序章 1
この地に統べる者はいない
荒涼とした岩壁や岩屑だらけの光景が
草木もろくに育たぬ不毛の地が
どこまでも、どこまでも続く
何者をも寄せ付けない厳しさに
人々は、その地を忌避してきた
肥沃な土の加護を受けた『黒の大地』は、東に遠く
豊かな水の加護を受けた『蒼の大地』は、西に遠い
ふりそそぐ陽の加護を受けた『赤の大地』は、海の向こう
加護を受けないその大地を
加護の届かぬ果て、全ての果て
『果ての大地』と、人は呼んだ
日が西に傾き始めた。
死の荒野とも言われるこの地にあって、わずかに点在する水と緑の茂み ――オアシス―― にも、そろそろ夜の帳が降りてくる。
一日の生業を終えた人々が、町に帰ってくる。
町と言っても、帝都のごとき石造りの建物が、整然と並んでいるわけではない。郊外のように、精霊を祀る寺院を中心に、街並みが広がっているわけでもない。オアシスのそばに、粗末なバラック小屋が、小石をばらまいたように、無秩序に群がっているだけだ。
その小屋と小屋の間を、曲がりくねった狭い路地が通る。
行き交う住人の、精霊の加護を示す髪と瞳の色は、蒼や赤、黒や白と様々だった。
この町にも、それなりに店がある。当然のように飲み屋も何件かある。人が生きて行くためには、やはり必要らしい。町の隅にその飲み屋はあった。ここは、二階が宿屋になっている。人の往来があれば、やはり宿屋も必要になる。
店は、混み合っていた。取り立てて飯が美味いわけでも、安いわけでもないのだが、ここ最近、この店は、いつもこうだ。
店内は、きちきちに並べられた卓を囲み、ぎゅうぎゅうに気の荒い男たちが、座っていた。
気が荒いのは、この店の客だけではない。この地に住む者たちは、往々にしてそうだ。顔立ちも険しいものが多い。厳しい環境の中では、そうならざるを得ないのだ。
その強面の男たちの間を、卓と卓の間を、若い給仕が、覚束ない足取りで料理を運んでいた。
「おい、こっちはまだか!」
「す、すみません」
「こりゃ、俺の注文したものじゃねぇぞ!」
「失礼いたしました」
給仕は、怒鳴られるたびに丁寧に頭を下げていた。そのうち、厨房からも声が飛ぶ。
「新入り!早く、酒を持ってけっ」
「は、はいっ」
新入りでもある給仕は、あわてて返事をし、イラつく主人から幾つもの酒を受け取り、トレーに載せた。ごった返す店の中を、それこそ慎重に酒を運んでいたが、突然、後から尻をつかまれた。
「ひゃあっ」
けたたましい音が、店に響く。
気がつけば、目の前の客は酒を頭からかぶり、床は悲惨な状態になっていた。
「くそガキが、この私に何をするんだ!」
「も、申し訳ございません」
給仕は、怒りの収まらない客に、何度も頭を下げているが、自分の尻をつかんだ後ろの客のことは、すでに念頭にない。良く言えばこだわらない性格格、いや、要は、ぼんくらだ。
奥からは、鬼の形相の主人も飛び出して来た。
「こんの役立たずが。また、やらかしやがって」
「本当にすみません。この分も、給金から引いて下さい」
「そんなもん、とっくに無くなってるわっ」
この新入りは、はっきり言って使えなかった。というより、全く使えなかった。仕込みを手伝わせれば、野菜よりも自分の指を切る。掃除をさせれば、不器用さに店の物を壊す。給仕をさせれば、毎回この始末。
ちょっと見てくれが良いというだけで、あのがめつい女房と息子は、置くと言うが……。そう言えば、こいつの弟も厄介だった。
ぬれ鼠の客は、まだ怒りがおさまらない。
「おい、おやじ、この服は、そん所そこらのものとは、違うんだぞ。どうしてくれるんだ」
「旦那、どうかお許しを」
この男は、この辺りでは、金回りのいい方だった。確か、出は、貴族ということだが、その分気位が高く面倒だった。おおかた、都を追われでもしたのだ。この辺りでは、珍しくない話だ。
この『果ての大地』に好き好んで来たものなどいない。かつては、精霊に見捨てられた地と、足を向ける者も、まして住み着く者もいなかった。
やがて、加護を受けた大地に住むことが許されなかった者、政権争いに敗れ逃げのびて来た者、罪を犯しこの地に流された者、道を違い迷い込んだ者たちが、唯一、生き延びることができるオアシスにたどり着き、居を構え、子を成し、町ができた。
