序章 2
鮮やかすぎる月が、地上を青く照らす。
『果ての大地』の夜は、厳しい。気温が一気に下がり、高地では雪が降ることもある。下手をすると、凍死することさえあるのだ。
「兄上、寒くありませんか?」
「大丈夫だよ。背中が、あったかいから」
グランは、自分の懐に包むセシルをさらに引き寄せ、マントを深く合わせた。
背中のこそばゆさに、二人を乗せたラバが、ブルルと、頭を振った。
ラバは、雄のロバと雌のウマとの間に生まれる。丈夫な体を持ち、粗食に耐え、馬ほど足は速くないが厳しい山道や荒れ地にも強い。
大きさは様々だが、馬並みに体格が大きいラバは、高値で取引される。
グランは、このラバを手に入れるために、代々受け継がれた腕輪を手放した。
あの男に、この地へ飛ばされた。
本当は兄だけを、いや、男の目にはセシルしか映っていなかった。
グランは、二度と離れるのはご免だと、セシルを抱き込み二人一緒に飛ばされた。
腕輪は、そのとき身に着けていたものの中で、ある意味一番都合のいいものだった。
見ただけで、散りばめられた宝石が極上品だとわかる。ロウダン帝国皇帝を示す標がない ―― ばれれば、命を狙われるのは必至。兄を守ることもできない。
また、惜しくもなかった。
あれは、ロウダン帝国の皇帝が、皇后に贈る腕輪だ。
最後に身に着けていた皇后は、グランの母アーリャだ。
グランは、セシルを重責の担う皇后に就ける気はない。他の誰かを迎える気もない。母への懐古の念などあるはずもなく、腕輪は、無用の長物だった。
ラバに化けた方が、よっぽど役に立つ。
このラバで、この厳しい大地を渡り、兄と二人、『黒の大地』ローダン帝国へ帰るのだ。
「あのさぁ、グラン」
「兄上、何か」
思考に沈んでいたグランに、セシルは顔だけ向けた。
「店のおやじさんに、悪いことしたよね」
「そうでしょうか」
「そうだよ。店の修理代もかかるだろうし」
「兄上が気に病む必要はない」
グランは、知っていた。
あの店でセシルが働くようになってから、セシル目当ての客が増え、店は、かなり儲かったはずだ。
根がお人好しのおやじは知らないかもしれないが、強突張りの女将は、毎晩小躍りしながら金を勘定していたのだ。
修理代の比ではない。
木偶の坊の息子も、気にいらなかった。四六時中舐めつけるような視線で兄を見つめていた。
そう、宿屋兼飲み屋のあの店で、セシルは、確かに仕事が出来ず、いつも店の主人に雷を落とされ、客から文句を言われていた。
だが一方で、疲れ切った男たちに優しい言葉をかけ、渇ききった男たちに穏やかな笑顔を向けた。
この殺伐とした大地に、一筋灯った明かり。その明かりに吸い寄せらるように、客が訪れた。
訪れた客は、あの町に似つかわしくない、やわらかな春の陽ざしのようなセシルに、荒れた心を癒されたのだ。
グランに、セシルの窮地とゾグドの悪だくみを知らせてくれたのも、そんな客の一人だった。
逆に、その存在が癇に障ったのは、酒を浴びせられた元貴族だ。
セシルの、のほほんとしたぼんくらぶりは、それでも生きて行くことができる世界 ―― かつて暮らした加護を受けた大地 ―― を、貴族だった男に思い出させた。
人に情けを掛けるとか、笑うとか、何かが豊かで、どこかに余裕がなければ、できないことだ。
この生きづらい町で、どれも、自分が失ったもの。それを、目の前の給仕は持っていた。
だから、セシルを許すことができず、責め続けた。
もう、帰ることはできない。満ち足りた暮らしにも、平和で穏やかな暮らしにも。
ただ、元貴族は、知らない。優しさの陰には、痛みや悲しみ、そして強さがあることを。
「あれ、グラン、怪我してたの」
冴えた荒野の月明かりが、セシルの視線の先、手綱を握るグランの手袋に、鈍い艶を浮かび上がらせていた。
「かすり傷です」
「だめだよ、ちょっと見せて」
セシルが、強引に手袋を外させると、小さくはない裂傷があった。
この傷は、あの雑魚ども相手にできた傷ではない。
グランは、護衛の仕事をしていた。
対するのは、人のみならず、獣にも及んだ。『果ての大地』の獣は、手強い。
厳しい自然に身を置くせいか、凶暴さも、大きさも、『黒の大地』とは、比べ物にならない。
さすがのグランも、傷を負うこともある。
セシルは、グランの傷に手をかざした。傷の辺りが、ほてり出す。
手がよけられたあとは、傷は、なくなっていた。
「ほら、もう大丈夫だ」
セシルは、ほっとしたような笑みを見せたが、グランは、応えることができなかった。
この力は嫌いだ。この力を使って欲しくない。だったら、治さなくていい。
治癒の力は、元々セシルに備わっていた力だ。
以前、グランが拳を怪我したとき、セシルは傷をなめて治癒した。
今は、簡単な怪我なら、手をかざすだけで、治してしまう。
セシルのこの力は、あの男の体液を、身体の中に受け入れたために、強められたのだ。
兄上、知っておられるか。
ひどくうなされる夜があることを。
そのたびに、グランは、セシルを抱きしめ「傍らにいるのは、私です。弟のグランです」と、言い聞かせるのだ。
夜が開け始めた。『果ての大地』の、朝は美しい。
岩山や石屑だけの何もない雄大な大地を朝陽が赤く染めあげる。
もう一つ、この大地に良いところがある。
ここでは、白の民が、珍しくないことだ。三つの大地から寄り集まった民は、色など気にする余裕はなかった。
当然、混血児である白の民も多い。
セシルは、自身の色を気にすることなく、のびのびと、そして、想ったよりこの状況を楽しんでいるように見える。
今は、グランの腕の中で気持ちよさそうに眠っている。
グランにしても、けっして楽な道中ではないが、皇帝の重責を離れ、兄と二人だけの旅に満更でもない。
過去も身分も全て忘れることを許される、この大地で、この旅で、あの禍に傷ついた兄の心を癒せれば。
いや、本当は、戻りたい。
かなうなら、一日でもいい。絶望に打ちのめされる禍の前に戻りたい。