やかな日々を送っているが。
こうしてふと昔の事を思い出すと、不安でたまらなくなる。
自分が木登りを失敗したせいで、彼の生涯を奪っているだとしたら。
あの人の幸せをリンが害しているのだとしたらと想像すると、申し訳なくて堪らなくなる。
リンが怪我をして以来、彼は一度も意地悪をしなくなった。
悪戯っ子めいた歯を見せてにいっと笑うあの屈託のない笑顔が、リンは好きだったのに。
あれから一度も見ていない。
引っ込み思案なリンを少し強引に引っ張っていってくれるところも、好きだったのに。
いつだってリンの歩調にばかり合せるようになった。
あれ以来の彼は、罪を償うかのようにリンを甘やかしてくる。
リンの願うことを、何でも叶えようとする。
「もう十二年も経つのに。未だに罪悪感に苛まれているの?」
もともと家の中での刺繍や編み物をして過ごすことが好きな性格である。
ゆっくりになってしまうものの、歩くこともきちんと出来る。
夜会で足が不自由なことを理由にダンスに興じなくていいと言うのも、結構嬉しかったりする。自分の運動神経の無さは、もうよく理解しているので恥をかかなくて丁度いい。
何度も何度もそう伝えている。
ウィルドは、言葉では分かったと言ってくれるのに。
未だ、あのころの屈託のない、無邪気なままだった笑顔を見せてはくれない。
「どうすれば、あのころのような、ただ一緒にいて楽しいだけの関係に戻れるのかしら」
誰もいない温室の中だ。
当然、その呟きに対する応えは返ってこなかった。
* * * *
王城付き騎士団団長、ウィルド・レンティ。
妻に見送られ城へと出勤した彼は、今日も厳しく騎士や見習い騎士たちと訓練をこなしていた。
「はっ!」
「ここは……こうだ」
「はい!」
「とう!」
「………こうだ」
「はい!」
「やぁ――――っ!」
「……もっと沢山食え」
「はい!」
子供のころは快活だった気がするが、成長と共に寡黙なタイプになった。部下に対するアドバイスは短く、的も得ず、指導者として向いているかどうかは微妙なところだ。
それでも真面目に剣とも騎士たちとも向き合う姿勢が評価されていたし、信頼されてもいた。
何より剣の実力が桁外れである。
中にはその強さとストイックな性格に熱狂的なまでに憧れている騎士もいた。
ウィルドが騎士隊長となってからまだ一年程度だが、まぁまぁ順調な日々だと言えるだろう。
そう。仕事については、問題ない。
一生懸命に剣の腕を磨き、真面目に部下たちと向き合えばそれでいい。
書類仕事は少し苦手だが、優秀な補佐もいるので何とかなっていた。
―――問題は、家庭だ。
夜勤以外の兵を送り出した後、事務仕事をこなすべく執務室に戻ったウィルドは大きな身体を椅子に沈みこませ、山と積まれた書類を前に溜息を吐く。
「……うちの嫁が、いまだに遠慮の塊なんだが」
「そりゃあ奥さんは自分が怪我したことが原因で、お前の人生縛ることになったって思ってんだからなぁ」
ウィルドの突然の悩み相談に軽い調子で答えたのは、腕組をしつつ壁にもたれかかった姿勢でいるローシーだ。
見習い時代から共に騎士道を進み、現在はウィルドの補佐役としてついてくれている男だった。
柔らかな癖のあるこげ茶の髪を首の後ろで束ね、たれ目な目元を更に下げ、彼はウィルドの思い悩む姿にケラケラと笑う。
ひょうきんな性格なのだ。
項垂れるウィルドを笑うばかりのローシーに一睨みしてから、ウィルドは複雑な気持ちで唸った。
「なぜだ。なぜリンは信じてくれない」
出来る限り、大切にしている。
なのに、どうして伝わらない。
……子供だったウィルドの浅はかな行動がきっかけで彼女の足の自由を奪った事はもちろん後悔しているし、罪悪感はずっと一生抱きつづけるだろうことは間違いなかった。
しかしウィルドが純粋にリンを愛しているのは事実。
彼女の心配しているような「責任をとっての本意ではない結婚」では絶対にないのに。
いや。結果的には両家の話し合いで、責任をとっての結婚という話になってしまったが。たとえ怪我がなくても間違いなく、自分は彼女に婚姻を申し込んだだろう。
だが、そういくら伝えても、信じて貰えない無いのだ。
気を使っての嘘だと取られてしまう。
(どうすればいいのか……)
皮肉にも、ウィルドがリンへの恋心を自覚したのは、あの事故がきっかけだった。
自分の悪戯が原因で怪我したことが原因で熱を出したリンの、見舞いに行ったとき。
彼女はどうしてかウィルドに「ごめんなさい」と謝るのだ。
何をどう考えても、リボンを奪い、木の上に引っかけ、自分で取ればいいと揶揄った自分の責なのに。
リンは、「ウィルドさまばかりが叱られることが嫌」だと泣いた。
「こんなことで婚約が決まってしまうことが申し訳ない」と謝った。
「怪我したからじゃなく、もっとふつうにウィルドさまのところにお嫁に行きたかった」と訴えた。
熱で真っ赤になった顔で、色素の薄い長い髪を乱したまま、ぽろぽろと泣きじゃくりながら、胸にきつく抱きつかれてそんなことを言われれば。
もう落ちない男はいないと思う。
とにかくもう、その姿がとてつもなく可愛くて。愛おしくて。
そして今彼女を泣かしている原因が自分だと言うのが、本当にもどかしかった。
だから――――もう二度と泣かせないと、心に誓った。
その日から、リンはウィルドにとっての一番の宝物になった。
とても大切な存在で、もう二度と傷つけたくないから、丁寧に優しく扱う。
リンは昔みたいにウィルドが悪戯をしなくなったことが不思議でならないらしいが、大切で守りたい存在となった彼女にそんな事出来ようはずもない。