前編
「ん……」
―――――彼女が目を覚ますと、若草色のカーテンの隙間から朝日が差しこんでいた。
しんと静まり返った薄暗い室内。
窓から伸びるその細い光の帯をたどり、壁にかけてある時計に視線を移動して時間を確認する。
身を起こし、小さく漏れたあくびを口元に持ってきた手で押さえながら、リンは隣にある温もりを見下ろした。
「……良く眠ってらっしゃるわ」
隣に横たわっているのは、穏やかな寝息をたてている夫。
名をウィルドという。
大柄で筋肉質。短く刈り上げた黒髪に太い眉という精悍な顔立ちの彼は、容姿にたがわぬ生真面目かつ堅物な男だ。
妻であるリンは寝乱れた長い薄茶の髪を耳にかけつつ、普段より無防備な夫の寝顔をぞんぶんに眺め楽しむ。
(昨夜もずいぶん遅くのお帰りだったし……)
夫ウィルドは王城付き騎士隊隊長の地位を若くして賜っていた。
しかしまだ隊長に就任して一年。
慣れていないことも多いらしく、昨夜も仕事から帰って来たのは遅く日付を超えてからだった。
妻としては、頑張りすぎる夫の体が心配なところだ。
(疲れてるでしょうから。今日こそ、今日こそ……、起こさないように)
せめて朝はぎりぎりまで寝て貰おうと、リンは音をたてないように、そっとシーツから抜け出した。
それからベッドの隅へ這って移動すると、足を降ろして床に置いてあるスリッパを履こうとする。
……が。
「リン」
低く掠れた声が耳朶に届いた。
同時に、背後からぬっと伸びてきた太い腕がリンの腰をさらう。
そのままベッドから身を乗りだしていた体を、引き戻されてしまった。
「まぁ旦那様。おはようございます」
「あぁ、おはよう」
自分のものよりも高い体温にすっぱり包まれ、リンはわずかに頬を赤らめた。
後ろから抱き込むウィルドが首元に顔をうずめ、頬をそこに摺り寄せた後にチュッと小さなリップ音がして、離れていく。
「っ……」
首にこもる熱に更に顔を赤らめながら、リンはこっそり眉を下げた。
(あぁ。今日も失敗だわ)
――――彼が起きるまでに、きちんと身支度を整えておきたかったのに。
ただでさえ化粧をして、髪を結って、ドレスを着てと、女の朝の支度には色々時間がかかってしまう。
そんなリンに反して、夫は洗面を終えたら後は決まった制服を着るだけ。
短く刈り上げた髪型はとかす必要もない。
訓練での汗で流れ落ちるから整髪料などもつけず、起きて十分程度で出かける準備の完了だ。
そんなだから余計に夫婦で身支度による時間の差が出来てしまう。
なのに夫はリンだけが先に動くことを、毎朝毎朝、許してくれなかった。
「まだ寝てらして宜しいのですよ?」
首だけを後ろへひねり、口の端をあげつつも、ゆったりとした口調で言うが、彼は太い眉を寄せて首をふる。
「構わない。もう充分寝た」
そのままウィルドはカーペットの敷かれた床へと降り、わざわざ膝を付いてリンの足にスリッパを履かせてくれる。
夫に跪かせていることが心地悪くて、リンは眉を下げた。
「過保護です。これくらい問題なく出来ますから」
「妻を大切にして何が悪い」
「っ……、もうっ」
リンは子供の頃におった怪我が原因で、少し右足が悪い。
本当に少しだけだ。
走ったりダンスしたりは難しいけれど、杖が無くても問題なく立てるし歩ける。
少しだけ歩く速度は遅いかもしれないが……それでも日常生活に何の問題もなかった。
だからこうして、彼がわざわざスリッパを履かせてくれる必要なんてないのに。
(毎朝思っているけれど、気を使い過ぎだわ)
リンはウィルドのことが好きだから、もっと役に立ちたい。頼れる妻になりたいと思っていたし、最低でもせめて迷惑をかけない様にしたい。
なのにいつも先回りして止められて、それが叶わない。
全ては旦那様が甘やかしすぎ過ぎることが原因だ。
……リンが使用人に手伝ってもらい朝の身仕度をするあいだも、早々にそれを終えた夫ウィルドは衝立の向こうで腕組みをして仁王立ちしつつ待っている。
「…………」
無言で、微動だにせず待っている。
毎朝こうやって待たせてしまうから、リンは彼よりも早くに準備を始めたかったのに、今日も出来なかった。
「奥様。髪はこれでよろしいでしょうか。本日はお客様がいらっしゃるとの事なので、銀細工の髪飾りを挿しましたが」
「えぇ、問題ないわ。有り難う。……ウィルド様、仕度が終わりましたわ」
「あぁ」
準備が出来たことを知らせると、仁王立ちしていた彼は動きだす。
「行くか」
衝立の向こうからぬっと現われたウィルドはリンの手をとり、鏡台前の椅子から立ち上がる助けをしてくれる。
その手をつないだまま、リンを連れて階下にある食堂へ向かう。
ゆっくりゆっくり、リンが転ばないように気をつけながら。
使用人たちは仲睦まじく寄り添い合う夫婦を微笑ましく見ていてくれるが、リン的にはとても恥ずかしい。
それに一人で出来るのに。
手を貸してもらわなくても大丈夫なのにと、もどかしくなるのだ。
だから今日も、手を引かれ階段を降りながら訴えてみる。
「一人で大丈夫ですわ。お手を煩わす方が心苦しいです」
「……それでお前が階段で転んで落ちて怪我をすような事があれば、俺は一生涯後悔するだろう」
「転びませんっ」
「駄目だ。信用出来ん。せめて家にいる間は俺が手を取る」
