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『somebody that i used to know』

作者: JOEmasa

 列車から降りると、水滴が頭を打った。細長いホームの屋根は向こうの方で途切れていて、昼下がりの空はまだまだ明るかったが、大きめの雨粒がいくつか落ち始めていた。

 傘は持っていなかった。出る時に降水確率は見ていたものの、傘を持つ煩わしさを嫌ったのだった。しかし、こうしていざ降られると、何故建物に入るまでに降り始めるのかと腹が立った。それはいかにも無益な考えだった。にもかかわらず、僕は時たまその怒りを許した。それが自然に対する対等な付き合い方にも感じられたからだ。

 一人ずつしか乗る事が出来ないエスカレーターが、上りと下りの一本ずつだけあって、階段はなかった。ちっぽけな駅で、降りればすぐ改札である。それを通る時に、僕は奈津実を見つけた。少し茶に染めたボブで、後ろを向いていたがすぐに奈津実に違いないと思った。

 こんな駅に何の用があるのかという疑問が、声をかけるのを躊躇させたのかもしれない。いや、風俗街くらいしか有名でないこの場所にいる自分の都合というものが、邪魔したというのもあるだろう。ともかく僕は、その場に立ち止まってしまった。そしてまばらな人の流れの中で、どうしようかと考えていた。

 そもそも、彼女とは一年以上前に別れたきりだった。あれからは一度も会っていないのだから、気になる事はあっても、会話は簡単には見つからなかった。が、やはり話し掛けてみる事に僕は決めた。膝まであるデニムスカートに、白いブラウスとベージュのシャツという清潔な出で立ちが、あまりに自分の知る奈津実に似ていたからだった。

「よう」

 第一声は、何気ない風を選んだ。すると彼女は振り返り、あ、と小さく口を開けてこちらをじっと見た。それは見知った彼女に相違なかったが、次に出た言葉はまるで異なっていた。

「こんにちは」

 こんにちは、である。僕はそのよそよそしい挨拶に、久しぶりと返すのがやっとだった。しかし結局返事はそれだけで、会話は簡単に雨音にさらわれてしまった。彼女の物言いとはつまり、単なる後輩だったあの当時のもので、そこには強い意志や冷たい響きなどが特別ある訳でもなく、ただ当たり前の事実だけが肌を伝ってきた。

「誰かと、待ち合わせか何か?」

「うん」

 これが精一杯だった。いくら戸惑い、心外に感じていても、僕の吐ける台詞にも表せる態度にも、知らぬ内にはっきりとした限度が突き付けられていたのだ。かつて幾度となく身体を重ねていようと、耳元で愛を囁いていようと、それは全く厳かだった。

 僕達はただの知り合いだったのだ。そしてそれがいとも簡単に過去を消し潰してしまった。あの日の僕と彼女を、亡き者にしてしまった。いやそれどころか、もしも僕が立ち止まらなかったり、彼女がぷいと横を向いたりしたならば、その瞬間にはもっと悲惨な事が起きていたのである。それは疑うべくもなく、他者だった。何者でもない、影法師だ。

 つまるところ、僕が驚いたのはその事実に他ならなかった。それはいつか祖父が死んだ時に感じた、確かで、呆気ない、本物の喪失感と何ら変わらなかったのだ。遺灰を目の前にして、もう二度と写真以外で彼を見られないのだと知った、あの忘却の課程と。


 雨は止みそうに思われたから、しばらく待つ事にした。その間、駅の軒先から、横へ伸びる路地をぼうっと眺めていた。目の前のコンビニ脇には灰皿が置かれ、そこには労働者風の男や汚い化粧をした女が何人かいて、煙草片手に缶ビールを飲んでいた。

 高架橋に沿った細い路地では、張り巡らされた電線の下、居酒屋、クリーニング屋、美容院、焼肉店等が我先にと看板を伸ばしている。自転車がたくさん止まっているだけで、人の往来はほとんど見られない。クリーニング店からは紫陽花が顔を出していた。それは梅雨を喜び白い花弁を満開にしていたが、あまりに見事に咲かせた重みで茎が垂れ、地べたの泥に真白を濡らしていた。