あいかわらずびしょびしょの気位が高い客は、「恥も欠かされた」と、給仕をしつこくなじっている。ひたすら平謝りする給仕に、後ろの男が声をかけた。
ごつい体の上に、狡猾そうな顔が、載っていた。ここでは、ドグゾと名乗っている。おそらく、偽名だろう。素性を明かす必要がないのだ、この町では。
「おい坊主、よかったら、俺が、肩代わりしてやってもいいぜ」
「ほんとですかい、旦那」
答えたのは、店のおやじだった。そばには、いつのまにか、女将とおやじ譲りの太鼓腹をした息子もいた。
「でも」と、ためらう給仕を抑え込んだ三人に、ドグゾは癖のある笑顔を見せ、「そのかわり」と言い、そばだてる三つの耳に「この坊主をもらう」と告げた。
その意味は、一つ。
一瞬の間があった。
「どうぞ、どうぞ。どこへでも、連れてっておくんなさい」
今度は、女将が答えた。欲の皮が突っ張った顔に、爛々と目が光る。抜け目なく、「安くはないんで」と、付け足すのを忘れなかった。
客たちが固唾を飲む中、ドグゾは、十分すぎるほどの金を差し出した。元貴族は、「許す」と、濡れた服の弁償代を懐に入れ、店を後にした。ごうつく女将は、残りの金を掻っさらうように、持ってきた鍋に入れた。
成り行きに茫然とする給仕の腕を、分厚く硬い手が、つかんだ。
「ま、待って下さい。俺、働いて返しますから。他の仕事なら何でもします。お願いします」
給仕は懇願したが、救いの手を差し伸べる者はいない。渦中の男は、最近、勢いを増してきた男だ。取り巻き連中もいる。この狭い町で、不興を買うことは、避けたい。
嫌がる給仕を連れ出そうとした成上りの動きが、止まった。見れば、剣先が、行く手を遮っている。
「兄上の手を離せ」
地をはうような声が、低く響いた。
「グラン」
弟の名を呼ぶ、新入りで、使えない給仕の名は、セシルと言う。
「おいおい、若いの。勘違いするな。俺は、尻ぬぐいをしてやったんだぜ。その剣を、どけろ」
男は、最後の言葉に、どすを利かせた。だが、剣が降ろされる気配はない。
「知らないとでも思っているのか。この騒ぎの原因は、貴様だ」
「なんだと」
荒くれどもが、周りを囲んだ。ドグゾの息の掛かった男たちだ。勝ち誇ったように余裕の笑みを浮かべたドグゾは、セシルを自分の胸の中へ抱き込んだ。
「今夜は、なかなかのご馳走だ。お前らにも裾分けしてやってもいいぞ」
「そりゃいいぜ」「たまんねぇな」「ごつぁん」と、取り巻き連中は気炎を挙げ、中には股ぐらを抑え込む輩もいた。
グランの目が据わる。
「貴様ら全員、駆逐する」
「ふん。やれるなら、やってみろ。若造が!」
殺気が、辺りを包む。
「グラン、駄目だ。お客さんに、手を出しちゃ駄目だ」
兄の言葉に、グランは素直に剣を納めた。
それに乗じて、男たちが一斉に襲い掛かる。
元々、血の気が多いのだ。酒も入っている。ここは『果ての大地』だ。
広くはない店内で、怒号とともに、拳が、蹴りが、次から次へと繰り出される。間に、剣も加わる。
グランは、それらを鮮やかにかわし、足技一つで打ちのめした。いつの間にか、セシルの腕は、自由になっていた。
セシルが、グランに詰め寄った。
「グランッ!手を出しちゃ駄目だって言ったろ!」
「出したのは、足だけだ。兄上」
「そうじゃないよ」
やはり、この弟も、厄介者だった。
床の上には、厳つい男らが、折り重なるようにのびている。その中に、当然、ゾグドもいる。周りは、卓やいすが吹っ飛び、店の中は、竜巻が通り過ぎたように滅茶苦茶だ。
これだけの大騒ぎが起こっても、警ら隊や、警備兵が駆け付けることはない。集まるのは、野次馬だけだ。
『果ての大地』に、統治者はいない。従うべき法もない。
惨状が広がる店内で、店のおやじは、我に返った。そして、叫んだ。
「出て行けーっ!お前ら兄弟、今すぐ、出て行けーっ!」
活動報告にも書いたのですが、足を剥離骨折してしまいまして、全治1ヶ月。
大したことないでしょと侮っていたら、3週間は、しっかり固定と。
マジですか。車も運転できないっしょ。
突然、ぽっかり空いた時間に書いてしまいました。
『白』の第2部です。
久しぶりにセシルとグランを書いて楽しかった。
よろしくお願いします。