リンが拗ねて頬をふくらましても、眉を吊り上げてみせても。
ヴィルドは痛くもかゆくも無い様で平然とリンをリードし続ける。
(うーん)
もう少し強く、本当に嫌な顔をすればこの人は強制しないと分かっている。
どこまでもリンに甘い人だから、リンが強く願えば聞いてくれるのだ。
でも彼の大きな手に手を取られている事や、頼もしくリードされている事が嬉しいのは事実。
ただ夫婦があまり近い距離で接しているところを使用人に見られるのが恥ずかしいというだけのリンは、観念するしかなかった。
朝食を終えた後、またウィルドに手を取られ、ゆったりとした歩みで玄関へ向かう。
玄関まで送りに出たいというのだけは、ウィルドが必要ないと断ってもリンが絶対に譲らない毎朝のお願いだ。
今度は階段が無いので、手を取り合うのではなく、彼の腕にリンが手を添える形で歩く。
玄関扉の前に辿り着くと、すでに馬車が横付けされていた。
「では、お気をつけていってらっしゃいませ。ウィルド様」
城へのお勤めに出るウィルドに、リンは丁寧に頭をさげた。
同時に、後に控える二人の使用人も頭を下げる。
「あぁ」
それに頷きを返し外套を羽織いながら、ウィルドはリンの顔を覗きこんできた。
「リン。私は今日も遅くなるから、先に休んでいろ」
「……」
「……絶対だぞ」
その念押しに、リンは返事をせずに笑顔を向ける。
「…………」
「リン…………」
眉を寄せる夫と、笑顔で無言の妻が対峙し合う。
無言での願とした拒否に、もう時間も無いウィルドは顔を顰めながら嘆息し「行って来る」とぼそりと告げ、頬に軽くキスを送ってから馬車へ乗り込み出立した。
* * * *
夫であるウィルドが出かけてしばらくし昼を過ぎた頃に、屋敷に来客があった。
「リンっ! ごきげんよう!」
玄関に迎えに出たリンの姿を見るなり、勢いよく駆けて来て抱き付いてきたのは、友人のフルラだ。
くるくるに縦ロールした金髪に、長いまつげ、バラ色の頬と唇。
リンよりも二つ年上の二十一歳。
とても華やかな容姿のフルラ。
背の高い彼女に抱きしめられると、リンの顔はちょうど彼女の豊かな胸に埋まることになる。
「い、い、いらっしゃい、フルラ。苦しいわ」
柔らかくて気持ちいいけれど、息が出来ない。
「あらごめんなさい」
「いいえ」
「……んー、顔色はいい様に見えるけれど。リン、今日は体調は大丈夫?」
「ええ、何も問題ないわ」
今の季節は冬。
冷やすと足に痛みを生じてしまうリンのことを気遣ってくれた彼女の言葉に、リンははにかんで頷いた。
「そう。良かったわ。あと心配なのは……あの熊かゴリラみたいな旦那様にいじめられてないかしら? って事くらいね」
「まぁ。フルラったら。会うたびにそれなのね。ふふっ」
『大好きなリンを取られたから』という理由で、フルラがウィルドに対して少しキツイ物言いをするのはいつものことだ。
あからさまに突き出した唇と膨らんだ頬とその口調から、ほぼ冗談で言っているのだと分かるので、リンも笑って返す。
「平気よ。ウィルド様はとても良くしてくださるわ」
「そうね……悔しいけれど大切にされていると思うわ。でもいじめられたら直ぐに言ってね。 家出してうちの子になっても構わないのだからね!」
「有り難う」
素直で明るいこの友人がリンは大好きだった。
フルラも衒うことなく「大好き!」と会うたびに伝えてくれる。
こういう関係を親友と呼ぶのだろうなと、リンは思っていた。
それからリンとフルラはサンルームへと移動した。
陽の当たる暖かな部屋で、飾った色とりどりの花々に囲まれながらお茶を楽しむことにしたのだ。
「今日はフルーツティーを用意してみたの」
ガラス製のティーポットに、生のまま小さく切ったオレンジと林檎、ブドウとキウイ。
更にハチミツと、紅茶の茶葉を入れてある。
テーブルの正面の席に座ったフルラを前に、リンはティーポットへと湯を注ぐ。
ガラスのティーポットの中に鮮やかな果物の色が浮かぶようすは何だか可愛らしく、女同士のお茶会にはもってこいだ。
しばらく蒸らしてから、琥珀色の紅茶をカップへと注ぐ。
そうするとふわり。辺りに果物と紅茶の匂いが広がった。
「わぁ。甘くて爽やかないい香り。美味しそう」
「フルラは絶対好きだと思ったの。うちの人は甘すぎて好みではなかったみたいだけど」
「まぁこの香り良い紅茶が嫌だなんて信じられない」
「うーん。でも、好みでないって絶対に言わないで、お代わりまでするのよ? 眉間に皺がよるから、丸わかりなのにね」
「リンが手ずから入れてくれたものだからね。それだけで残してなるものか! ってなるのでしょう? 相変わらず愛されてるわねぇ」
クッキーをつまみながらからりと笑うフルラの台詞に、リンは困ったように眉をさげた。
彼女は何の意味もなく言ったのだと分かっているのに。
胸の奥がチクリと傷んでしまったのだ。
さらに相手がフルラだったから、リンはすっかり気を抜いていて、思わずそのまま口に出してしまう。
「本当に愛されているのだったら、いいのだけど……」
「あ……」
リンが落としたその不安に揺れる言葉に、クッキーを食べようと口を開いていたフルラの動きがぴたりと止まり、顔が強張った。