 僕は腕を組み、空模様を見つめた。何もしないでも時間は過ぎていった。奈津実もまた、どこかへ去っていったはずだ。時計が三時を過ぎた頃には雨足も弱くなり、僕は橋を渡って川沿いを歩き始めた。

 緑の葉をつけた桜並木の下を、ベビーカーを押す女性やジョギングする老人とすれ違いつつ、行った。小さな十字路の歩行者用信号をわざわざ待って、それから角にあるガソリンスタンドを曲がった。そこには従業員が一人立っていたが、搭乗者のいない車が何台も止まったままになっていて、何か廃墟めいた静けさを感じさせていた。

 横切るのは商店の並んだ小綺麗な通りなのに、僕が歩くのは建物の影に雑草が繁茂し、腐りかけの雨どいから水の垂れる小径だった。そこに突然、鼠が出た。視界の端を長い尻尾が揺れたかと思うと、大きな鼠が草の中へ入り込んで、隠れきれないままにのんびりと歩いていったのだ。不思議と驚きはしなかった。僕は鼠などあまり見た事がなかったから、面白がってじっと観察をした。

 大きな道路までいく手前のビルに、目的の風俗店があった。狭い階段を上がると、とんでもなく太った男といかにもチンピラ然としたスーツの男がカウンターで暇そうにしていて、僕は手早く受付を済ませた。後ろのソファには、大学生風の眼鏡をかけた暗そうな男が、姿勢を悪くして座っていた。

 紹介された格安レンタルルームは、歩いて三十秒だ。清掃夫と馬鹿でかい声で話をしていたフロントの老婆が、嫌らしい笑い方で挨拶してくるのも、いつもの事だった。僕が愛想笑いを浮かべてから階段を上ると、彼女達はもう会話の続きに夢中だった。ドアを閉めるとそれも聞こえなくなる。手前にシャワー、奥にベッドと、たったそれだけの狭い部屋で、おまけに調度品も古びており、ベッドに敷かれた新しいタオルすらも不潔に見えた。

 僕は薄暗い天井に目を向けて、嘆息した。それから携帯を取り出し、店へ確認の電話をかけた。


 行為を終えた倦怠感、滑らかで柔らかな皮膚の感触、そして温かな肉体の匂い。それらの混ざり合った、水浴びを終えた夕暮れに似た眠気を、僕はこの世で最も幸福なものの一つとして認め素直に従っていた。

 アヤは黙って有線に耳を傾け、たまに暇つぶしのように僕の頭を撫でた。長い黒髪と爽やかな眉をした、しかし気が強そうな二重の女だった。少し地黒なのもその印象を深めた。僕は彼女に抱かれながら、夢見心地のままに口を開いた。

「さっき、鼠を見たんだ。とても久しぶりに。君は見た事がある?」

「ないわ。鼠なんて嫌い」

「でも、ここのすぐ近くだったんだ。君はよくここに来るだろう」

「ええ」

「もしかすると、今までに何度も見ているんじゃないかな。見ているけど、見ていない」

「ねえ。お願いだから、鼠の話なんかやめて。私本当に嫌いなんだから」

 彼女は怒って、僕を離した。そしてごろんと壁の方へ向いてしまった。よくこんな事をする女で、変わっていた。だから気に入ったのかもしれなかったが、いつだってどこまでが本当なのか分からない女だった。いや、女というものがそうなのかもしれない。だとすると、彼女はただの正直者だ。

 僕は奈津実の話をしてみようと思った。アヤがどう考えるか知りたくなったのだ。であれば、出来るだけフェアな語り口でなければいけない。僕の得た不満や理屈は極力見せずに、ただ公平な裁判官としてあの出来事を振り返るのだ。それはどこか白々しく思えて僕は内心苛立ったが、彼女はじっと聞いていてくれた。

 そして少し間を置いてから、別にいいじゃない、と背を向けたまま答えた。

「実際、ただの知り合いとは違うの? 友達か何か?」

「いいや、違わない。分かってるんだよ。彼女は別に悪い事をした訳じゃない。だけどさ、そうしなくたってよかったじゃないか、という事なんだ。そこまで無茶な話じゃない。ちょっとした受け答えなんだ。それだけで何もかもが終わりっていうのは、誰にとってもあまりよくない。そう思わない? だからつまり、そうしなくたってよかったじゃないか、という事なんだ」

「あなたそれ、よく言うわ。そうしなくたっていいって」

 アヤは寝返りを打って振り向くと、猫のように注意深く僕の顔を覗き込んだ。

「不思議な人ね。とても大人っぽいと思うところも多いのに、話してみるとてんでガキ。……きっと強いからね」

「強い?」

「強いわ。そしてお喋り。よくお喋りな娘が怒られるけれど、あなたはお客だから許されてる」

 彼女の手が、僕の顔を這った。形を確認するように、無遠慮に、乱暴に。それが首筋や目の周りを撫でる際には、変な緊張感があった。爪を立てれば彼女はすぐにでも僕の器官を奪えるのだという、慄然とした緊張感だ。

「もし彼女がこういうお店にいたとしたら、あなたどう?」

「……分からない。君は、もし元彼が客として入ってきたら?」

「殺してやるわ」

 これもまた、厳かな事実だった。そして僕は、彼女の掌に身を預けながら、こちらの方が幾分真っ当だという気がしたのだった。


「とても可愛かったんだ。例えばふと人が字を書くのを見ると、それが全く気取らず、だけど何て可愛らしいんだろうと感じる時があるだろう? そうすると僕は、その人は本当に可愛らしい心を持っているんだと、真実思うんだ。彼女といるとそんな連続だった。仕草だとか言葉だとかがとにかく新鮮で、いつだって田舎から出てきた少女みたいによく笑ったり驚いたりして、本当に楽しそうだった」

 時間の経過を示すタイマーが、また一つ無感動に鳴った。

「ポーカー、分かる? 彼女にもしポーカーなんかやらせたら、大変だったと思うな。これは言い切れる。絶対に自分に良いカードが回ってきたのを、隠せやしないよ。それに、例え相手がどんな手を持っていたとしても、一度自分の気に入る役が手に入ったら、きっとニコニコしながらチップを置いていってしまうだろうな。エースのワンペアなんかが手に入るとさ」

「別れは、彼女から?」

「うん。今まで本当にありがとうって、しきりに言っていた。彼女は心の底から感謝しているように見えたよ。でも、ごめんなさいと、決して聞く耳を持ってくれなかった。きっといつか貸したCDの事が、ずっと引っかかっていたんだ。僕が貸したCDを聴かなかったんだよ、彼女。時間がなかったからって。だけど話してみると、彼女はいつも聴く自分の好きなものは聴いていたんだ。それで僕はちょっと怒ってね。本当は何でもよかったはずなんだ。彼女が好きなものを楽しめばさ。ただ、彼女から貸して欲しいと言ってきた時に、僕は本当に嬉しかったものだから」

 そしてそれを彼女のためだとも、僕は信じていた。

「ほんの少しの時間と力で、自分の普段触れないものに出会えるんだから、それはとても良い事のはずなんだ。ほんの少し頑張れば、今より自分が良くなって、もっと楽しくなる。辛い事ならまだしも、好きな事でね。それが一番だよ。だけど結局、彼女はしなかった。そんな事すらと、僕は思わずにはいられなかった。好きな事すら、心地よいものばかりを選んで。それが当たり前で、頑張る事がいいのは分かっていても、難しいって」

「きっと、あなたは頭が良すぎるのよ」

 アヤは吐き捨てるように言って、枕元の有線チャンネルをいじった。それは僕の嫌いな言葉だった。彼女は韓国のポップソングが流れ始めたのを確認し、四つん這いで僕を跨いだ姿勢のままこちらを見た。

「これも、くだらない?」

「そんな事はない! くだらないなんて事はないんだよ」

 それは、本当なのだ。確かに、僕の中にはある種の悲しさがあった。飯を食い、糞尿を捨て、寝て、楽な事ばかりを過ごし、酒を飲んでも仕事の話か愚痴しかない、それらを恋人や家族の営みで包むくだらなさと幸福を恐れる、悲しさだった。

「だけど僕は、いつだって人がより幸せになるのがいいと、ただそう思ってるんだよ。嘘吐きに聞こえるかい? 自己暗示的な偽善だって」

「ううん。優しいわ。絵にそっくりな優しさよ」

 彼女は僕の額にキスをして、かすかに眉根を寄せた。

「小さな頃、鬼ごっこは好きだった?」

「うん」

「私は大嫌い。走るのが遅かったから、皆がどんどん遠くへ逃げて行っちゃって、全然追いつけなかったの。一緒に遊んでいるのに、いつも独りぼっちのような気がしていた。きっとあなたは上手に走れるわ。上手という意味も知らないくらい。そして走り方が分からないなんていうような人の事を、嘘だと思うのよ」

「それでも、練習をすれば……」

「そう。あなたはいつも正しいの」

 額へのキスはむず痒くて、どうしても落ち着かない。

「何でも知っていて、正しく考える事が出来る。きっと殆どの場合、それは合っているわ。だからあなたは、一人になる」

「どうして? 僕は彼女の事だって許していたんだ。大抵の人が、ならいいや、と言うのだって分かっている。それで誰も損をしない事も。僕が言っている事だって、単に僕がこうした方が良いと思っているだけで、それだけなんだよ。たったそれだけなんだ」

「ええ。……だけど大丈夫。人は思うよりもずっと、一人で生きられるものだから」

「だけど僕は、人といた方が幸せなんだ。もしレストランで注文を待つ間や何かに、後ろの席から僕と気の合う会話を耳にしたりしたら、話し掛けたいと思うくらいだ」

 アヤは気を落としたような顔をした。それから僕の胸をさすり諭すように首を振った。

「ねえ、あなたずっと自分の弱点を人に見せないようにしてきたでしょう? どんなに親しい人にも」

「男は、そういうものなんだよ」

「自分でマゾだって言っているのに、人に身を任せて支配される事も出来ないじゃない」

「難しいんだ。思いの外」

 可哀想にと、そう聞こえた気がした。それも大嫌いな言葉だった。だから、強い瞳をした。

「あなたは強いわ」

「ありがとう」

「でも正しい事の言いなり。恋愛は、人間への興味よ。あなたが興味あるのは、正しさだけ」

「それじゃあ……」

「平気。正しさはたくさんあるもの。誰もあなたを責めない。彼女もそうだったでしょ?」

 僕は頷いた。そして、事実は掃いて捨てる程ある、というある歴史家の言葉を思い出していた。好き勝手やった挙げ句、情けない生き方をした歴史家だった。

「皆、あなたのような人なら、きっととても良い世の中になるのにね」

 アヤはそう言って、僕の顔を乳房に抱き寄せた。その熱い温もりに、頭の血は急速に駆け回り、感情がぐるぐると巡った。気が付いたら僕は、君となら、と叫ぶように言っていた。

 見上げた彼女の表情は、とても優しい。それは何よりも優しく見えた。しかしその時、無機質なタイマー音が再びけたたましく鳴った。アヤは腕を伸ばしてそれを止めると、美しく小首を傾げた。

「あなた、私の事を何か知っている? 何も知らないでしょう? 名前さえ……」

「だけど、僕は君が好きだ」

「ありがとう。でもね……、そう。それじゃあ、私の本当の名前を当てたら、いいわよ。もしかしたら、あなたなら分かるかもね?」

 聞いて、僕は息を飲んだ。それから彼女を抱きしめながら、必死にこれまでの会話を思い出した。その節々から手がかりを得られまいかと、目を瞑り、眉間に皺を寄せ、店の光景やホームページに載った写真まで思い浮かべた。時間が許されるまで、ほんの少しでも確率を高められないかと努力した。しかし、それだけだった。

「ほら、お店に怒られちゃうわ」

「ああ……、麻衣。どうかな?」

 目を開けると、彼女は少し困ったような顔をしていた。

「やっぱり駄目ね、あなた」


 空は変わらず、灰と白の薄気味の悪い色合いをしている。駅手前の橋まで着くと、川下から湿った風が吹いてきて、僕はそちらを向いた。

 先の方にも、橋がある。その先にも、小さく橋が見えている。川の両側からは木の枝が垂れ、豊かな緑が水に浸かりそうになっていた。それは顔を覗き込むようでもあったし、水を含もうとしているようでもあったし、死を求めているかのようでもあった。

 時計は、六時になろうかというところだった。僕はそうして、しばし立ち尽くしていた。

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